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関根正二と大正期の洋画−二科会を中心として

森本孝

 明治32年(1899)福島県白河に生まれ、大正8年(1919)6月16日20歳と2ヵ月で夭折した関根正二が活躍したのは二科会であった。大正4年第2回二科展に出品して初入選したのが「死を思う日」で、関根はこのとき16歳であった。翌年の第3回二科展には「習作」(油彩)、「女」(水彩)、「街道」(ペン)、そして第4回二科展に「長野近郊」(油彩)を出品して入選、大正7年(1918)の第5回二科展では「信仰の悲しみ」(油彩〉「姉弟」(油彩)、「自画像」(油彩)で樗牛賞を受け、第6回には、歿した関根の遺作「慰められつゝ悩む」が痛ましく陳列されていた。

 まさしく、関根正二の活動期間は、大正4年(1915)から8年までの5年間でしかなかった。絵具も充分に買うことができないほど金銭的に貧しく、自己の個性を確立しようと精神面においても求めるものは大きく、常に精神的渇望を抱き、自己の理想と考えるものを純粋にしかも忠実に希求していった人生であったのであろう。

 上野山清貢の妻であり小説家であった素木しづは肺病に侵されていたが、関根は死を憧れ、「肺病は天才病だ」といって大いに気(えん)を吐き、素木しづが使った茶碗ですぐ食事をしたり、頻繁に上野山家に出入りし、宿泊することも多く、大柄で頑丈な関根の身体もいつしか病に蝕まれ自滅していった。死を目前にした関根は朱・青といった鮮烈な色彩に、自己の情感を極限にまで燃焼させて「三星」「子供」(ともに大正8年)などを制作、絶筆となった「慰められつゝ悩む」(大正8年)に署名しようとしながら果たせず世を去っている。その命がけの全画業は、大正洋画の青春と形容するにふさわしい。

 関根は二科会の作家と関わりを持っただけでなく、幼なじみの日本画家伊東深水、無銭旅行中に長野で知り合った河野通勢を通じて、草土社の作家など、才能ある画家たちと交わりながら、絵画制作のかたわらに詩を書く文学青年の一面をも見せ、雑誌『炎』の同人と交友していたことから久米正雄、今東光らの小説家とも親交を深めていった。

 関根が生きた明治末から大正期は、ヨーロッパの美術が次々紹介され、一種独得の文化が華やいだ時期であった。大正期といえば大正デモクラシーという言葉がすぐに思い出されてくるが、明治期には富国強兵、殖産興業といった言葉が示すように、個人は国全体のために奉仕すべきものと考えられていたが、明治末から大正期に入り、自己が自覚し、自己を生かしきることが全体のためになるとする風潮が起こってきた。これには『白樺』などの文芸雑誌による啓蒙と、ヨーロッパで学んだ画家たちの帰国が原動力となっていた。「大正時代の油彩画壇における運動は、多くの近代的な文学運動に触発されたものであり、しかも、この時代はわが国の文化史上他にその例を見ない、文学と美術が最も接近した――というより、殆ど一体となって――活動を展開した時代であった」(東珠樹『白樺派と近代美術』東出版)といわれるように、決定的な役割を果たしたのは雑誌『スバル』であり、そして『白樺』であった。これらの文芸雑誌には、セザンヌ、ゴッホなど、印象派あるいはその後のヨーロッパでの新しい絵画運動を紹介する記事が掲載され、高らかに個性尊重と主観的表現の必要性を説いている。関根もこういった雑誌を熱心に読んでいたことを示す記述が、関根の日記に現れている。

 明治40年(1907)、美術文芸雑誌『方寸』が石井柏亭、山本鼎、森田恒友らによって創刊され、翌年には島村抱月の『文芸上の自然主義』(『早稲田文学』)が出て、この年廃刊した『明星』のあとをうけて『スバル』が創刊され、与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、石川啄木らに混じり、高村光太郎や佐藤春夫なども加わっていた。『白樺』には岸田劉生をはじめ有島生馬、高村光太郎、山脇信徳、南薫造、斎藤与里、梅原良三郎(龍三郎)、富本憲吉、津田青楓、そして木村荘八、河野通勢、中川一政、椿貞雄らが集まっていた。『白樺』を中心とする雑誌の積極的な美術活動は、当時の青年画家たちに大きな影響を与えている。特に明治43年『スバル』誌上で発表された、わが国の印象派宣言といわれる高村光太郎の「緑色の太陽」は、青年美術家たちがより強烈な個性を確立する上での影響が大きい。明治42年の第3回文展に出品された山脇信徳の「停車場の朝」を高村光太郎が新開、雑誌で絶賛したところ、石井柏亭が固有色を重んじた、山脇の作品は洋画盲従であると唱えたことに端を発し、論争が生じたもので、高村は自己の基本的な理念を表明したのが次の「緑色の太陽」である。

