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親鸞の書跡、文書と歴史史料

毛利伊知郎

 専修寺伝来の様々な遺品中、専修寺の性格を最も強く特徴づけているのが、親鸞の書跡である。

 『西方指南抄』6冊(No.1)は、「法然上人御説法事」など親鸞の師法然の行状記、法語、消息類など28篇を、上中下巻の本末計6冊に編集収録したもの。奥書から、親鸞晩年の1256年(康元元)10月から翌年正月にかけて書写されたことがしられる。法然伝中最古の史料で、また他に見られない史料も6篇あり、史料的価値は高い。この親鸞自筆本は、親鸞から高田門徒の有力門弟真仏に与えられたものである。

 親鸞は人々の教化にあたり、仏の功徳、高僧の行績をほめ讃えた和語の讃歌〈和讃〉を数多く残した。親鸞の和讃は、今様の7・5音の4句形式にならい、4句1首が連続する構成で、文学作品としての評価も高い。その代表作が『三帖和讃』で、浄土和讃・浄土高僧和讃・正像末法和讃の三部から成る。専修寺伝来の『三帖和讃』(No.2)3冊は、浄土高僧和讃奥書に、浄土和讃と浄土高僧和讃とが1248年(宝治2)1月の完成、また正像末法和讃は奥書に1257年(正嘉元)3月に完成したと記される。親鸞自筆本とみられてきた専修寺本は、近年の研究により、浄土和讃・浄土高僧和讃本文の大部分は別筆(門弟真仏筆とする説がある)で、草稿本と考えられる正像末法和讃にも、別筆部分の存在が指摘されるようになったが、『三帖和讃』最古の写本として重要である。

 また、『皇太子聖徳奉讃』(No.15)は、親鸞があつく信仰した聖徳太子を讃える和音75首をおさめる。この本は建長7年(1255)親鸞83歳の奥書をもつが、筆跡から門弟真仏の書写と考えられている。

 親鸞は、関東での布教から京に帰った後も、手紙を交換して、門弟たちの疑問に答え、指導を与えていた。専修寺には自筆7通を含む親鸞人消息10巻が伝来し、そのうち自筆消息3通が本展に出品されている(No.3)

 第1通は、1256年(建長8)5月28日に下野団高田の門弟覚信房へあてた返信である。信と行との分別について、信を離れた行も、行を離れた信もないことが説かれる。

 第2通は、12月15日という日付のみで年紀はないが、1255年(建長7)に書かれたと見る説が有力。この消息が書かれる5日前に住房で火災にあった親鸞を見舞いにきた門弟ゑん仏に託して、真仏に宛てた消息である。

 第3通は、慶心房の上書に対する親鸞の返事で、南無阿弥陀仏を唱える他に、無礙光如来を唱えるのは恐れ多く今めかしいという人がいるがどうすればよいのかと慶心が訪ね、親鸞はそれは誤りではないと書き記している。この消息も年紀はないが、1258年(正嘉2)とする説がある。

 また、義絶状ともよばれる慈信房宛親鸞消息(No.17)は、1256年(建長8)5月29日親鸞が息子の慈信房善鸞に親子関係を断つと都から書きおくった消息で、1305年(嘉元3)7月27日の専修寺三世顕智による写本。この消息は、他に写本がなく、親鸞の生涯や初期の真宗史上重要な史料であるが、本状の真偽を疑う研究者もいる。

 真宗では、阿弥陀仏と浄土信仰の祖師達を礼拝対象とするが、阿弥陀仏の尊号と浄土祖師像(真像)の銘文を編集したのが、『尊号真像銘文』(No.4)である。専修寺本は、正嘉2年(1258)6月28日の奥書を持つ親鸞自筆本で、これより3年早い建長7年(1255)6月2日の奥書を持つ親鸞自筆の略本が福井県法雲寺に伝わる。

 浄土念仏の信仰に連なる高僧達の中で、親鸞と同じ法然門下の聖覚は、『尊号実像銘文』の中にもその名が登場し、親鸞にも大きな影響を与えた。その聖寛が浄土念仏について説いた『唯真鈔』(1221年〈承久3〉成立)を親鸞が書写したのが自筆の『唯信鈔』(No.5)で、地方の教養浅い人々が『唯信鈔』を理解し易いように註釈を加えたのが『唯信鈔文意』(No.6・7)である。

