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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1998 > 伊勢地方と蕭白 毛利伊知郎 曾我蕭白展図録

伊勢地方と蕭白

毛利伊知郎

はじめに

 曾我蕭白について語ろうとする時、三重県各地に所在する作品を忘れることができない。今も多くの作品が伝わっているが、既に失われた作品も含めれば、蕭白は現状をはるかに越える多くの作品をこの地方で描いたと考えられ、伊勢地方は曾我蕭白にとって格別重要な活動の場であったということができる。このことは蕭白の作画活動そのものの問題にとどまらず、18世中頃から後半に至るこの地方と京文化との関係、蕭白をめぐる様々な人脈、蕭白がこの地方の絵師たちに与えた影響、蕭白贋作の成立など、いくつかの問題と関連してくる。本稿では、こうした蕭白と伊勢地方との関係について、これまでの調査研究成果(文献18・67・83・109・110・124・126・127)をふまえて記すこととしたい。

伊勢地方に残る蕭白作品

 伊勢地方の蕭白作品は、四日市市、鈴鹿市、津市、松阪市(江戸時代は松坂)、明和町などの伊勢湾沿岸地域に多く伝来しているが、平野部から離れた内陸の伊賀地方でも作品が発見されているので、蕭白は伊賀地方にも滞留したことがあったようだ。かつての伊勢国や伊賀国には、東海道を初めとして、日永の追分から津、松坂を経て伊勢に至る伊勢街道、関宿から津で伊勢街道に合流する伊勢別街道、伊勢地方と伊賀地方とを結ぶ伊賀街道、大和国と伊勢とを結ぶ参宮街道など幾つかの街道が通じており、江戸と上方との往来や伊勢参宮の人々に利用されていた。

 旧東海道沿いの滋賀県水口や栗東にも蕭白作品が伝わっていることからすれば、蕭白が東海道を下って、関宿あるいは日永の追分から伊勢地方へ足を向けたことは想像に難くない。また、時には大和地方を経由して京都との間を往復したとも想定できる。

 そして、作品伝来の状況や当時のこの地方の社会状況を考慮すれば、蕭白が伊勢地方に滞在した際には、藤堂藩の城下町として栄えた津と、松坂商人の本拠地で豊かな経済力を持ち、多くの文人墨客が訪れた松坂という二つの町が拠点となっていたことも容易に考えられるところである。

 伊勢地方の蕭白画は、松阪市の朝田寺、あるいは津市の天然寺、西来寺、浄明院、四日市市の興正寺など諸寺院や神社の他、明和町斎宮の永島家のように土地の有力者たちが主要な発注者であった。明治期に伊勢地方の蕭白画に関する調査を行った桃澤如水の報告(資料参照)は、蕭白が一か所に半年から一年ほど滞在したこともあったという逸話を伝えている。伊勢地方各地に伝わった作品がかなりの数量に達し、比較的広い地域に分布していることを考慮すると、蕭白の伊勢訪問は短期の旅行というよりは、むしろ制作を目的とした比較的長期の滞在が二度三度にわたって行われたと考えるのが自然であろう。

伊勢滞在の時期、理由

 では、蕭白はいつ頃、どのような理由から伊勢地方に足を踏み入れたのであろうか。蕭白が伊勢に赴いた時期についての一つの手がかりは、桃澤如水の報告にある。彼によれば、津市・西来寺の襖絵には「行年二九歳」という落款が、また津市郊外の浄光寺の壁画には「宝暦九曾我氏三十歳筆」という年紀があったという。この桃澤の報告を根拠にして、蕭白29歳から30歳頃の宝暦8-9年(1748-59)にかけて、彼が津周辺に滞在していたと考える説が一般的となっている。

 

 また、松阪市周辺に伝わった作品の作風や落款・印章が35歳の年紀を持つ「群仙図屏風」のそれと近似するところから、蕭白三五歳の明和元年(1764)頃にも蕭白が松阪地方に滞在していたとする説が辻惟雄氏によって提唱されている(文献67)。

 

 さらに、津藩の儒者奥田三角が明和8年(1771)に賛を記した蕭白筆の「達磨図」(挿図1)が近年発見されたことから、この頃にも蕭白が伊勢に滞在した可能性が指摘されている(文献109・110)。

 

 これとは別に桃澤如水は蕭白の少年時代に関して、「12、3か或は4、5歳まで久居といふ所の米屋に小僧をして居たといふ」という伝聞を記しているが、これが何を根拠としているのかは明らかでない。蕭白を伊勢地方の出身とする伝説と同類のものかもしれないし、あるいは逆に京都に生まれた蕭白が幼い頃から伊勢地方と何らかの関係を持っていたことを間接的に示しているのかもしれないが、現時点では確認することができない。

