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関根正二と河野通勢の邂逅

中谷伸生

 「神は目を開かせた、力を認めた、表現に努力せよ。」この言葉は関根正二の遺稿(註1)であるが、現在まで知られている関根自身の言葉としては、もっとも古い部類に属するもので、大正4年7月4日の日付が入っている。この年に書かれたものとしては、「霊肉の一致、神人の間。神は何処に有りて崇め奉るか。悲しくも神の何たるやを知るまい。」(註2)という文章も見られる。キリスト教信者ではなかった関根に、これらの言葉を吐かせたものは一体何であったのか。もっとも大正期には、文芸雑誌『白樺』が西欧の思想や芸術を、あたかも堰を切った水の流れさながらに陸続と紹介しており、〈神〉という言葉もキリスト教信仰とは無関係の脈絡の中で、知識欲の旺盛な多くの若者の心を、いわば金縛りにしたという時代背景を見逃してはならないであろう。しかし、関根はこうした言葉を、彼の人生と芸術に運命的な刻印を押した、ある人物の強い影響によって語るようになったはずである。その人物とは、西洋美術に憧憬しつつ、遙か長野の地で暮らしていた若き画家、河野通勢である。

 

 この4歳年上の河野通勢に対する関根の尊敬の念は、残された通勢宛と思われる手紙の文面から、間違いなく読み取ることができるであろう。「私が長野で兄と知り合ひに成りもし、私が兄を喜ぶ心がなかつたら、私は一度御逢ひして、逢なかつたか(も)知れません。併し私は兄と知り合ひに成た際、自分等の味方で有る如く、私は喜びました。(中略)其処に愛有ることは疑いません。愛、大なる愛の力、私が兄を信じ兄をしたふ、其れ天なる神の如し、愛の力に支配され、私がしたふのです。」(註3)関根は通勢に出金った後、明らかに自己の絵画の作風を変化させており、しばしば通勢そっくりの作品きえ描くほど、通勢の人柄と芸術に探く心酔していたようである。

 

 さて、関根と通勢との長野での出合いは、従来大正2年とする説が多かったようであるが、これは大正8年の『関根正二遺作展覧会』目録の年譜に記載された「大正2年9月甲斐、信濃、越中、越後の諸地を経て帰宅」という一文に基づくものであろう。だが、どうもこの目録の記載は誤りであるとしか思えない。というのも、関根自身の言葉であるが故に、より信憑性の高い、大正5年2月に出した、はん子宛の手紙に、「其の後、幾多の変化と共に成長して去年の2月17日に、大なる自覚をし、私は十ヶ月間、人も行かない飛田(騨)の山中の或る寺で、孤独の生活を続けました。」(註4)と記している。さらに、同じく大正5年の初夏に、詩人の村岡黒影に宛てたとおぼしき手紙にも、「私は去年今頃が思いやられます。思へば今頃は甲斐の□□□でしたよ。□□小鳥のさえづる山間を、たゞ一人通り行く姿は、懐(し)いですよ。」(註5)と書かれている。これらの書簡を突き合わせて見れば、関根が無銭旅行に出かけたのは、大正4年2月のことで、河野通勢に出合ったりした後に一人で帰京したのが、同年6月頃だと考えられる。(註6)それ故、本稿の冒頭で採り上げた「神は目を開かせた云々」という言葉は、河野通勢と知り合った後に書かれたものといえよう。ついでながら、関根が信州方面へ旅行しようとしたのは、放浪の日本画家、野村某の誘いによってであったといわれている。幼なじみの伊東深水の紹介によって、東京印刷株式会社図案部で働いていた関根は、そこで小林専という文学好きの洋画家と知り合いになったが、小林専の下宿にしばしば顔を見せていたのが、野村某であった。もっとも、あてもなく放浪の旅に出たという説には異論がある。河野通勢の子息の河野通明氏の話によると、当時の東京印刷図案部には、顧問として日本画家の結城素明がおり、結城と河野次郎、すなわち通勢の父とが知り合いであって、結城は「長野に行けば、河野次郎を訪ねるように」と関根に常々語っていたということである。河野次郎を訪ねた関根は、そこで息子の通勢に出合うことになった、ということになる。(註7)さらに、河野通明氏の話によれば、このときに関根は、木村という姓の足袋屋の2階にしばらくの間、下宿していたそうである。