 僕は芸術界の絶対の自由を求めてゐる。従つて、芸術家のPerso(")nlichkeit(人格)に無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を唯一箇の人間として考へたいのである。Perso(")nlichkeitを出発点として其作品をscha(")tzen(評論)したいのである。Perso(")nlichkeitそのものは其のものに研究してあまり疑義を入れたくないのである。僕が青いと思つてゐるものを人が赤だと見れば、その人が赤だと思ふことを基本として、その人が其を赤として如何に取扱つてゐるかをscha(")tzenしたいのである。その人が其を赤と見る事については、僕は更に苦情を言ひたくないのである。むしろ、自分と異つた自然の観かたのあるのをangenehme U(")berfall(好ましい訪問)として、如何程までに其人が自然の核心を窺ひ得たか、如何程までに其の人のGefu(")hl(感情)が充実してゐるか、の方を考へて見たいのである。人が『緑の太陽』を画いても僕は非なりと言はないつもりである。僕にもさう見える事があるかもしれないからである。『緑の太陽』がある許りで其の絵画の全価値を見ないで過ごす事はできない。

 細々といきながらえてきた明治の洋画界も、明治26年(1893)に黒田がフランスにおける芸術家の自由な空気と新しい外光派の作風を持って帰国した時期をもって、その様相を一変させている。明治29年東京美術学校に西洋画科が置かれ、白馬会が証生し、同40年には第1回文部省美術展覧会(文展)が開催され、文展が美術家を総結集しようとしたことと審査の厳選によって社会的に注目を浴びることになった。「明治40年の秋、初めて文部省美術展覧会が開催された。この催しは意外の人気を得て、絵に趣味の有無を問わず、猫も杓子も争って見物に押し掛けた。酒屋、八百屋の御用聞きの小僧さんから雑巾がけで手に皹をきらす女中まで、文展の噂が出来ないものは、仲間外れとされる程の勢いであった。この文展が始まり、さすがの白馬会も、太平洋画会も、ともに太陽の前のランプの光程の薄暗いものとなってしまった。私どもは生命懸けで作画をして文展に出品をしたものである。その時審査員にあげられた名誉な画家達は、天下を尻眼にかけ、肩で風を切りつつ、あたかも雲上人のごとき得意で上野の山を往来する。」(三宅克己『思ひ出づるまま』光大社、昭和13年)から当時の様子を窺うことができる。第1回文展では4万人台であった入場者数も、大正元年(1912)の第6回文展では16万人を越える勢いがあった。このような状況を背景に、受賞あるいは入落が画家にとって重大問題となったが、文展は権威主義に陥り、マンネリズムを引き起こし、文展アカデミズムを形成する結果を生じた。

 一方では、明治41年(1908)に斎藤与里、同42年高村光太郎、津田青楓、同43年には藤島武二、有島生馬らが帰国しているが、外光を巧みに表現する作風が主流を形成していた当時の文展では、斎藤与里、有島生馬らの新帰朝者たちは冷遇される結果を招き、ヨーロッパの新しく起こった芸術運動を肌で感じとって帰国した作家を中心に、個性的で主観的な表現を目指す若い作家たちの間には、次第に文展に対する不満が大きくなっていった。

 斎藤与里は鹿子木孟郎に師事し、パリではアカデミー・ジュリアンのローランスに就いたが、後期印象派のゴッホ、ゴーギャン、そしてその後のフォーヴィズムの感化を強く受け、24歳のとき帰国、明治42年の第7回太平洋面会展に太い筆致と大胞な色彩の滞欧作が陳列され、日本にフォーヴィズムをもたらした作家といわれて注目された。しかし、日本において余りにも異色であったことがおそらく理由となって同年の第3回文展に出品した「牧童」は落選の憂き目をみている。翌年、第1回白樺主催の美術展として有島生馬・南薫造滞欧記念展が開催され、有島は印象派の画風をこなした滞欧作を発表している。明治44年(1911)には文展の落選展と称した白樺主催の第2回洋画展が開かれ、斎藤与里、藤島武二、山下新太郎、津田青楓らの新帰朝者の作品を含む21作家の作品119点が展示された。有島生馬は第5回文展に「宿屋の裏庭」を出品して2等賞を受けるなど、文展にも新帰朝者の作品が入ってはいたものの、彼ら全体をみた場合には冷遇という状態が存在していた。彼らを中心に不満を抱く青年画家は文展の日本画部が二科制をとって審査した例にならい二科制を実施することを提案したが、黒田清輝の「洋画に新旧などはない、全部、新派だ!」といった一蹴に合い、官設展である文展に対抗する二科会が大正3年(1914)に誕生することになった。

