このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

専修寺−信仰と歴史と文化

毛利伊知郎

〈高田と一身田〉

 専修寺の草創について、寺伝は1226年(嘉禄2)下野国高田において、親鸞が信濃善光寺一光三尊阿弥陀如来を感得して本尊として創建したと伝えている。しかし、創建年次の確証はなく、実際には流罪の地越後を離れて関東各地で布教を行っていた親鸞が、高田の善光寺式阿弥陀三尊を本尊とする如来堂を念仏道場として、人々の教化をおこなったことに専修寺の歴史はさかのばるとする説が有力である。

 専修寺の歴史は、この下野国高田の時代と、本山機能が一身田に移されてからの時代とに大きく二分することができる。

 一身田専修寺の草創について、寺伝は1465年(寛正6)に専修寺中興の祖といわれる第十世真慧(1434〜1512)が下野国高田から一身田に移転したと伝えている。

 しかし、この寺伝は江戸時代になってつくられたもので、真慧は意図的に高田からの移転を行ったのではなく、1474年(文明6)頃真慧がこの地に創建した無量寿院(後に無量寿寺)が一身田専修寺の前身で、16世紀末頃から正式に専修寺と呼ばれるようになったとする見方が近年出されている。

 この無量寿院(無量寿寺)時代の具体的な寺の姿は明らかでない。大規模な阿弥陀堂、祖師堂の存在をつたえる史料もあるが確証に欠ける。当時の仏堂は1580年(天正8)に焼失し、1588年(天正16)に再建された伽藍も、1645年(正保2)の火災で再び失われることになる。

 この正保の火災は、後述のように専修寺の寺観におおきな変化を与えたようだ。従って、専修寺の一身田時代は、1645年(正保2)の火災で仏堂を焼失するまでと、それ以後の伽藍が現在の姿のように復興される時期の2期に分ける事ができよう。

 正保の火災後、専修寺は藤堂藩主藤堂高次から185余石の土地寄進を受け、寺地が現在の広さに大幅に拡張された。また、火災以前は東面して建てられていた御影堂が先ず南面して再建され、如来堂もそれと並んでたてられることになったために、境内の景観がそれ以前と比べて大きく変化したことは容易に想像できる。

 専修寺は、その後も1745年(延享2)と1783年(天明3)に火災にあい、仏堂や殿舎のいくつかを失ったが、御影堂(1666年〈寛文6〉完成)、如来堂(1748年〈寛延元〉完成)は焼失を免れて、他の建築もその都度再建されたために、正保以後の伽藍の規模は、現在のそれと基本的には大きな相違はない。

 一方、高田派が宮廷や幕府と関係をもって、地位を固めたのは、第十世真慧の時代以降のことである。そういう意味で一身田に現専修寺の前身無量寿院をつくった真慧が果たした役割は大きく、また現在の規模に拡大整備をはかり、御影堂を完成させた第十六世堯圓と、如来堂を完成させた第十七世圓猷の二人の住職も、専修寺の歴史上忘れることができない。

 周知のように、親鸞は常陸国稲田を本拠地にして、武蔵、下総など関東諸国で布教活動を行った。下野高田で親鸞の教えを受けた人々は高田門徒とよばれ、親鸞直弟で専修寺第二世といわれる真仏は、下総国横曽根を本拠とする性信とならんで、東国の親鸞門弟中の最右翼の一人といわれた。
 また、真仏の跡をついだ第三世顕智が、京の大谷に親鸞の廟堂が創建される際、中心的な役割を果たしたこともよく知られている。その後高田派の第四世専空や第五世定専も、大谷廟堂の経営については大きな発言力を持ったという。

〈親鸞の書と伝絵〉

 こうした高田派草創以来の歴史を概観してみると、親鸞自筆の書跡や現存する親鸞伝絵中最も古い永仁3年の奥書をもつ善信聖人親鸞伝絵が専修寺に伝えられていることは、宗祖の人格や行いを崇敬対象として重視する真宗教団で高田派が果たしてきた役割と呼応するものとして、その意義の大きいことが実感される。

 近年、実証的な研究の眼が専修寺伝来の親鸞書跡にも向けられ、たとえば『三帖和讃』は、かつてはすべて親鸞自筆とみられていたのが、親鸞直筆部分の少ないことが指摘されるようになった。そうした親鸞書跡の古筆学的な精査は、更に進められる必要があるように思われるが、そうした研究が進んでも、30数点にのぼる専修寺の親鸞書跡は、宗祖の面影を伝える遺産として教団にとっては大きな意味を持っているし、寺外の私たちにも、専修寺という寺院の最も本質に関わる遺品と思われるのである。

 親鸞のやや癖のある書は、当時の書人たちの筆跡と比べると、かならずしも名筆とはいい難い。また、親鸞の書跡は、その多くが彼の思想、教えを門弟たちにつたえるために作成された経文や仏教用語を含む著作類であって、書そのものより内容に大きな意味がある。

