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点を打てば風が吹き、風が吹けば桶が飛ぶ−諏訪直樹の作品をめぐる覚書

石崎勝基

泉は湧きだしたが、まだ周囲のアイテールを破っていなかった。
湧きだす力によって押し開かれ、隠れた至高の点が輝きだすまで、
泉はまったく認識されえなかった。
この点をこえては何ものも知りえない。
『ゾーハル』、G.ショーレム訳


 諏訪直樹の作品と向かいあう機会を幾度か重ねる内できあがった印象というのが、諏訪のもっとも充実した作品は、『無限連鎖する絵画 PART 3』(cat.no.31)ではないだろうかというものだった。これは一つに、『同 PART 2』(cat.no.29)からの移行部にあたる冒頭の部分を除き、全体が無彩色に近く、暗い調子で統一されている点によるのだろう。暗さだけなら『PART 1』(cat.no.28)、『PART 2』も同様だが、そこで用いられていた明るい金、緑、濃紺などは『PART 3』の冒頭でいったん登場した後一つずつ退場していき、パネルNo.36 の真っ黒なくさび型以後、用いられる色彩は黒、白ないし銀、ややくすんだ金にほぼ限定されている。さらに『PART 1』の端緒以来、作品に注がれる視線はもとよりはねまわる筆致に対しても、障害でもあれば誘導役でもあったくさび型は、やはり冒頭以後姿を消し(これは『PART 2』でも同様だ)、パネルNo.43 で再登場する際にはサイズも小さくなり、浮遊する平行四辺形と交換可能の相を呈することになる。パネルNo.46 から47 にかけて最後に現われた大ぶりのくさびも、下辺から突きあげるのではなく上辺から下ってくるため、重力と軋轢を起こすことなく、こちらはおおむね下から沸きあがる筆致の波による右方への流れをやりすごしつつ、空間をよりゆるやかに拡張させていく。


 これらの点が相まって、この『PART 3』においては、左から右へという流れに抵触しないかぎりで、奥行きといわないまでも、くぼもうとする空間の傾向が宿されているように思われる。それがもっともはっきり現われているのが、パネルNo.37 からNo.40 にかけての、ほとんど真っ暗な淀みのように映る部分だろう。とはいえ図版で見ても、小山穂太郎の『黒焦の池』(1985)との比較を促さなくもないこの部分が、黒で塗りつぶされているわけではなく、黒よりかすかに明るい暗色地の上に、黒の筆触が走行してできあがったことはわかる。しかしこの点も、層状の深みをもたらすばかりだ。そしていったん淀みを経ることでストロークの波濤は、逆流するものも含みつつ、淀みから溢れだすように展開していく。『PART 1』から『PART 3』の冒頭にいたるまで、筆触はくさび型や扇面の周辺をからみつくようにはねまわることが多かったのに対し、ここでは先に見たくさび型の様相の変化に伴ない、くさび型ないし平行四辺形とよりゆるやかに交渉する。パネルNo.43 のくさびや平行四辺形、最後のパネルとなったNo.50 の右半を見れば、淀みの部分と同じ暗色地に黒の筆触が認められ、白やくすんだ金の筆触の動きは、前者の内に包みこまれているのだろう。高さ1.8m、展示される空間によって折れ曲がることがあるにしても、『PART 3』だけでも横に21m 続くパネルの連なりを前にした観者は、物としても一目で見渡せない大きさによって、自らが絵の中に入りこむかのごとく感じずにはいまい。その時筆触の乱舞は、画面の枠の外へ出ていったり、あるいは外から侵入してくることがあるにせよ、手前に強く突出はせず、暗色地のひろがりの内でところを得ている。