 二料会の会則には「本展覧会には何人といえども随時出品する事を得、但し、同時に文部省美術展覧合に出品せんとする者に限り之を拒絶す」と明記され、文展の欠点を無くし、若い作家の新しい作風を示す作品を優遇し、出品点数に制限を設けず、優れた作品はどれだけでも入選させる方針であった。大正期の二料会では関根のほか、有島生馬、梅原良三郎、岸田劉生、正宗得三郎、萬鉄五郎、安井曽太郎、小出檜重、林倭衛、東郷青児、佐藤春夫らが活躍し、文展に不満を持つ若い作家たちがこぞって出品して、自由で清新な空気が溢れていた。

 なお、大正元年とその翌年の2回、強烈な色彩とフォルムが会場に溢れたフュウザン会が開かれていた。大正3年には岡倉天心の遺志を継ぐかたちで日本美術院が再興され、この院展洋画部を舞台に、村山槐多、萬鉄五郎、小出樽重、木村荘八、椿貞雄、岸田劉生らが出品していた。また、岸田劉生が中心となって大正4年に結成された草土社では、木村荘八、清宮彬、椿貞雄、横堀角次郎、そして河野通勢らが、対象の細部にまで神経をゆきとどかせて細密に描写した作品を発表していた。

 様々な論議の渦のなかで、鑑査委員を二科創設運動賛成者で15名を互選したが、東京美術学校出身である大野隆徳らが辞退したため、石井柏亭、津田青楓、梅原良三郎、山下新太郎、小杉未醒、有島生馬、斎藤豊作、坂本繁二郎、湯浅一郎の9名を鑑査委員として二科会は出発した。第1回展では、額に角が生じたような男の上半身に強烈な色彩を配した有島生馬の「鬼」や梅原良三郎「椿」、坂本繁二郎「海岸の牛」等が話題となった。翌年、無銭旅行中の関根正二と会い、関根に素描開眼の機会を提供した河野通勢は、「蛇の家」「裾花川」「村塾の跡」を出品している。この作品は「第3室河野通勢の油絵。色は稍一様の恨みがあるが強い筆の力と自然と精一杯の奮闘の気持ちは何度みても自分は見飽きぬ。」(三宅克己「二科展覧会を観て」読売新開 大正3年10月22日)といった批評がされていた。鑑査委員の作品を除くと、搬入された作品は約430点で、うち入選は107点と狭き門であった。

 河野通勢との出会いが、関根にとって一つの転機となっているが、関根が「死を思う日」を出品して初入選した第2回二科展に特別陳列された安井曽太郎の滞欧作によって深い感銘を受けたことが関根のもう一つの転機となった。「白と黒とで絵が描ける」と豪語していた関根であるが、安井の巧みな色彩と画面構成に感動し、尊敢の意を表明して、たびたび安井に手紙を出したり、また訪ねたりしていた。綿が水を吸い込むように関根は安井の彩色技法を吸収し、安井の様式とは全く異なる主観的で独創的な色彩を獲得し、以後の関根正二の芸術は、個性尊重の大正期を象徴するかのように短命であったが激しく燃えるような作風を示し、異彩を放っていた。安井はアカデミー・ジュリアンに入学してジャン・ポール・ローランスに師事したが、次第にクールベ、シスレー、ピサロ、そしてセザンヌへと興味の中心は変動していった。なお、安井の特別陳列された44点の作品を列記すると、「田舎の寺」(1909年)「林檎」「パンと肉」「藁家の庭」(以上1910年)「垣」「村の道」「曇り日」「春の家」(以上1911年)「果物」「うつぶせる女」「寝たる女」「青き壷」「早春の丘」「ターブルの上」「うすい着物」「籠のいちご」「黄色い甕」「本を読む女」「三色の花」「カーネーション」「裸かの女」「菖蒲らん」「アネモネ」「スペインの踊」「少女」「肖像」「巴里の縁日」(以上1912年)「縫物する若き女」「足洗ふ女」「黒き髪の女」「山間の小さき町」「小高き村」「麓の町」「赤き屋根」「山の見ゆる町」「小屋」「雪」「フリジイヤ」(以上1913年)「町の裏(一)」「町の裏(二)」「孔雀と女」「木の間」「木かげ」「下宿の人々」(以上1914年)であった。