 

 さて、通勢は「みちせい」と読むのが正しいが、東京に出てから、周囲の者が、そして自らもしばしば「つうせい」と呼ぶことがあった。しかし、作品には、ほとんど「M.Kono」というサインを入れている。通勢の父、当時長野市で写真館を開いていた河野次郎は、ギリシャ正教、すなわちハリストス(キリスト)正教会の熱心な信者であった。次郎のキリスト教信者としての聖名は「アレキセイ」、通勢のそれは「ペートル」であり、ロシア人の慣習にならって、通勢は父次郎の聖名を付け加えて、正式には「ペートル・アレキセヴイッチ・ミチセイ・コウノ」と名付けられた。(註8)通勢は生まれたときに幼児洗礼を受けており、青年時代から熱烈なキリスト教信者であって、河野通明氏の話によると、友人が、いわゆるキリスト教の安息日である日曜日に通勢と遊ぶためにやって来たとき、「今日は何の日か知っているのか」と熱っぽい口調で語り始めたという。

 

 通勢は群馬県伊勢崎市に生まれ、長野市で育ったといわれるが、出生に絡む事柄については、不明な点が少なからずある。このことに若干触れておくと、彼は父次郎の妻、すなわち彼を育てた母の実子ではなかった。妻との間に子供がなかった次郎は、他の女性に子供を産ませた。その子供が通勢であって、彼は夫婦間の騒動と不和の末に、ようやく長野の家に引き取られたという。通勢は、成長するにつれて、自己の出生をめぐって周囲の人々が自分に注ぐ目を強く意識したようである。加えて、父次郎は善光寺のある長野市に、ハリストス正教の教会堂を自力で建立して、本山のニコライ堂から高名な信者を呼び寄せており、キリシタン禁制が解かれて間もない時代であったため、旧弊墨守を旨とする世間の強い反感をかった、ということである。また、河野通明氏の語るところによると、次郎はギリシャ正教の習慣を遵守して、死亡した人間の額に接吻を行ったりしたため、長野の人々から、「死人(しびと)を舐める」といわれて、なおさら気味悪がられたという。日常生活の中で生起するこれら種々の諸事件に関して、人一倍感受性が強かったであろう通勢は、人々の噂を非常に気にしていたようであり、言いようのない悲しさを裡に秘めて、鬱積した気持ちで青春時代を過ごしたといわれる。(註9)

 

 次郎が写真家であると同時に、高橋由一門下の洋画家でもあったことから、通勢は少年時代より絵画を好んで、長野市の西を流れる裾花川の河岸に出かけて、よく写生を行った。これまでの解説文などでは、通勢は独学で絵を学んだとされているが、おそらくは、「浴衣の女」や「西長野の冬」(註10)などの少々プリミティブな写実的絵画を描いた、父次郎の感化という点を見逃してはならないであろう。「長野風景」や「河柳」などの雄渾な印象を与える油彩画の大作から、丁寧に描き込んだ小画面のデッサンに至るまで、通勢は基本的に写実に徹した作風を本領としていたが、〈裾花川の河柳〉というモティーフは、よほど彼の関心を惹いたとみえて、幾枚ものデッサンを残している。例えば、それらの中の1点「裾花の河柳スケッチ」(1914年)は、画面中央の柳を主要モティーフとする作品である。様式化された癖を随所に示す通勢独自の作品であると共に、北欧ルネサンスの画家、デューラーを想起させるかのような写実を誇るデッサンといってよいが、小画面の作品であるにもかかわらず、その密度の高さは、非凡である。まるで紙の表面を小刀で切り取るかのように力強く描かれた、柳の群葉の波状形態、加えて深く沈み込む漆黒のインクによる線描は、金属的な鋭さを示していて、印象深いものである。これらの形象は、既製あるいは自家製の特殊な鉄筆〈カラス口〉を駆使して描かれたものだという。しかも、その画面は、対象の単なる正確な描写という段階を越えて、ある種の深い精神的な内容が盛り込まれているようにさえ思われる。鋭敏な関根がそれを見逃すはずはなかったであろう。土方定一によれば、関根が河野家を訪問したとき、そこにはおそらく、洋書の古い画集 The Popular Libraryof Art叢書の一冊 Albrecht Dürer,Rembrandt,Leonardo da Vinci, London,1902.の書籍があった可能性がある、(註11)ということであるが、いずれにしても当時、通勢がデューラーやレオナルドの画集を持っていたことは疑いなく、それについては、既述した「裾花の河柳スケッチ」のデッサン類を見れば一目瞭然である。