 こうした空間の性格は、多分に沈鬱な表情をたたえた『PART 3』とは一見対照的に、ジャポニスム風のキッチュと見なされる危険を意識しつつ(1)、日本の伝統的な装飾のモティーフを導入し、絢爛たる豪奢さをしめす『PART 2』の後半、斜め格子が登場する部分にも認めることができよう。1986年から89年にかけての中村一美の作品との比較を誘う斜めの格子は、扇面や筆触のうねり等と交わりながらも、絵の表面に即することで統一感を保証している。その上でまず、格子を彩るあざやかな緑や金は、ニュアンスの変化を帯びた地から乖離して、二段からなる層を形成する。格子と地とのこの乖離が、見かけの華やかさにもかかわらず、また単に調子の暗さだけによるのでもない、『PART 3』の沈鬱さと表裏をなす表情を画面にもたらしているのだろう。次いで格子自体黒や暗青色に変じた部分では、下層へと潜ることにもなる。さらに格子の二つのパターン、ややひしゃげたものと垂直性の強いものが交替しあい、扇面や山型との交差と相まって、層の重なりを錯綜させるとともに、左から右へという横への流れを駆動している。それまで挿話的な比重しか占めてこなかった薄紫は、この部分ではその明るさによって金と拮抗し、斜め格子の堅さを和らげようとする。


 色調によるにせよ斜め格子の被覆によるにせよ、画面の統一感を保証し(「統一感」という形容は必ずしも積極的な意味で受けとられるとはかぎるまいが)、もって先にふれた充実の土台をなしたのだとして、その時ふりかえれば、『PART 3』『PART 2』それぞれの導入部、そして何より『PART 1』はこれらに比べると、ある種の違和感をはらんでいると感じさせはしないだろうか(「違和感」との形容も逆に、貶下的なふくみを前提にしているわけではない)。これは何より、くさび型、山型、稲妻型など鋭角的な形態が大きな役割を担っていることによる。まわりを突き破ろうとする尖った先端部、それを差異づける金、紺、緑といった賦彩、直線による輪郭、画面全体に対する大きさなどは、原田光が別の文脈で用いた語を借りれば、「異物」(2)との感触すら与えはしないか。いささか性急な連想を許すなら<男根的>といえなくもないくさび型に対し、筆触のうねりが先に見たようにまとわりつくだけなのも、空間の統合を妨げている。


 峯村敏明が諏訪の初期の作品などに見てとり、諏訪自身山水画の空間構造の特徴の一つとして挙げた<面の不連続性>(3)をここに読みとれるかどうかはおくとして、同じ連作の内部で認めることのできる<違和/統合>という性格の変化は、それが弁証法的な過程かいなかもさておき、北澤憲昭が指摘した、<対立>ないし<対抗>による展開の論理の一例と見なすことはできるかもしれない(4)


1. 諏訪直樹、「(コメント)」、『現代美術の新世代展』図録、三重県立美術館、1983.7[本図録年譜に再録]。


2. 原田光、「諏訪直樹の中断」、『諏訪直樹展−絵画という旅』図録、セゾン美術館、1992.2、p.14。


3. 峯村敏明、「『私たちの絵画』と『遠巻きの彫刻』」、『美術手帖』、1980. 11、pp.91-93;諏訪直樹、「表紙の言葉/非風景」、『淑徳広報』、no.4、1988.11.25[本図録年譜に再録]。


4. 北澤憲昭、「対立のテクネー、もしくは無限への行旅−諏訪直樹の軌跡」、『アトリエ』、no.756、1990.2;同、「無限への行旅−諏訪直樹の軌跡」、『諏訪直樹作品集』、美術出版社、1994.4.20、p.13 以降;同、「対抗の画家 諏訪直樹小論」、『アートトップ』、1994.4+5、p.36;また本図録所載の木下長宏による論考を参照のこと。


