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「かたちびと」の作品世界

酒井哲朗

 画家は一つの時代を生きる。自らの資質にしたがい、その世界体験を絵画として表現する。島田章三は、第二次大戦後の混乱から現代の高度情報社会にいたる価値観が激しく変動し多様化した時代のなかで、新しい具象絵画の可能性を追求した。島田は彼自身の絵を「かたちびと」という。その表現の世界は、純化された色彩と形体が織りなす清爽かつ親和的な抒情的世界といえるだろう。

 島田章三の画家としての出発は、きわめて順調な恵まれたものだった。1957年、東京芸術大学在学中に第31回国画会展に出品した《ノイローゼ》が国画賞を受賞し、翌年の卒業制作《箱舟》は大橋賞を受賞している。つまり、新進作家として注目されながら画家への道を歩みはじめたわけである。

 《ノイローゼ》は病める精神の表象であり、遠景に荒涼とした風景、近景に大きくクローズアップした人物を配し、暗い赤と黒を基調に描かれた表現主義的作品である。人物はデフォルメされ、時間(柱時計)や均衡(ヤジロベエ)を表す形象と組み合わされて、狂気の状況を指示している。このモチーフは個人的な体験に基づくと画家自身はいうが、国吉康雄や松本竣介、ベン・シャーンらに共感したという画家が、それを時代の感情の表象として普遍化し得たことが受賞の理由であろう。

 1950年代後半から60年代初めにかけて、熱い抽象と呼ばれ国際的な前衛様式とみなされたアンフォルメル旋風が日本の美術界を席巻した。島田章三30歳前後の頃である。表現者の身振りや絵具の物質性を強調するアンフォルメルの表現性を島田は強く意識したようである。この頃、牛や鳥などをモチーフに、対象の原形をとどめぬまでに単純化し、絵具を壁のように厚く塗り重ねた一連の作品を制作している。

 島田はこれらの作品を国画会と安井賞候補新人展に出品している。安井賞候補新人展は創設以来、会派をこえて新しい具象絵画のパイオニアを育ててきたが、それは彼が画家としてめざした方向と一致するものであり、しかし島田はアンフォルメルに傾斜しつつも、あくまでも具象絵画の世界にとどまった。そしてこの時期の模索は、その後の島田章三の作風形成を考えてみた場合、フォルムの構成やマチエールの探求に役だったことは疑いない。

 島田章三が安井賞を受賞したのは、1967年の第11回展の《母と子のスペース》である。前年新設された愛知県立芸術大学で教職に就き、住まいを愛知郡長久手村に移したが、この年の国画会出品作《はこぶね》には、作風の変化が明らかに認められる。ノアの方舟をモチーフにしたこの作品には、人間像が描かれ具象的な形体が復活している。赤と黒を基調にするが全体として画面は暗い。翌1967年に《母と子のスペース》《エウローペ》《三美神》などを制作したが、神話的な物語とともに人物を登場させ、画面は朱、緑、黄、白など明度の高い色彩を多用し、一転して明るくなった。

 西洋古典の引用といった主題設定は、恐らく、学生を教える立場にたったこと無関係ではあるまい。環境の変化は、この画家にそれまでの一表現者としての孤独な立場から、もう少し視野を広げて自らの制作を見つめる機会になったのではないかと想像されるのである。しかし、これらの物語的主題は、神話の人物として描かれているのではなく、あくまでも島田流に翻案された現代の人間像であることは指摘しておかなければならない。

 記念作となった《母と子のスペース》は、画面中央を柱と梁、敷居など建築内部の骨組みによって画面が区画され、その馬小屋ともアトリエともつかぬ不思議な空間に人間と馬の母子像が描かれている。人物や馬は輪郭線を用いず、身体の細部は省略され、並置されあるいは重なり合う朱と緑、黄、白などの色面によって構成されている。画因はキリストの生誕にあったと思われるが、ここに表現されているのは、明るい光(色彩)が充溢する空間のなかの現代風の人間と馬の母子の愛情に満ちた交歓の情景であり、祝福された生命のドラマである。ここには以前の暗い情念の表出はみられない。


キュビスム体験

 島田章三は、1968年9月から1年間愛知県の在外研修員として渡欧した。美術館の作品を見ることに主眼を置いたというこの留学は、画家として確かな地歩を築いた島田にとって、自己点検のよい機会となったようである。島田が関心をもったのは、マティス、ピカソ、ブラック、レジェら20世紀の画家たちであり、島田は、彼らの多数の実作の直接的な視覚体験を通じて、キュビスムを再認識するに至った。「僕は先輩の日本の洋画家は、立体派の形式を輸入したに過ぎないと思っている。形態を再構成していく立体派を、日本人の言葉で翻訳してみたいものだとパリ留学中考えた」(『島田章三 かたちびと』1988年 美術出版社刊より。以下画家の言葉の引用はすべてこれによる)という。

 アンフォルメルを通過した島田は、《母と子のスペース》にみられるように、再び具象的なかたちを復活させ、色彩表現を主とした構成的絵画を創出した。島田はパリでもはや古典化したキュビスムの作品とあらためて接し、キュビストたちの絵画の解体と再構成、そしてその後の造形思考を追体験することによって、彼自身の構成的絵画の原点を見いだしたといえよう。それまでかたちよりも色彩が優位にあった島田の絵画において、「かたち」が強く意識されはじめ、やがて「かたちびと」の世界に展開していくことになる。