 親鸞自筆の『唯信鈔』は、現在4本が現存し、寛喜2年(1230)5月25日奥書本〈信証本〉(No.5)と、文暦2年(1235)6月19日奥書本〈ひらがな本、『見聞集』(No.8)中に含まれている〉が専修寺に伝来している。また、『唯信鈔文意』は、専修寺に康元2年(1257)正月11日と同27日の奥書を持つ2本が現存する。

 文暦2年奥書の『唯信鈔』を含む現在2冊本の『見聞集』(No.8)は、当初は1冊であったらしい。『唯信鈔』の紙背に『浄土五会念仏略法事儀讃』(766年〈大歴元〉、法照作)と『大般涅槃経』(南宋慧厳等訳)とが書写されて見聞の外題がつけられた1冊と、『聖覚法印表白文』(法然六七日忌の際の聖覚の表白文)、『聖覚法印消息』(承久3年〈1221〉12月19日付六条宮雅成親王宛)、『或人夢』が親鸞によって書写された1冊が残っている。

 『大般涅槃経』を親鸞が重視したことはよく知られているが、『涅槃経』(北凉曇無讖訳)の経文を抄出し、一部『業報差別経』、『金光明経』の経文を加えたのが『大般涅槃経要文』(No.9)である。奥書はないが、筆跡から親鸞自筆本と考えられている。『浄肉文』(No.10)も、『涅槃経』中の十種の不浄肉と三種の浄肉を説いた部分の抜粋で、筆跡から親鸞自筆と考えられている。

 真宗所依の経典として浄土三部経を忘れることはできない。観無量寿経本文の欄外や紙背に詳細な註釈を加えた親鸞自筆の観無量寿経註は、阿弥陀経註とともに西本願寺に伝存するが、本願寺第三世覚如の子存覚が親鸞自筆本を書写したのが観無量寿経註(No.19)である。

 親鸞の宗教思想が体系的に述べられた『教行信証』(『顕浄土真実教行証文類』)は、親鸞の代表的な著作としてよく知られている。教・行・信・証・真仏土・仮身土の6巻からなり、経・論などの諸書が要約され、親鸞の見解が漢文体で加えられている。専修寺伝来本(No.11)は、かつては親鸞自筆とみられ、その後親鸞の門弟専信が1255年(建長7)に書写した写本と考えられていたが、近年では高田門徒の有力門弟真仏の書写とみる説が出されている。『教行信証』の古写本は数多いが、専修寺本は東本願寺の親鸞自筆の坂東本(草稿本)、西本願寺の清書本につぐ古写本。

 真宗では、阿弥陀仏の名号を礼拝することが重視され、六字(南无阿弥陀仏)、八字(南无不可思議光仏)、十字(帰命盡十方无■(ガイ)光如来)の名号本尊が数多く制作された。専修寺にも親鸞自筆本を含む八字や十字の名号類が多く伝来する。本展には紺地、黄地の十字名号(No.12.13)と下部に2僧像が措かれた十字名号(No.14)が出品されている。紺地十字、黄地十字と呼ばれる2幅は、絹地に絵画的表現を併用して書かれている。黄地十字を親鸞自筆と見る説もあるが、その筆者と制作時期については、なお検討を要すると思われる。十字名号二僧像中の僧侶は、左の僧に「唯円」、右の僧に「了仏」と読める名札があるが、詳細は不明。南北朝から室町前期頃の制作と思われる。

 その他、親鸞夢記(No.6)は、真仏筆写『経釈文聞書』中の、親鸞の六角堂夢想に関する部分が抜き取られて掛幅に改装されたもの。六角堂の救世観音から夢中に4句の偈文を親鸞が与えられたという親鸞伝中のエピソードを伝える早い時期の史料。また大谷屋地寄進状(No.18)は、1277年(建治3)に親類の末娘覚信尼から親鸞門弟達へ提出された大谷の土地寄進状で、本願寺草創に関係する文書である。

 専修寺には、中世から近世にいたる多くの古文書が伝わっている。蓮如書状(No.20)は年紀はないが、本願寺と専修寺との交渉関係の一端を伝え、織田信長、豊臣秀吉の朱印状(No.22.24)、徳川家康の禁制(No.23)等は近世初頭における専修寺と時の権力者との関係がうかがわれる史料である。


(毛利伊知郎)

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