 藤枝晃雄は諏訪の作品について1978年、「まず感覚的に入ってくるその赤と緑の使用が素人じみた用法であることを指摘せねばならない」と、批判的にふれたことがある(5)。ここで言及されているのは『The Alpha and the Omega』のシリーズ前半であろう(cat.nos.4-6)。「硝煙弾雨、読むに耐えぬ下品な言葉の激烈な応酬」(6)のさなかの一こまではあるが、この文だけとれば、ともに中くらいの明度で彩度が飽和する赤と緑という補色の対比を採用した点に、安易さを見てとったものと解しうる。もとより赤と緑の対比を用いれば画面の強さが得られるとはかぎらないように、同じ対比がただちに、生理的な刺激に終わると決まったものではない。藤枝の上の一文からは詳細まで読みとれないが(7)、関連したものといえるだろうか、「赤と緑は絵具のチューブのままの色彩が用いられ、それは、表現力をもたずきわめて杜撰な印象を与える」と、阿武正幸が批判していた(8)


 点として置かれた絵具は、作者によって意図的に「表現力をもた」なくされたのだと、見なすことはできる(9)。とはいえそれが色をなまなものに感じさせたとすれば、意図によって結果を弁護することはできまい。ただこれらの作品は、赤と緑だけによって組みたてられているのではなく(赤も純色のそれでなく、ややくすんだものだ)、両者と等価に白が加えられており、さらに、最表層の下に表面の色からずらした赤なり緑の点描による層がのぞいている(10)。作者自身は「白とあとの2色の明暗対比になっちゃう」点に不満を抱き、同シリーズの後半(cat.nos.7-9)では「色環を全部カヴァーするだけの色彩を使ってやろう」としたとのことだが(11)、こうした賦彩によって赤と緑の直截的な対比が放散されるとともに、垂直・水平の分割および方形からの出入りと相まって、ある種の軽快さがもたらされる。これらをあわせみて北澤憲昭は、「清潔な空間性」と形容した(12)


 ところで当時、諏訪の仕事を高く評価していた峯村敏明は、この時期の作品がある面では「弱い」と述べている(13)。早見堯もまた、「ある充実を有してはいるものの弱い作品」と記した(14)。文脈抜きでこうした批判を「清潔な空間性」なる評と裏表をなすといっては強弁の謗りを免れまいが、あえてその愚を犯すなら、時として弱さとも映りかねない抒情性が、諏訪の作品がたえず向かおうとする、少なくとも一つの根強い傾向だったのではないだろうか(評価としての<弱さ>と作品の表情としての<弱さ>ないし抒情性とは、審級の階層が異なるはずで、それを混同している点が強弁たるゆえんだ)。先に『無限連鎖する絵画 PART 3』に見た後退しようとする空間ゆえの充実は、その成果の一つなのだろう。建畠晢がとりわけ『IN・CIRCLE』(cat.nos.2, 3)を、画面の外形の問題とあわせ、諏訪のもっとも成功した作品と評価するのも(15)、この点と無関係ではないのかもしれない。


 そして諏訪自身、そうした性向を弱さに陥る可能性ととらえていたのだろうか、自ら採用した方法に、たえず揺り返しがもちこまれる。『波濤図』(cat.nos.10, 11)から掛軸形式の作品の初期にかけて、筆触がほぼオールオーヴァに覆っていた画面に、折れ曲がった直線が介入し(cat.nos.17, 18)、それは当初アクセントの域を出なかったのに、やがて画面の暗さが増すのに応じ(cat.nos.22-25)、きわめて強い構成要素として機能し、筆触の動きと拮抗するようになるのがもっとも顕著な例だろう。これが『八景残照』(cat.nos.26, 27)、『無限連鎖する絵画』等におけるくさび型へと転身するわけだが、その『PART 3』において、再度揺り戻されることとなった。