 むしろ、親鸞の書跡では、門弟たちへの細やかな思いが素直に綴られた消息類が、書としてはより受け入れられ易いといえないだろうか。そこには親鸞自身の人となりが、何の気負いもなく示されており、私たちに感銘を与えてくれる。

 真宗では、親鸞が説いた教えはもちろん、彼の生前の行いも信仰の対象として崇敬され、親鸞の面影を視覚的に伝えるものとして御影〈ごえい〉が、また親鸞の伝記をより具体的に伝える手段として、伝絵が制作された。

 残念ながら、専修寺には親鸞在世中にさかのぼり、西本願寺の鏡御影や安城御影に匹敵するような優れた御影の作例は伝来していないが、伝絵は、1295年(永仁3)10月、本願寺三世覚如が初めて作成した親鸞伝絵の初稿本を同年12月に写した『善信聖人親鸞伝絵』が、現在まで専修寺に伝えられている。

 鎌倉時代以降、真宗を含む各宗派では宗祖の伝絵が競って制作されるようになった。それらは最初は「報恩謝徳」を目的につくられたと詞書に記される場合が多いが、実際には宗祖の行実の普及流布、民衆教化のための絵解きに用いられたとする従来からの見解に加え、近年では、そうした伝絵が血脈相承の証としての役割も担っていたとする指摘がなされている。そうであれば、成立間もなく覚如による初稿本を写した現専修寺本が高田門徒によって伝持されてきたことは、当時の高田派の地位の一端を示すものとして、その意義は小さくないと思われる。

〈善光寺如来信仰と聖徳太子信仰〉

 ところで、親鸞の信仰および専修寺草創縁起とも関係することであろうが、高田派はじめ真宗では善光寺如来と聖徳太子への信仰が盛んである。

 そのことは専修寺をはじめとする高田派寺院に伝来する仏像や絵画の特徴ともなっていて、中世から近世に至る時期の信仰と造形活動との関係について、興味ある事例を提供している。

 冒頭にも記したように、寺伝では、専修寺は1226年(嘉禄2)下野国高田(現在の栃木県芳賀郡二宮町高田)で親鸞が三国伝来の伝承を持つ信濃善光寺一光三尊阿弥陀如釆を感得して創建したといわれている。

 この専修寺草創の縁起からうかがわれ、また従来の研究によっても指摘されてきたように、親鸞は善光寺信仰と密接に関わり、親鸞没後の高田派も善光寺阿弥陀如来にたいする深い信仰をもっていた。

 高田の念仏道場的な如来堂がどのようなものであったか、その実態は明らかではないようだが、専修寺が善光寺式阿弥陀如来を安置する如来堂から発展し、善光寺信仰が高田派で受けつがれてきたことは、高田専修寺本尊の一光三尊阿弥陀如来像が、現在も17年に一度一身田専修寺で開帳されて信仰を集めていること、あるいは善光寺如来絵伝をつたえる高田派寺院が少なくないことなどに具体的な様子を見ることができる。

 この善光寺如来への信仰とともに注目されるのは、聖徳太子信仰である。親鸞が1201年(建仁元)29歳の時に、聖徳太子創建の縁起を持つ京の六角堂に参籠して、夢中に救世観音から偈文を授けられたという説話からもうかがえるように、親鸞には聖徳太子への強い信仰があったが、高田派にもこの聖徳太子信仰は強く受けつがれている。本展には、聖徳太子2歳の姿を表した南無仏太子像1体が出品されるのみであるが、聖徳太子絵伝や聖徳太子像が伝わる高田派寺院は少なくない。こうした絵伝や肖像の制作も高田派での造仏活動の大きな特徴の一つといえよう。

 そして、高田派を初めとする真宗寺院伝来の掛幅形式の聖徳太子絵伝に関して注目されるのは、他宗派の絵伝とは異なり、太子の事蹟を画面の下から上に向かって年代順に配置する形式が取られているという指摘がなされていることである。聖徳太子絵伝の画面構成について固有の伝承がなされていた興味深い例である。
 こうした善光寺如来と聖徳太子の信仰に関連し、掛幅形式の善光寺如来絵伝と聖徳太子絵伝に加えて、親鸞聖人絵伝および法然上人絵伝の4種の絵伝が、たとえば高田派の三河地方での一拠点である岡崎市桑子の妙源寺におけるように(ただし妙源寺の聖徳太子絵伝は現在では寺外に流出し、国有〈奈良国立博物館蔵〉となっている〉、1具として高田派を中心とする真宗寺院に備えられていたとする指摘もある。高田派など真宗教団と直接結びついた特徴ある絵画制作が行われていた一つの現象として興味深い。

