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初期の島田章三

毛利伊知郎

 島田章三の画業については既に多くが語られているが、ここでは島田の出発点となった1950年代後半から60年代前半頃の初期作品が持つ意義について少し検討を加えることとしたい。

 現在までの島田の画歴は、おおよそ次の4期に大別されると考えて大きな誤りはなかろう。すなわち、フォーヴィスムやアンフォルメル絵画に画家が接近した1950年代後半から60年代前半の第1期、安井賞受賞作《母と子のスペース》に象徴される明るく鮮やかな暖色系の色彩を主体とした作品が描かれた60年代後半から70年代初期に至る第2期、1968年からヨーロッパに1年ほど滞在してキュビスムをこの画家なりに発見した第3期、そして「かたちびと」の作品が描かれるようになった70年代後半以降の第4期である。

 過渡的なスタイルを示す作品も少なからず見出されるし、最近の作品も少しずつ変化を見せているので、こうした図式的な時期区分がどれほど有効であるか異論もあろう。しかし、このように島田章三の画業を大まかに時期区分して作風の展開を概観してみると、そこにこの画家の在り方の特質といったものが浮かび上がってくるように思えるのである。

 その特質というのは、アンフォルメルへの接近を初めとする20代後半期に見られる模索や、30代半ば頃のキュビスムの再発見などこの画家なりのスタイルの展開はあっても、その背後にあって変わることのない絵に対するこの画家固有の姿勢といえるかもしれない。

 また、それは島田章三が少年時代から自然と絵の道に進み、東京芸大在学中には新人作家として注目を集めるという、画家としては非常に早熟であったことと大きく関係しているのではないかと筆者には思われる。

 島田章三は、戦前は旧日本海軍の軍事施設が集中し、戦後は在日米軍基地の町となった横頻賀に生まれ育ったが、子どもの頃から絵を好み、終戦後入学した新制中学校では美術部に所属して絵画に深くのめり込み、高校2年の頃になると「頭の中は絵のことばかり」だったという。絵を描くことを一生の仕事にしたいと考えるようになったのは、中学時代のことであったというが、優れた美術教師との出会いという幸運はあったにしても、画家を志望するという人生の選択は、自己の関心に従えば、島田にとって極めて当然のことだった。

 そうした意味で、フォーヴィスムやアンフォルメルから強い影響を受けながら、様々な模索を行った1950年代後半から60年代前半は、画家鳥田章三の基層が形成された時期として少なからぬ意味を持っていると筆者は考えている。

 島田は、生地横須賀について、海軍刑務所や射撃訓練場などが強い印章を自身に残したと回想した上で、「コンクリートの塀と道、鉄塔、ひろがる野原、そして標的、こんな形而的な造形のイメージが、今でも僕の記憶の中で生きつづけている原風景なのかもしれない」と述べ、さらに戦後の横須賀について「今でも僕の横須賀の印象は、基地の町独得のケバケバしさは感じない。むしろモノクロームな印象である。それは、終戦直前の長兄の戦死、といった僕個人のイメージだけでなく、その昔から横須賀の色はグレーと決めこんでいたのだろう。僕の初期の作品の色も暗い」と記している。こうした言説は、島田章三の初期作品に通底する暗い色調や、決して色彩に依存した絵づくりをしないこの画家の姿勢が、横須賀での原体験と強く結びついていることを示しているといってもよいだろう。

 もちろん、1967年の安井賞受賞作《母と子のスペース》に代表される60年代後半から70年代初期に描かれたいくつかの島田作品は、赤や黄色など暖色系の鮮やかな色彩を大きな特徴としているけれども、その後の作品は再びモノクロームに近い褐色や灰色を主体とした色調に戻っている。こうした作風展開を見れば、島田章三という画家は豊かな色彩を使いこなす術を心得てはいるのだが、彼は決してカラリストにはなろうとしなかったということができるだろう。

 ところで、芸大在学中の1957年、島田章三が第31回国画会展に初出品した《ノイローゼ》は国画賞を受賞して、島田の画歴の冒頭を飾ることになった。この《ノイローゼ》は、島田作品としては珍しい縦長の画面一面に、胸に柱時計を抱き、顎の上にやじろべいを乗せて立つ女性の姿が描き出されている。フォーヴィスム風の激しい筆致と、暗いモノクロームを主体とした画面の中にアクセントとして使われた鮮やかな赤が印象的な作品で、島田はこの絵で「病める現代というものを表現」しようとしたという。