 こうした事態は、先に引いた『The Alpha and the Omega』シリーズの前後半での色彩の選択の変化にも認めることができよう。同シリーズ前半における赤と緑の面的な対比自体、やはり補色の対からなる点をシステマティックに用いつつ(16)、その集積が中和しあって結果としてはモノトーンに近づいた<饒舌な平面>の連作(cat.nos.1-3)から、振り子が逆に揺れたものだった。後者では賦彩は透明に、前者では不透明に施されていたが、『The Alpha and the Omega』に続く『波濤図』では再び透明になり、赤と緑の対比も形を変え、紫や青を交えて復活する。ところが『日月山水』(cat.nos.15, 16)以後は、金を軸にしたモノトーンへと振り返されようとした。ただ当初の色調の明るさは、1985年あたりからより暗い画面に移行する。その場合もストロークは金など明るい色が主体となり、暗色のそれはアクセントに留まっていた。黒のストロークが現われるのは90年になってからで、それも大規模に用いられたのは『無限連鎖する絵画 PART 3』くらいだろう。


 とまれこれら振り子運動は、北澤憲昭のいう<対抗>ないし<対立>の論理の例をなすとともに、作者自身によって意識的に進められたものだった。その一端は彼が著した文章にうかがうことができる。諏訪の文章については本図録所載の北澤の論考を参照されたいが、そこに現われた明晰さは、何よりも、さまざまな相で自らが置かれた位置、その最たるものが西欧の近代と近代以前の日本に挟撃された日本の近代だとして、そうした位置に走る亀裂ないし矛盾に対する意識の明晰さだ。『波濤図』についてのコメントの中で「絵画の仮象空間と現実空間が交錯する境界的な空間の在り方」にふれられているが(17)、いささか比喩的に言寄せるなら、諏訪の意識自身さまざまな相で「境界的な空間」に立っていたのであり、そこからさまざまな方向に振り子が軌跡を描いたといえるだろうか。


5. 藤枝晃雄、「峯村敏明氏に答える(読者から)」、『美術手帖』、no.434、1978.6、p.135。


6. 彦坂尚嘉、「戦後美術批評の確立」、『美術手帖』、no.436、1978.7増刊、p.174。


7. Cf., 藤枝晃雄、「複雑な<絵画>へ」、『みづゑ』、no.872、1977.11、p.89 には、「素人に限って、鮮やかと形容される対照的な色彩が好まれる…(後略)…」とある。絵画における色の問題は藤枝の批評の一貫した軸の一つだが、この前後の時期から他に、藤枝晃雄+李禹煥+山田正亮、「絵画自身へ向かって」、『美術手帖』、no.430、1978.2、pp.77-80;高橋雅之+藤枝晃雄、「色と線の発生について 現代との対話PARTU-1」、『みづゑ』、no.894、1979.9、p.77;須賀昭初+藤枝晃雄、「色彩の使い方について 現代との対話PARTU-7」、『みづゑ』、no.901、1980.4、pp.77-83;藤枝、「あらたな生成へ=絵画の場合」、『美術手帖』、no.475、1981.1、pp.78, 85 など。


8. 阿武正幸、「展評 東京」、『美術手帖』、no.432、1978. 4、p.219。


9. 北澤憲昭、「無限への行旅−諏訪直樹の軌跡」、op.cit.、p.18。


10. この連作の制作のシステムについては、「FROM STUDIO◎NAOKI SUWA 諏訪直樹」、『アトリエ』、no.755、1990.1、p.117。


11. 諏訪直樹+早見堯、「現代との対話−12 物体化する絵画のかたちについて」、『みづゑ』、no.890、1979.5、p.79。


12. 北澤憲昭、op.cit.、p.19。また本図録所載の北澤の論考、p.7。


13. 藤枝晃雄、早見堯、峯村敏明、たにあらた、「今日の芸術表現とは シンポジウム『現代の対話』を終えて」、『みづゑ』、no.893、1979.8、p.98。


14. ibid., p.92。


15. 建畠晢、「美術の現在 “理念”では戦えない」、『海燕』、1992.4、p.229(建畠、『未完の過去 絵画とモダニズム』、五柳書院、2000、p.140)。