1 「達磨図」

1 「達磨図」

 それでは、京都生まれの蕭白が伊勢地方に赴き、伊勢地方出身といわれるほど大量の作品をこの地で描くことになった理由は何であったのか。残念ながら、蕭白の伊勢滞在の経緯について伝える資料は現時点では見出されていない。

 

 しかし、間接的な手がかりは存在する。一つは、蕭白一族の菩提寺である京都の興聖寺を中心としたネットワーク。他の一つは、桃澤如水の報告に補遺を加えた書誌学者三村竹清が伝えるエピソードに京都の骨董商竹何堂の言説として引かれる「曾我蕭白といふは京都の紺屋」という一節、あるいは蕭白の出自に関わる事柄である。

 

 蕭白の墓が、京都上京の興聖寺にあることは、早く桃澤如水の報告や大正11年刊行の『京都名家墳墓録』に記されていたが、昭和42年にこの墓の碑文と同寺の過去帳を調査した辻惟雄氏によって、蕭白が安永10年(1781)正月7日に没したこと、蕭白の本姓が三浦氏であること、彼の出自が丹波屋もしくは丹後屋という京の商家であったことなどが明らかにされた(文献62)。

 

 こうしたことや、同寺に伝えられる「寒山拾得図」を初めとする蕭白画の存在などから、蕭白がこの寺院と浅からぬ関係にあったことを知ることができるが、同寺は伊勢地方とも無関係ではなかった。

 

 津の浄明院は、桃澤報告によれば、かつて蕭白が一年ほど滞在して、鶴の図を襖に描いていたという寺院であるが、この浄明院は興聖寺とは本末関係にある寺院である。また、興聖寺は津の藤堂藩から大きな援助を受けていたが、浄明院も藤堂藩の三代藩主高久が菩提所とした藤堂家ゆかりの寺院である。

 更に、三村竹清が蕭白の門人として名をあげた浄明院の頑極(1748-1808は、蕭白画にも通じるような癖のある水墨作品を残しているが、彼は一時期輿聖寺の住職をつとめていたとも伝えられる。

 

 このように、蕭白一族の菩提寺である興聖寺は、頑極という人物の存在、津の浄明院との本末関係、藤堂家の庇護という三つの共通項によって、伊勢地方と蕭白とを結びつけることになるのである。

 

 一方、これとは別に、伊勢地方と蕭白との関係を探るに当たって、蕭白の出自を根拠とする考え方がある。三村竹清による、蕭白が京の紺屋であったという京都の骨董商からの伝聞に着目した狩野博幸氏や冷泉為人氏は、蕭白一族は京の紺屋であり、早くに父と母とを失った蕭白が、家業上の人脈を頼って木綿産地である松坂地方と何らかの関係を持ち、紺屋の仕事で身につけた画才を発揮して、この地方で制作をするようになったと想定している(文献24・25)。

 

 現在のところ、残念ながら両説とも確証はない。しかし、いずれにしても京都を本貫の地としていた蕭白一族の出自や家業に、蕭白を伊勢地方へと向かわせる必然的な理由があったことは確かであろう。そして、蕭白の伊勢滞在は、かつて桃澤が考えたような自由気ままな「漫遊」などではなく、絵師として生活を立てていくための積極的な動機による行動であったと考える方が自然であろう。

伊勢地方での蕭白をめぐる交遊

 松坂の豪商の出で儒学者奥田龍渓・三角兄弟とも縁続きの森壺仙は、宝暦頃から文政年間に至る松坂での出来事を記録した『宝暦咄し』の中で、蕭白があまりに奇異な振る舞いのために当地の人々からは受け入れられなかった挿話を伝えている。

 

 また、桃澤如水が書き残した蕭白に関する幾つかの挿話は、いずれもあまりに常識離れした蕭白の奇矯振りを伝えているが、そこからはこの地方の人々と親しい交遊関係を結ぼうとせず、常人には思いもつかない行動を繰り返す、強気ではあるが孤独な蕭白の姿が浮かび上がってくる。

 

 しかし、伊勢地方に伝来した多くの作品を見れば、蕭白の作品を認めて彼に絵を注文した人々や、彼と交遊を結んだ文化人たちが多数存在したことは明らかであろう。二度あるいは三度に及ぶ伊勢滞在を通じて、蕭白はこの地方に大小様々な作品を残すとともに、当地の人々と交遊関係を結んで、18世紀後半の伊勢地方の文化シーンを彩ったのである。

 