 

 通勢が如何に西洋美術に関心を抱き、かつ真剣にその研究に力を入れていたかは、長野で関根と出合った後の作品であるが、興味深い「授乳の聖母習作」(1919年頃)を見れば、誰しも十分に納得するに違いない。このデッサンはコンテによって素描の練習のために描かれた習作である。鋭く巧みな描線は、ルネサンス期の画家デューラーあるいはレオナルドを髣髴とさせる。主題は聖母マリアが胸をはだけて、幼児キリストに乳房を含ませている場面である。聖母が幼児キリストを抱き上げるというモティーフ、すなわち「聖母子像」は、西洋中世美術の伝統的な図像であり、ゴシックおよぴルネサンス時代には、もっとも好まれたモティーフとして、その作例は教会堂外壁に立ち並ぶ彫刻からフレスコ、テンペラ、油彩画、ステンド・グラスに至るまで、厖大な数にのぼる。しかし、酷似するモティーフであるとはいえ、「授乳の聖母」という、一面においてマリアの官能美を示す図像は、西洋中世美術史上では比較的新しく、おそらく13世紀のゴシック美術において出現したものであろう。ついでながら、非常に古い作例を挙げておくと、フランス盛期ゴシック期に建立された、シャルトル大聖堂内陣部の南周歩廊上部の円形窓にはめられた、13世紀前半のステンド・グラス窓に、この図像を使った珍しい作品が見られる。通勢は、この図像をデューラーから借用したのではなかろうか。デューラーの「授乳の聖母」の作例としては、1519年作の銅版画があるが、デューラーの場合には、聖母の乳房と幼児キリストの向きが、左右逆になっている。しかし、マリアの手や、乳首を挟むように真っすぐに伸ばされた指、その手の甲に重ねられたキリストの手の形態モティーフなど、両作品には酷似する点が多い。だが、デューラーのこの銅版画は、それほど有名な作品ではないので、とくに大正時代に、通勢がそれを美術図版で見た、と簡単に結論づけるわけにはゆかない。あるいは通勢はレオナルドの「聖母子像」の作品をヒントに、この習作を描いた可能性もある。

 

 また、この画面には横向きの、そのほとんどは女性と見える複数の頭部デッサンが、聖母の右肩および右胸の上に重なるように描かれている。これらのプロフィールが、一体何を意味するものか不明であるが、聖母子との関連、あるいはその特徴ある群像表現からいって、幼児キリストを礼拝にやって来た東方の三博士の周囲をとり囲む、群衆の表現であるかも知れない。とすれば、これはレオナルドの未完成作といわれる「東方三博士の礼拝」から借用した人物描写といってよいかも知れない。形態モティーフとしては、非常に酷似するものといえるであろう。ついでに指摘しておくと、この画面の下部にも、やはりレオナルド風の鼻の高い人物の横顔が簡略化された線描によって、描き込まれている。なお、この「授乳の聖母習作」の裏面には、ルーベンス風の柔らかくて、達者な筆さばきを見せる、「妻の像」が描かれており、通勢がルネサンス絵画のみならず、17世紀のフランドル絵画にも随分造詣が深かったことを示す一例となっている。大正8年頃の通勢は、岸田劉生に称賛された宗教絵画「キリスト礼拝図」や「テベリア湖上の耶蘇」などの油彩画から、「スザンナと長老」の毛筆によるデッサン、さらにエッチングによるレンブラント風の「スザンナ」など、いわゆるキリスト教的主題のオーソドックスな宗教絵画に精力的に取り組んでおり、キリスト者としての画家という通勢の生き方が、より一層鮮明に打ち出された時期であった。宗教絵画に立ち向かう通勢の真撃な姿勢は、同じくクリスチャンであったにせよ、劉生の遠くおよぶところではなかったようである。