16. 「FROM STUDIO◎NAOKI SUWA 諏訪直樹」、op.cit.、p.116。


17. 諏訪直樹、「(諏訪直樹展)」、『美術手帖』、no.475、1981.1、p.242[本図録年譜に再録]。


 「境界的な空間の在り方」にまつわる問題を制作の次元にもどせば、『波濤図』の擬似屏風形式だけでなく、連作、シェイプト・キャンヴァス、衝立、掛軸など、そもそも方形のタブローやその側面も、諏訪においてはこの問題をめぐるものだったと見なしうるが、ここでは別の境界、すなわち画面と絵具をすくった筆とが接触しあう地点にふれておこう。


 諏訪の初期の点描による作品が、もの派の登場に前後して、作品制作の自明性が喪失したという意識に応じ、しばしば演繹的に決定されたシステムの助けを借りて制作行為を再建しようとする一連の動きに属することは、くりかえし指摘されてきた(18)。その際、当時制作していた作家が皆が皆同様の意識を共有していたわけではないだろうこと、自明性の喪失といっても、日本における状況とたとえば北米におけるミニマル・アート、コンセプチュアル・アート等の還元主義との間に異同があるだろうこと(19)、また同様にシステムによる制作を選んだ作家たちの間でも、そのありようは同じではなかろうことなど、押さえておくべき点は少なくないが、それらについてはおく。


 『IN・CIRCLE NO.1』が発表された1977年の個展に際し岩本拓郎は、「彼の選び取ったシステムと画面(その型や絶対的な大きさ)とが根源的な所で相互にかかわり緊張関係を持つように目論まれていない」と批判した(20)。それを受けるかのように早見堯は同じ連作について(cat.nos.2, 3)、「一つのパネルで独立したものという風に見れば、タッチが非常に大き過ぎるように思ったんです。…(中略)…そのシステム化されたカンヴァスの形が中のタッチとうまく連動していない…(中略)…中のタッチがあまり生かされていないで、外側の形の方が表現として見る人に訴えるものが強かったですね」と述べる(21)。この発言を受けて諏訪は、「前回までの作品で非常に問題になったのは、色面化していっちゃうことなんです。タッチが細かくなっていくと、それはバランスのことを考えて細かくしていくんですけど、だんだん色面化していってしまうわけです。そうするとベタ塗りの色面と変わらなくなってくる。色面と色面の分割になってしまうわけです。だから今回タッチを粗くしたのは、揺り戻しをかけたわけです」と答えている(22)


 続いて諏訪は、浦上玉堂への関心にからめ、「筆を置いていく描法自体の運動の中からフォルムが生み出されてくるということに興味がありますね」と語っており(23)、『波濤図』以降の作風を予告するものとも読めるが、しかしそれ以前に、「揺り戻しをかけ」ずにおかないという次元は、諏訪の展開にこの後もたえずつきまとったように思われるのだ。いいかえれば諏訪はついに、画面の大きさに対し筆触の的確な大きさを見出しえなかった、あるいはむしろ、見出したとの意識に安住することができなかったのではないだろうか。


 たとえば筆触ではないが、『八景残照』や『無限連鎖する絵画 PART 1』におけるくさび型は、画面全体に対し違和感を感じさせるほどに大きく、それにまとわりつく筆致はその違和感を助長させるだけ小さい。翻って『波濤図』以降のストロークが走り回る作品においても、こうした齟齬は解消されておらず、だからなおさらダイナミックとも、文脈はずれるが「力まかせ」(24)とも形容しうるストロークをふるったといっては、あまりに印象批評流に聞こえるだろうか。作品ごとに成否はさまざまであるものの、基本的に画面全体に対し大ぶりなストロークは、その幅や絵具の厚み、勢いや圧力、色、地塗りや支持体の肌理との関係等によって、時としてダイナミズムそれ自体への性急さを、そしてストロークが地にはまりこむのを自ら拒むかのようなすわりの悪さを感じさせるのだ。