 「信仰の悲しみ」は、「姉弟」「自画像」とともに第5回二科展に出品され、それで関根正二は樗牛貧を受けている。関根がこれらの作品を制作し、二科展に出品した頃、関根が発狂したという噂が流れていた。関根は樗牛貧受賞に際し、「私は先日来極度の神経衰弱になりそれは狂人とまで云はれる様な物でした 併し私はけつして狂人ではないのです 真実色々な暗示又幻影が目前に現れるのです 朝夕孤独の淋さに何物かに祀(まま)る心地になる時あ(あ)した女が三人又五人私の目前に現れるのです、それが今尚ほ自前に現はれるのです あれは未だ完全に表現出来ないのです 身の都合で中ばで中止したのです」(みづゑ)と記載している。

 関根の友であり、関根の恋人を奪った男である東郷青児が第3回二科展に初出品した「パラソルさせる女」でいきなり二科賞を受けた背景には、その前年の大正4年(1915)、日比谷美術館で開いた初めての個展に出した「コントラバスを弾く」が有島生馬の眼に触れ、有島から二科展への出品を勧められてのことであったが、有島生馬は若い作家たちの個性を尊重し、二科展を登龍門として成長することを望み、関根の芸術に対しても深く理解をしていたとかんがえられる。事実関根は大正6年(1917)8月26日の日記に有島宛に端書を出したという記述があり、関根と有島の間は未知の関係ではなかった。関根が同年7月5日の日記に「二科賞を取る。神に警ふ。恵みあらば、二科賞を恵み給へ。努力。努力。力あるだけ描け。心を静めて描け。」と記したのも、おそらく関根を高く評価する有島の姿があったものと想像できる。

 「信仰の悲しみ」について、有島生馬が「関根君には他よりも魂の感じたものを視覚の徳を頼まずに直接日ひ表はしたいと日ふ慾望努力が多かつたことだ。」(みづゑ178 大正8年12月)と書き、「関根君の芸術が一番際立つて他の芸術と異つてゐる点は、その作品が単に視覚上の現象を取り扱つたばかりでなく、内面的な現象を表現した点にあると思ふ。」(前掲書)と記した内容は、最も適切であろう。この作品について、次のような批評が寄せられていた。

 絶望的な宗教の感情と云ふやうな物が、実によく現はれてゐると思ひました。(仲木貞一「注目されたる作品」中央美術4−10 大正7年10月)

 関根正二氏の『信仰の悲しみ』や『姉弟』の絵は、矢張り物を思はさずに措かぬ絵です。そして素人の画の強味と云様な筆も考へられます。(小川千甕「第5回二科展 想ふた儘を」みづゑ164大正7年10月)

 一つ変わつた作品がある。それは関根氏の作で3点とも全く自らの手法で描いてゐる。「信仰の悲しみ」といふのは、氏が病気になつて周囲の人と離れ、孤独の淋しさを染々感じた時、唯一心に手を合せて拝みたいやうな心持になつたすると眼前に此んな幻覚がありありと浮ぶのでそれを画いたのだといふ。そしてそれを描くのに氏は誰にも依頼せずに、多分自身で描けるだけをかいてゐる。然しそれだけ拙い所のあるのは免れないが、其態度は尊いものだと思ふ三点のうち「姉弟」と「信仰の悲しみ」は頭でかいたのだから面白味はあり乍弱味がある。「自画像」が一番しつかりしてゐる。氏の如きは真にこれから自らを築き上げて行く人で、二科会が之に樗牛賓を与へたのは当を得てゐる。(春山武松「第5回二科会評」美術新報2−7 大正7年10月)

 関根君は内面的な幻想に恵まれてゐたばかりでなく、実際画作上に必要なリアリスティックな感覚を有つてゐた。実は、この方が画家としての関根君を価値づけた主な点であると僕は信じている位だ。其朱色に対する特殊な幻覚は、それ自身、その魂の表象になつている。又法隆寺金堂の壁画に見るやうなネットな描線の精確さは、ある厳粛な認識の内容を暗示してゐる。(有島生馬「関根君を惜む」みづゑ178 大正8年12月)

 「信仰の悲しみ」は関根の代表作といわれているが、「三星」「子供」など、この作品以後に制作された作品は、極度の神経衰弱と精神錯乱を示すほど、「内心の要求」を純真にそして謙虚に追求した関根の「魂の表象」であり、永遠の輝きに満ちている。

(三重県立美術館学芸員)

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