 

 ところで、関根が通勢と出合ったとき、つまり大正4年の春から梅雨にかけての時期、通勢は上記の宗教絵画に没頭する一歩手前の時期であって、おそらく彼は、年下の関根に向かって、デューラーをはじめとするヨーロッパの絵画と、キリスト教の信仰について、熱っぼく語り続けたに違いない。このときの二人の会話は、おそらく感受性の強い若い関根にとっては、圧倒されるほどの刺戟となって、以後の彼の思考と感情の方向を、決定づけたはずである。実際、関根は通勢と知己の間柄になってから、冒頭で引用した言葉からも読み取れるように、あたかもキリスト教信者の心境に近づこうとするかのような言葉を、紙片に書き記すようになった。この感情は、先に採り上げた通勢宛と思われる手紙の文面においても、読み手の、とりわけリキスト教の信仰をもつ通勢の胸を強く打つ、謙虚な文章となって、表明されることになったのである。

 

 また、通勢との出合いが、関根の作品にきわめて大きな変化を与えたことはいうまでもない。大正4年に制作された素描「大樹(子供と木登り)」は、大きな木を画面中央に配置して、その回りに遊ぶ子供たちを描き込んでいる。こうした主題とモティーフの扱いは、通勢のデッサン「裾花の河柳スケッチ」と、何と似通っていることであろうか。また、やはり大正4年に制作された、男性の裸体素描習作「暗き内に…」においても、鋭くて硬質な線描の特質、とりわけ人体の輪郭を形づくる細かい曲線のおびただしい使用を見るなら、デューラーの線描、いやそれよりも一層通勢のそれに近い性格を、その画面に見てとることができるはずである。しかも、この画面左には、「暗き内に一点の光あり 其れを俺れは見て居る 神を知る人は或る感情に俗界に通俗な風姿方をする此れはだ作」と記銘が入っているが、これは通勢が、「裾花の河柳スケッチ」などの画面上に、寸言を書き込んだやり方とそっくりである。しかも、画面の隅に書かれたサインと年記さえもが、通勢風になっている。さらに油彩画においても、例えば第2回二科展への出品作「死を思う日」の樹木や手前の叢の表現、つまり生き物のようにうねる無数の曲線形状のことであるが、それらは適勢のそれと共通する特質を示している、と考えても誤謬ではなかろう。この作品については、伊東深水が、デューラーの影響によるもので、関根の無銭旅行の成果であると回想している。(註12)長野旅行が関根の素描に対する考え方を一変させた、という点については、知人の吉川晴帆が、夭折した関根を追想して、大正8年12学発刊の『みづゑ』誌上で、「そうして其時長野で見たといふ河氏の絵に対する態度を敬虔の態度で大に嘗めたものでした。其河野氏のペン画は余程同君の描くペン画の上に大に参考になつたものと見えて其後の同君のペン画がカナリ違て来た様に噂したものでした。」(註13)と語っている。同じく、友人の佐々木猛が追想していることだが、関根が「白と黒とで絵は描ける」と豪語していたのは、まさしくこの時期であった。(註14)

 

 土方定一は関根の油彩画「真田吉之助夫妻像」(大正7年)を見て、「ここにみられる力強いデッサンは近代絵画以前の、少し大げさにいえば、アルプレヒト・デューラー、ダ・ヴィンチのデッサンと同性質の、対象に食い入るような写実的なデッサンを思わせる金属的で硬質な力強さをもつデッサンであり、云々」(註15)と記した。ついでながら、土方の言によれば、こうした「鋭角的で神経のはりつめた硬質のデソサン」は、河野通勢的、および通勢を通じてという意味でのデューラー的デッサンであると共に、間違いなく関根独自のデッサンである、ということになる。しかも、河野が東京に出て、劉生らと一緒に草土社の同人となった後も、確かに河野と関根の交友は続いていたにせよ、関根は決して、草土社、あるいは同時代のフュウザン会とは、作風の上でも無関係であった、と主張する土方の考えに、私もまったく同感である。(註16)大正4年に長野で関根が見た、河野通勢の初期デッサンが、その後の関根の作品に、如何に重大な影響を与えたかは、今さら繰り返すまでもなかろう。