 そもそも支持体のひろがりに絵具をふくませた筆を置く時、支持体と筆ないし絵具は、互いに他者のままに留まらずにいない、あるいは少なくとも、諏訪や同時期に演繹的なシステムを援用した作家たちにとって、その意識を拭いさって筆を置くことはできなかったのだろう。それは、西欧との関係とあわせ、日本の近代美術の歴史的展開を意識するがゆえなのだとして、支持体と筆ないし絵具との即物的な意味での不連続性に架橋することなくしては、表現は成立しない。他方、白いひろがりに色のついた点を一つ置けばそこに空間が発生するのも事実ではあれ、しかしそれはいまだ表現に変成しえてはいまい。その時未発の空間は、色のついた点との関係において白いひろがりを有限なものとして枠どりする、すなわち画面全体という枠が問題として浮上してくる。諏訪のいう「閉じた全体、という絵画の近代主義」である(25)。これが一方で画面の外形をめぐる試行へと導くかたわら、諏訪の画面においては、ストロークは基本的にオールオーヴァに走る。掛軸状の作品に三角やジグザグ状の直線による区切りが登場するにしても(cat.nos.22-25)、それらはやはり、ストロークが動くべき場を画定する枠として機能しており、枠どりの外側にも地塗りは施されている。ドローイング類(cat.nos.19, 20)を除けばマッスとしてのいわゆる余白が導入されることはなく、地は筆触と筆触の間からのぞくばかりだ。そのことで逆に、地の遍在が強調されるともいえよう。西欧のモダニズムにおける「描かれた面が絵画の表面と一致してしまう過程」(26)に対し違和感を覚えつつ、それをいったん引き受けざるをえなかったのだろう。といって諏訪には、「描かれた面」と「絵画の表面」を「一致」させて表現が成立すると見なすこともできなかった。諏訪が自らを「デシナトゥール」と規定しようとする時(27)、そこに線と面、ドローイングとペインティングとの間に開く隙間が介入してこずにいない。


 先に引いた「タッチ」と「色面化」との葛藤も、そうした意識を一因としているのだろう。<饒舌な平面>において、連作の出発点となる画面では(cat.nos.1-3 それぞれのNo.1)、筆触と筆触の間があけられ、重ねられることも少ないため画面は明るくなるが、筆触と筆触の間からのぞく白地が強く出、複数の色はばらばらなまま、画面は行為の痕跡に留まり、白地ばかりが物として現前する。層が重ねられていくと画面は暗くモノトーンに近づき、まとまりは得られる。しかし「描かれた面」と「絵画の表面」との「一致」に終わらせまいとするかのように、先立つ時期の素描(28)を引き継いで、筆跡の集積の中からネガとしての線・形が浮かびあがってくる(cat.nos.1, 3)。これら負の線や形は、画面に穴を穿ち、外部へと通じるものであって、やがて画面の外形をめぐるさまざまな試行へと展開する、その種子といってよいだろう。他方一つずつとれば画面そのものと一致しようとするより、その表面上を滑る筆触の角度45度は、1979年の『The Alpha and the Omega』における斜線の導入を経て、後のくさび型につながるといっては、いささか強引だろうか。


 全体としての画面に対する意識は、地塗りの選択にもうかがうことができる。『波濤図』や『日月山水』における金地、掛軸状の作品での暗青色ないし暗褐色、『無限連鎖する絵画』の暗色地など、金地が視線を反射させる一方暗色地は視線を吸いこむと、機能は異なるものの、画面と支持体を仲介することで、画面が支持体の平面性に回収されきらない空間をはらむための媒体をなしている。あるいは、画面と支持体との間にいやおうなく隙間が開くと意識するがゆえに、有色地を挟みこまずにいられなかったといえようか。