 18世紀後半の伊勢地方は、いわゆる伊勢商人の富に支えられ、また伊勢神宮へ参詣するための陸上、海上交通が発達していたこともあって、全国的に見ても江戸や京の先進文化がいち早くもたらされた地域であった。

 

 中でも、松坂木綿の大生産地である紀州藩領の松坂は豪商たちの屋敷が軒を並べ、また全国から多くの門弟を集めた国学者本居宣長の活動拠点でもあり、町の中心部にある継松寺は多くの画家や書家、学者が訪れる文化的雰囲気に満ちた寺院であったことが知られている。また、藤堂藩の城下町で伊勢街道沿いに位置する津では、藤堂藩に仕える学者たちの活発な活動が見られた他、江戸で木綿問屋を営んでいた富商川喜田家に代表される豊かな商家も少なくなかった。

 

 少年時代に両親や兄弟を亡くし、絵師として自立していく道を選んだ蕭白が、生家の家業で得られた人脈や菩提寺輿聖寺を中心とする様々な関係を手がかりにして、自らの絵を売り込むマーケットとして松坂や津を選んだとしても、不思議ではない。また、そうした都から到来した新しい絵画表現を受け入れるだけの経済力と文化的な素地が、この地方に蓄積されていたと見ても大きな誤りはないだろう。

 ところで、桃澤如水の「曾我蕭白」に補遺を加えた三村竹清は、蕭白の門人として奥田龍渓、頑極、二日坊宗雨、田中岷江の名をあげている。彼らを蕭白と師弟関係にある門人であったと考えるには無理があるけれども、蕭白と親しい関係にあったか、あるいは蕭白から何らかの影響を受けた人物であったことは間違いない。また、近年発見された、松坂継松寺の住持無倪が賛を加えた「天神図」(挿図2)などは、蕭白が当地の文化人たちと親しく交わっていたことを証明している。

 

 上方文化の中心からやってきた蕭白は、地方の人々にとっては最先端の文化人と映ったのかもしれない。あるいは蕭白を通じて最新の京の文化情報を得ようとした人々もいたかもしれない。また、蕭白にも俳詣を初めとして絵画以外の領域でも、地方の文化人たちの期待を裏切らないだけの文化的素養があった。

 

 森壺仙が伝える蕭白の「異形のふるまい」や桃澤如水が記した蕭白の軼事は、確かに蕭白の絵画表現の成立を考える上で大きな要素とはなるが、それが全てでなかった。このことは、怪異で奇矯なところが全くない蕭白の俳画作品を見れば明らかだろう。

2 「天神図」

2 「天神図」

その後の蕭白評価

 以上のように、蕭白は18世紀後半の伊勢地方の文化人や富裕階層の人々、寺社等と絵画制作を通して一定の関係を結んだ。しかも、蕭白に関する様々な挿話から窺えるように、蕭白の絵と行動は当地の人々に大きなインパクトを与え、蕭白の奇矯振りは後世まで語り継がれることになった。また、蕭白没後の画史画論書の記述からは、19世紀の人々が蕭白に対して常軌を逸した狂人のイメージを抱き、特異な存在の画家として注目していたことが窺われる。

 

 蕭月や白如といった「蕭」や「白」の文字を画号に用いた蕭白門下の絵師たちや、「倣蕭白」の作品を残した絵師たちの存在を考慮すれば、蕭白没後も蕭白風の作品に対して一定の需要があったと想定して大きな誤りはないと思われる。

 

 さらに、蕭白ゆかりの地である伊勢地方や播州地方に残る大量の贋作、疑問作は、蕭白画を求める人々が19世紀以降も数多く存在したことを示している。蕭白の贋作といえば、山水や仙人、鷹図の押絵貼屏風を今も数多く眼にする機会がある。そうした贋作については、幕末から明治期にかけて大量に制作されたと見る説もあるが、19世紀以降の蕭白評価の様相を探るためには、贋作、疑問作の制作時期や場所等について詳しい検討が必要であろう。伊勢地方では、「伊賀蕭白」と称される蕭白贋作者の存在がよく語られるが、こうした贋作者の存在も伊勢地方における蕭白の活動と蕭白評価とに密接に結びついている。

 

 蕭白作品は、明治10年代にフェノロサやビゲローらによって多くの作品が蒐集されアメリカヘもたらされたが、その経緯や19世紀以降の日本国内での蕭白観の展開については、必ずしも明らかにされていない。そうした問題を検討する際にも、伊勢地方における蕭白に関する伝承や、疑問作・贋作の流布、蕭白周辺の絵師の活動は一つの手がかりとなるだろう。

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