 

 蛇足になるかも知れないが、一言付け加えておくと、長野で通勢の影響を強く受けた数ヵ月の後、つまり大正4年の10月、関根は二科会展の会場で、安井曽太郎が日本に持ち帰った、セザンヌ風の色感豊かな滞欧作44点の特別陳列を見て、感銘を受け、たちまち色彩に開眼したと伝えられている。だがこの事実を指して、関根が通勢の影響からすぐさま脱してしまった、と考えるならあまりにも短絡的であろう。先に記した「真田吉之助夫妻像」は、大正7年の作であるし、また大正5年以後の素描を見る限り、関根は通勢的かつデューラー的な厳しい線描を、決して放棄してはいないのである。さらに、人生上の事柄に話を転ずると、大正4年以後の関根は、深川の溝(どぶ)の臭いがする長屋で、引き続く貧窮の生活と闘っていた。その上、度重なる失恋、とりわけ彼が献身の限りを尽くした女性、田口真咲を、友人の東郷青児に奪われるという苦汁を嘗めた。いうまでもなく、若い関根はいいようのない絶望感に襲われたであろうし、その胸を裂かれる暗黒の心情の中から、おそらくは、ある種の絶望感溢れる「信仰の悲しみ」(大正7年)、加えて、病魔と闘いながら、まるでジヨットーの宗教絵画を凄惨にしたとも形容できる「神の祈り」(大正7年頃)を生み出している。しかし、デカダンな関根の胸中の底に、説明し難い一種の宗教感情に似た心情が沈澱していて、それが絵画的イメージとして、彼の作品にしっかりと表現されているのを見るとき、私は、その〈宗教的な感情〉の源泉に、やはり河野通勢が長野で繰り返し語ったであろう、神的感情の残滓を認めねばならないような気がしてならないのである。

 

(三重県立美術館学芸課長) 

註1)酒井忠康編『関根正二 遺稿・追想 中央公論美術出版、1985年、9頁。

 

註2)同書11頁。

 

註3)同書109頁。

 

註4)同書115頁。

 

註5)同書117頁。

 

註6)詳細は本図録の年譜く伊藤匡編〉を参照。

 

註7)『青春 河野通勢』展図録、不忍画廊発行、1982年、8頁。

 

註8)河野通明「父通勢の悲しみ」、『青春 河野通勢』展図録所収、4頁。

 

註9)同書4頁。なお、著者は本展の準備中に、河野通明氏より直接これらの話を聞いた。

 

註10)『河野通勢その父と子と』展図録、長野県信濃美術館発行、1978年、および『洋画三代 河野次郎 通勢  通明展』目録、西紘画房発行、1981年、の掲載図版参照。

 

註11)土方定一「関根正二 近代日本美術史にその比を見ない幻視の画家」、『郷土白河が生んだ幻視の画家 関根正二展』図録所収、白河市歴史民俗資料館発行、1979年。


本図録no.2―13

本図録no.2―13


本図録no.2―17

本図録no.2―17


本図録no.1―32

本図録no.1―32


本図録no.1―31

本図録no.1―31

 

註12)陰里鉄郎「閑根正二筆『死を思ふ日』」、『美術研究』第315号、1980年、30頁。前掲「関根遺稿・追想」、171頁。

 

註13)前掲『関根遺稿・追想』、175頁。

 

註14)同書219頁。

 

証15)土方定一「幻視の画家――関根正二の追跡」、『NHK日曜美術館』第2集、学習研究社、1977年、64頁。

 

註16)前掲、土方定一「郷土白河が生んだ幻視の画家 関根正二展」。

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