 とまれ画面の外形をめぐる模索は、「閉じた全体」としてのタブローを拒否することによって成立したのではなく、むしろそれをつねに前提として、相対化しようとしていたというべきだろう。もとよりシェイプト・キャンヴァスから日本の伝統的な形式を想起させる型にいたるには飛躍が必要で、そこには日本近代の歴史性に対する意識が介在していた。いずれにせよ「閉じた全体」の外部を召喚するには、外形を前もって決定するだけでなく、内側をオールオーヴァに充満させることと境界としての枠との交渉によって、即物的な外側にとどまらぬ外部を現前させなければならなかった。


 そうした中、作業の第一歩として不可欠な、支持体に筆を置くという行為を自明なものとして片づけられなかったがゆえに、諏訪は振り子状の展開を強いられた。その現われの一相が、違和感を感じさせるまでに「力まかせ」な強さを求める傾向と抒情的な画面のまとまりへと向かう傾向との往還だったとして、後者の成果をここでは『無限連鎖する絵画 PART 3』に見たわけだが(もっとも表情としての<強さ/弱さ>と、評価としての<強さ/弱さ>は一致するとはかぎらないし、<強さ>が質の高さとイコールというものでもない)、そこで振り子が止まりはしなかったことは、最後の作品となったタブローにおいて(cat.nos.32, 33)、ストロークが多分に大ぶりになっている点にうかがえるかもしれない(連作と単体とで単純に比較はできないが)。いずれにせよこれら諏訪の展開は、一方で日本の近代がよってたつ条件を探ると同時に、その点とからみあうかぎりで、「表現の質」として「感性を問うということの困難さの前で立ちつくしている」(29)地点に始まり、終始そこをめぐってきたといえはしないだろうか。



(いしざき かつもと・三重県立美術館学芸員)

18. 峯村敏明、「もう一つの正統性 諏訪直樹」、『美術手帖』、no.433、1978.5、pp.98-105;同、「もの派はどこまで越えられたか」、『もの派とポストもの派の展開』展図録、西武美術館、1987.6、pp.18-21;北澤憲昭、「無限への行旅−諏訪直樹の軌跡」、op.cit.、pp.9-15 など。Cf., 峯村、「絵画の遍歴 見ることとつくることの統合を求めて」、『美術手帖』、no.430、1978.2、pp.101-104;同、「芸術の自覚−媒体の構築に向けて」、『美術手帖』、no.436、1978.7増刊、pp.246-248;藤枝晃雄、「七〇年代美術への批判的視点」、『美術手帖』、no.452、1979.8、pp.162、180-182 など。


19. Cf., 北澤憲昭、「無限への行旅−諏訪直樹の軌跡」、op.cit.、pp.9-10。


20. 岩本拓郎、「息づいたシステムヘ向けて」、『田村画廊展評』、田村画廊、1977、p.96。


21. 諏訪直樹+早見堯、op.cit.、p.75。


22. ibid. 引用文中「前回までの作品」は『IN・CIRCLE』(cat.nos.2, 3)および、とりわけ1978年の『The Alpha and the Omega』(cat.nos.4-6)、「今回」は1979年の『The Alpha and the Omega』(cat.nos.7-9)を指す。


23. ibid.


24. 原田光、「諏訪直樹が立っている場所−版画を見て」、『諏訪直樹 1989』展図録、ハイベル青山、1989.1。


25. 諏訪直樹、「(アンケート)」、『ニュージャパニーズスタイルペインティング』展図録、山口県立美術館、1989.3[本図録年譜に再録]。


26. 諏訪直樹、註1前掲「(コメント)」。


27. ibid.


28. 峯村敏明、「もう一つの正統性 諏訪直樹」、op.cit.、p.100;諏訪直樹+早見堯、op.cit.、p.75 に図版。


29. 諏訪直樹、「(コメント)」、『絵画の豊かさ展』図録、 横浜市民ギャラリー、1977.11[本図録年譜に再録]。

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