 一年間の浪人生活の後に、芸大に入学した島田は大学のカリキュラムにはあまり関心を示すことなく、学外での勉強会に出席したり、デュビュッフェ、ニコルソン、ポリアコフら当時わが国に紹介されていた海外作家たちや、国吉康雄、松本竣介らの作品から強い影響を受けたとしばしば回想している。

 誰かに勧められたというのではなく、子どもの頃から自発的に絵に親しみ、そのまま自然と画家の道に進んだ島田にとって、絵を描くことは呼吸をすることと同じく、生きていく上で欠かすことができない行為であったのだろう。芸大在学中も、仕事の量は他の誰にも負けなかったという。絵を描くことは極めて自然な行為であり、「(絵を)かく時間がないとイライラして機嫌が悪くなる」というのである。

 そうした島田であれば、この時期のわが国美術界で流行した、戦後社会の政治や社会問題を扱った、いわゆる社会的リアリズム絵画に対する彼の次のような言葉も自然に納得することができる。

 「社会的リアリズムの絵画は赤旗や上半身裸の男がこぶしをあげている絵が盛んだったが、僕はもっと人体に心情をたくし、造形につなげてゆく仕事がしたかった。絵にイデオロギーとかメッセージとかをとり入れて人に伝える方法は好きでない」。

 その後の島田作品の展開を考えると、この言葉は絵画に対する島田の基本的な考え方を示していて、示唆的である。《ノイローゼ》制作に当たり、島田の関心は人物を描くことに集中していて、場面設定はむしろ副次的な存在にすぎない。作品の説明的な要素となる場面の設定よりも、描くべき対象やモチーフをいかに表現するかに集中すること、それが《ノイローゼ》において島田が採用した方法であったが、説明的要素よりも造形的な要素そのものを重視するこの姿勢はその後も一貫しており、こうした姿勢が島田作品の構築的な性格を補強しているのではないかと考えられる。

 《ノイローゼ》と前後して描かれた《からすのいる風景》(1954年)、《花の風景》(1956年)、《アパート(赤)》(1958年)など1950年代後半の作品からは、説明性を極力排除して、中心となるモチーフに強い存在感を与えることにエネルギーを集中する画家の姿勢を見て取ることができる。

 1956年11月、わが国初の本格的なアンフォルメルの紹介となった「世界・今日の美術展」が東京で開催されたのを皮切りに、翌年にはミシェル・タピエ、ジョルジュ・マチュウらが来日し、また今井俊満がパリから一時帰国するなど、50年代後半から60年代前半にかけてわが国の美術界はアンフォルメル絵画の強い影響下に入ることになる。島田もアンフォルメルとは無縁ではなく、60年代初期に描かれた島田作品は、画家がアンフォルメル絵画から少なからぬ影響を受けていたことを示している。

 《とりたのし》(1961年)、《ひしがたの鳥》(1963年)、《牛と人》(1964年)、《巣立ち》(1964年)などの作品は、.鳥や牛、人物などを主要モチーフとしているが、具象的な形は後退し、抽象的なフォルムの色面と引っかき傷のような描線が画面を支配している。また、これらの作品では、絵具そのものの質感が前面に出されていて、当時の島田が絵具の素材感を絵づくりに活かす方向で模索を行っていたことを知ることができる。

 これらアンフォルメル調の作品は60年代後半に入ると姿を消し、島田は再び具象的な形態と正面から取り組んだ作品を描くようになる。「アンフォルメル最盛期には、ボクなりにその洗礼を受けたが、結局、形から逃げることは出来なかった」と画家は述懐しているが、アンフォルメルとの訣別がどのようになされたのか、必ずしも多くのことを画家は語ろうとしない。

 この時期には、名古屋へ転居して大学で教職に就くなど外的な要因もあった。東京の美術界と距離を保つことによって、少年期から絵に親しむことによって身についた、形に対するこの画家の本能的ともいえる執着心を覚醒させたということはあるだろう。島田章三なりにアンフォルメルの表現を試みながらも、そこに何か違和感を感じ、やはり具象的な形態に戻っていくところが、「絵は好きだった。子供らしく幼くて面白い絵というより、的確に形をつかまえた絵だった」と回想する、生まれながらに画家であったとさえいえる島田章三の最大の特質なのだろう。

(三重県立美術館学芸員)

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