〈専修寺と近世の門跡文化〉

 一方、こうした宗教的な遺品とは別に、准門跡寺院としての専修寺には、都の門跡文化につながる非宗教的な性格を持つ品々が数多く伝来している。

 そこには、下野国を本貫の地とし、室町時代以降は伊勢を本拠地とし、さらに三河、越前などに勢力を伸張し、宮廷や幕府と交渉関係を結んでいた専修寺の文化的特質を見ることができる。

 専修寺と宮廷、貴族との関係について少し記せば、1478年(文明10)3月の後土御門天皇綸旨によって、専修寺は天皇祈願所とされた。また専修寺第十一世応真と正統を争った真智は、常磐井宮家からの入寺であったし、第十二世堯慧は、和歌と蹴鞠を家学とする飛鳥井家から入寺していた。その後、1574年(天正2)には、専修寺は門跡号の勅許を受けることになる。

 近世以降も、伏見宮家から入寺して如来堂再建に尽力した第十七世圓猷、有栖川宮家から出て茶の湯や詩歌に秀でた第十八世圓遵を初めとして、宮廷、貴族とつながりの深い住職は数多い。

 こうした専修寺歴代住職と宮廷との関係は、伝来の遺品からもうかがうことができ、たとえば本展出品の絵画作品では、後鳥羽院宸筆の伝承を持つことから、一般に後鳥羽院本と呼びならわされる三十六歌仙絵中の3幅がその代表的な例であろう。また、後柏原天皇や後陽成天皇を初めとし、専修寺に数多く伝えられる中世から近世の歴代諸天皇の宸翰類は、宮廷と専修寺との直接的な関係を最もはっきり示している遺品ということができよう。

 また、専修寺十七世圓猷は、千宗旦流の茶の湯をよくし、以後の歴代住職はこの宗旦古流(一身田流などとも呼ばれる)の家元をつとめ、如来堂北側の雲幽園とよばれる庭園には茶室安楽庵が営まれてきた。本展にも、・謠\人世圓遵の茶会記や茶器がいくつか出品されているが、こうした住職の茶の湯や詩歌の趣味も、都の文化につながる近世専修寺の文化の一要素であった。

 次に、専修寺の伽藍配置について少し触れておこう。専修寺の現在の伽藍は、御影堂、如来堂が南面して東西にならび、如来堂の西、奥まった所に親鸞の廟堂が、また御影堂の東側には対面所や書院などの殿舎がたてられている。現在では失われてしまったが、江戸時代には、これら殿舎とともに能舞台も備えられていたことが宝暦年間の境内図から知られる。

 前述のように、現在の仏堂や殿舎が整備されたのは1645年(正保2)の火災後のことで、御影堂東方の殿舎では、明治以降も整備が続けられた。こうした仏堂と殿舎とをあわせ持つのは、西本願寺にもその例が見られるところで、専修寺固有のプランではないが、都の門跡文化につながる近世の専修寺の姿を具体的に表した遺構ということができよう。

 ただ、殿舎の造営整備にかなり長い期間を要したためか、京や江戸から離れた専修寺の地理的位置によるのか、西本願寺の殿舎に見られるような当時の第一線の絵師たちによる障壁画や、鑑賞画の優れた遺品は専修寺には必ずしも多くはない。

 こうした近世の世俗画に関連する事柄を少し記すと、この伊勢地方は江戸時代半ば以降、江戸や京から来遊する絵師たちが多く、彼らがこの地の寺院や富商の家に遺した作品も少なくない。しかし、現在までのところ、専修寺ではそうした絵師たちの作品はあまり確認されていない。

 注目される作品として、本展には出品されなかったが、特徴的な動物表現から、奇想の画家の一人として知られる長澤蘆雪の子長澤蘆洲(1767〜1847)らが筆者として予想される「仏涅槃図」の大幅や、また本展出品の蘆洲73歳の作である「四季山水図屏風」などがあげられるが、これらも専修寺において決して重要な位置を占めるものではない。

 その他、おそらく江戸時代前半から中期頃以降に伝えられたか、あるいは日本国内で制作された可能性も予想される中国絵画が、専修寺にはかなりの数遺されている。その中には、作者として宋・元時代の画家の伝承を持つ作品も含まれているものの、大部分は明から清時代に下る時期に描かれたものである。しかし、それらは近世における中国絵画普及の実情、あるいは当時の中国画観をうかがう上では、興味ある資料である。

 江戸時代の専修寺歴代住職が、どのような関心によって複雑な様相を示す近世の諸文化を受容していたか、興味あるところである。先述のように、近世専修寺文化に京の門跡文化につながる性格があるとみることに大きな誤りはなかろうが、都から離れた専修寺における美術作品の受容に関しては、その具体相を示すものとして、上記のような近世絵画や中国絵画の存在も視野にいれる必要があろう。


(もうり・いちろう 三重県立美術館学芸員)

ページのトップへ戻る