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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 2005 > 引き足し掛け割り虚数無理数 石崎勝基 染谷亜里可展図録

引き足し掛け割り虚数無理数

石崎勝基

火とは石のなかにあったもの、そしてこの世に
光をひろめるために石から出現したものである
フェルドウスィー、『王書』(岡田恵美子訳


 《Soak》-褐色あるいは黒っぽい壁紙を貼りわたした壁、とそれはとりあえず見えたとして、しかしずいぶん古びてでもいるのか、壁を覆う文様はその輪郭がはっきりしておらず、溶け崩れようとしているかのごとくだ。手前の床にはしばしば絨毯が敷かれる。壁の沈んだ色味に比べ、いわゆるペルシャ絨毯を思わせる赤や黄、またその文様は豪奢な印象を与えるはずだが、しかし近づいてみれば、壁以上に文様は溶けだしており、壁がそれでもなにがしか堅さの感触を保っていたのに、こちらは柔らかさを伝えるだけにその壊敗のさまはいっそう強調されずにいない。

 がっちりと組みあげられた部屋、そこにさらに壁紙を貼り絨毯を敷くという装飾を施し豪奢さを付与した、その堅固さと豪奢はそのまま、それが同時に時間の経過の痕跡を刻みつけられたここでは、堅固、豪奢、そして時間の厚みが、いずれも消し去られることなく互いを透かしあい重なりあって、そのことで、透過と重層が出来する場としてのはざまの感触を見る者に抱かせることになる。はざまははざまであることによって、おのれを浸す鈍い光を呼びだすことだろう。

 たとえば壁や床の平面性と、それに即した文様というモティーフに、モダニズムの絵画論において問題とされた、物としての平面とイリュージョンの所在との関係なる主題を認めることもできるだろうし、また装飾を一つの剰余と見なすなら、純粋芸術としての絵画と応用芸術としての装飾との関係というジャンルの位階をめぐる議論、ひいてはシュポール/シュルファスやパターン&デコレイション、フェミニズムに通じるモダニズム批判を読みこむこともできる。しかしこの点はおこう。

 《Soak》は「浸透する」を意味し、壁状の‘Wall’と絨毯状の‘Carpet’との二系列からなる。‘Wall’は、ベニヤ板にカゼインと白亜を混ぜた地塗り用塗料を塗布し、その上から自動車の潤滑油であるモーター・オイルで文様を描くというもの(黒っぽい作品では地に墨が塗られている)。オイルを差すと、塗料が透明化し、文様をなす。‘Carpet’の場合は、不織布(ペーパー・タオル)を8~10枚重ね、層ごとにオイルをスポイドで差して作られる。色は、もとの製品としてのオイルが色分けされていたのを活かしているだけで、顔料は加えられていない。いずれにせよオイルはいつまでも乾燥せず、時間の経過や環境の変化に応じて混じりあい、ひろがって、イメージのシルエットは曖昧になっていくのだという。

 1997年に最初に発表されたこのシリーズは、染谷によれば、90年に訪れたある転機に淵源をもつ。その時彼女の思考の出発点となったのは、時間の流れの中で失なわれたものも、記憶の中ではよみがえるということだった。記憶の中では過去も現在も、同時に存在していることになる。では、歴史の中で残るとは、あるいは残ることなく忘れ去られるとは何を意味するのか。そう考えた時、何かを作るとしても、それが物として必ずしも残らなくてもいいのではないか、との発想からこのシリーズは生まれたという。文様に関しては、始めも終わりもなく永遠にひろがっていく点に関心があったとのことで、その際、細部において密度を有しながら、鳥瞰するかのごとき視野をもたらすと染谷は述べる。過去と現在が等価であるとして、文様においても始点と終点は等価である点に、両者が結びつく機縁を認めることができよう。

 記憶における過去と現在との、染谷のいう<均質化>なる主題は、彼女のもう一つの主たる系列である《Decolor》でも一貫している。《Decolor》は「脱色する」を意味し、2000年に初めて発表された。深紅や濃緑、暗青色のヴェルヴェットの表面に、風景や静物、あるいは字幕つきの映画の一場面が浮かびあがるこれらの作品は、既製のヴェルヴェットに、筆に浸した家庭用の脱色剤でイメージを描き、その後、水で洗い流して脱色剤を飛ばすという手順で制作される。《Soak-Wall》でも透明化した部分が図に転じていたが、このシリーズは、絵具などの素材を足し算式に加えていって制作するのではなく、逆に、消すことで何かを表わせないかとの発想を出発点にしているという。その際ヴェルヴェットの質感は、記憶の中で今はない何かがよみがえった時のあざやかさ・生々しさに呼応しうるし、さらに、光の感覚を宿らせうることに気づいたと、染谷は語る。

 同時に現前する過去と現在は、ある意味で空間化された時間とも見なしうるだろう。実際染谷は、記憶や時間に対してだけでなく、同様の手続きで空間をも扱おうとする。2004年の個展で発表された《俯瞰》のシリーズでは、高さのあるものもないものも<均質化>され、また《ゼログラムの歴史》では重いものと軽いものとのヒエラルキアが廃される。

 過去と現在、そして未来を鳥瞰する視点といえば、イスラームにおける天の書やシュタイナーの人智学におけるアーカーシャ年代記など、始元から終末にいたる全事象が記されているという<天の書物>の表象を連想することもできよう。染谷の実際の作品からは、もっとも、「鳥瞰」や「俯瞰」の語にもかかわらず、無時間的で超越的な視点はあまり感じとれまい。濡れたベニヤ板や毳立ったヴェルヴェットの質感は、むしろ、触覚的な物質性の比重の大きさをこそ伝えるはずだ。そこに、質料に埋もれた形相を掬いだすという、彫刻=カーヴィングとの共通点を見てとることもできなくはない。他方、透明化や脱色によって後に残されたイメージは、実体というより、抜け殻か雌型に近い、虚の幻影と見なすことができる。眼前から失われることが決してないベニヤ板やヴェルヴェットの質感と虚のイメージとは、対立するわけではないが、しかし完全に宥和しきることもない。その落差ゆえ作品は、永遠の現在のもとにおのが全体を透明に現わすのではなく、鈍い光と緩やかな時間の持続をそこに生起させるのだ。

 《Decolor》を思い浮かべるなら、ヴェルヴェットの毳立った質感と紅や濃緑、暗青色といった色の内に浮かぶイメージは、ヴェルヴェットから立ちあがろうとしながらたえず引きもどされ、そこに緩慢な時間のへだたりを発生させている。視線は作品を瞬時に把握し消費することはできず、たえず微細なずれによって足をすくわれることになる。このへだたり・ずれはまた、その緩慢さ微細さゆえ、虚の幻影と肌理の変化とが相互に貫入しつつそれぞれおのれから流れだし、光と闇をはらむにいたらしめる。イメージが光に照らされて目に見えるものになるとすれば、しかしそこでも、ヴェルヴェットの肌理がつねに囲繞している以上、光は光のままに闇となる。他方脱色によって生じた虚がイメージに反転するというなら、逆に、実から虚へと反転したヴェルヴェットの肌理と色において、闇は闇のままに光となる。染谷のいう記憶における過去と現在の均質化は、とすると、過去と現在があらかじめ共存する地平というより、そこにおいて過去も現在もたえずゆらぎ、その不安定さゆえ幻影として重畳するような、日常的な時間の底に澱むもう一つの時間として実現されたのだと見なすことができるかもしれない。


(三重県立美術館学芸員)

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