 島田におけるキュビスムは、単なる絵画の様式ではなく、制作原理もしくは一種の絵画の統辞法というべきものである。キュビスムの多次元的視点やコラージュ的手法はさまざまなレベルの形象の統合を可能にする。画家自身が語り、また多くの論者が指摘するように、島田が日常生活のいろんな場面をモチーフとして作品化していく構成原理は、キュビスムに由来するものであろう。島田が立体派を「日本人の言葉で翻訳してみたい」というのは、キュビスムという普遍文法に基づいて、日本人として独自の絵画を創造するという風に言い換えることができよう。

 島田章三の構成的絵画は、平面上において物象の解体と再構成が行われる場合、そこに生起している事象に画家の記憶が投影される。つまり、同一画面で現在と過去が交錯する。このような事態を、村田慶之輔は「ことの同時話法」(前掲『島田章三 かたちびと』)と呼び、原田光は「引用」という概念で説明し、島田は「キュビスムさえ、構成的絵画の素材として、彼は自分の絵の中に引用してくる」(『島田章三展』図録1993年、横須賀市)」という。このように島田の絵画表現は、「ことの同時話法」や「引用」という言葉で形容されるさまざまな形象が、ひとつの画面のなかに統合されている。島田のいう「日本人の言葉」とは、固有の造形言語によって彼自身の生活感情を表現すること、すなわち具体的にはこれらの形象そのものを意味し、キュビスムはそれらの言語の統辞法、形象の統合原理の働きをしている。


「かたちびと」の世界

 島田章三は、彼が描くのは「かたちびと」であるという。この自己規定はなかなか含蓄に富んでいる。たしかに島田の描く人物像は、単純化され抽象化されている。それは画家が個別の人間の感情や性格、特徴などを表現しようとしていないためであり、人物は「ひとがた」のような「かたち」に還元され、画中で重要な造形的役割を果たしている。しかし、この「かたちびと」は、画家が表現しようとするモチーフの主役として、人間的感情の担い手でもあるという、両義的な役割を与えられている。

 島田が「かたちびと」と名づけた、人のイメージを原点とする制作をはじめたのは、《愛鳥の日》(1973年)あたりからだと、画家自身はいう。愛知芸大の官舎の庭にやってきて餌をついばむ野鳥たちがモチーフになったというこの作品やキャンパスの学生たちの若々しい情景をモチーフにした《二人球技》(1974年)、《ロッカーと女》(1975年)、様式化された石庭を絵画的にさらに様式化して人物を配した《石庭女人図》(1976年)などへと続く一連の作品では、画面を水平、垂直、斜線を基本とした幾何学的平面を基軸としてさまざまな色彩のかたちによって構成されるが、全体に色調は暗く、人物は顔が小さく長身に描かれ、人物の輪郭線など随所に細い線が多用され、繊細で美しいマチエールをつくっている。島田はキュビストが「ギターと女体を同じように解釈」し、「風景や静物という設定を外した自由さ」に共感し、「骨組みのことでいつも絵を考えている」と称賛しているが、これらの作品では、人物と背景を等価に扱う空間構成への意識がより鮮明になっている。

 1970年代末から1980年代初めにかけて、「かたちびと」の表現に変化がみられる。《泉にて》(1978年)、《波》(1979年)、《炎》(同)などでは、画面の形体表現は線が太くなり、人物はヴォリューム豊かに描かれ、面の構成は大胆な装飾性を強めている。マチエールは重厚となり、画面に曲線が取り入れられ、より構築的となっている。《炎》は少年時代の高熱による幻覚がモチーフだといい、《ふみきりびと》(1981年)は、父を亡くした折にたびたび通った踏切で父と子、死と生の「遮断」を実感し、それが画因になったというが、これらの作品において、そういった画家の心理が表現されているわけではない。ここには色彩とかたちに還元された「かたちびと」の自律した絵画の表現世界があり、堅固に構築された画面は、「強くはっきりとかく」ことが大切だと考えはじめたこの画家の制作意図に基づいている。

 《はなかたちひとかたち》(1983年)、《サボテンガーデン》(1984年)、《湘南》(1986年)、《馬と人のはざま》(同)、《かたちびと川のほとりに》(1987年)、《横須賀》(1988年)、《鳥からの啓示》(1989年)、《臨海公園》(1990年)、《岬にて》(同)とその制作の跡をたどってみると、1980年代中頃に近づくと、輪郭線や陰刻のような線が再び多用されるようになり、フォルムやマチエールなど画面構成は複雑になっている。この傾向は《池畔散策》(1991年)や《三河湾うさぎ島》(1992年)など1990年代の作品へと続いている。

 こういった作風の変化は、「いつも自分の中に自分をこえる思考をもって絵に立ち向かいたい」という島田の制作姿勢の所産である。この頃から彼が「湘南シリーズ」と呼ぶ、少年時代を過ごした横須賀や湘南のモチーフや《鳥からの啓示》のようなブラックへのオマージュなど、記憶や回想などの過去と現代の時間をひとつの空間のなかに重層させた作品が描かれている。このように島田はさまざまな事象を色とかたちに還元して構成的絵画にとりこみ、線や色彩の織りなすポエジーとして昇華する。

 初期のドラマティックな表現主義的作風を脱化して、安井賞作家として具象絵画の道を歩んだ島田章三は、自らの絵画のモチーフをすべて画家自身の日常生活の中に求めた。画家をめぐる都市生活のディティルといってもよいだろう。学校、街角、美術館さまざまな場面を手がかりに、彼の絵画の世界をつくるのである。島田章三は、その絵画において、生活への愛と絵画への愛、すなわち人間が生きる喜びと絵を描く喜びを表現しているといえるだろう。「かたちびと」の世界は、清澄で平穏な親和的世界である。人々はこのような色彩と形体によるポエジーに共感するのである。

(三重県立美術館長)

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