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関根正二について

陰里鉄郎

(1)

 中野重治の小説『鑿』のなかにつぎのようなくだりがある。

 人が見ていることは安吉には気にならなかった。彼は関根正二とか村山槐多とかいう人間の画を偶然見て画が描きたくなり、その後一人でそれも時たま描いているだけであり、………

 この小説の主人公片口安吉は、このとき金沢市の郊外の監獄の近くで油絵を描いている。『鑿』は、三つの短篇からなる『歌のわかれ』のなかの第一篇である。窪川鶴次郎の解説(新潮文庫『歌のわかれ』)によると『鑿』は中野の「大正8年から大正13年の5年間の、金沢の高等学校生活の最後の1年の生活から取材されたもの」という。中野自身もいうように、中野の自伝的な作品であり、執筆されたのは昭和14年のはじめころとのことである。『歌のわかれ』は、同時期に書かれた『空想家とシナリオ』とともにプロレタリア芸術運動に従事していた中野が逮捕投獄の刑務所生活から一種の転向をへて、それでもなお戦争とファシズムの嵐のなかで抵抗の炎を燃やしつづけようとした作品と考えられる。昭和14年といえば日本が日中戦争から太平洋戦争へとひた走りに足っていた時期であり、そうした時代状況に追いつめられていた中野が、「自己のそれまでの生の確認、その生を必然的にした自己の青春そのものの確認、現在の自己の出発点となった一時期の、人間としての正しさのあらためての肯定、こうしたものを戦争とファシズムによる青春破壊という時代状況に対置しようとしたもの」(小田切秀雄)であった。『鑿』のなかで主人公片口安吉=中野重治は、関根や村山の絵画そのものに関してはとくになんの感想も語っていない。中野が関根や村山の作品を、いつ、どこで、そしてなにをみたのか、それは判然としないが、この二人の作品が、若き中野に絵画への興味をかきたて、絵筆を持たしめたのであろうことは容易に想像できる。

 中野重治は明治35年(1902)生まれである。中野より1年あとに生まれている草野心平は、村山槐多、関根正二、それに女性の高間筆子を加えてこの3人を「天才芸術のオリオンズ」と呼ぶ(「夭折の天才画家・関根正二と村山槐多展」目録)。草野心平の場合は中国広州の大学生時代の大正末期に一時帰国して詩人としての村山槐多をまず識り、関根の存在を知ったのは友人の土方定一によってであったようだ。その土方定一は草野よりさらに1年あとの生まれであるが、つぎのように書いている。「ぽくの学生時代に、関根正二、村山槐多、高間筆子の3人の夭折した画家は、ぼくたちの内部に深い共感と哀惜のなかに生きていた画家であった」と。

 「大正」という時代について、また関根正二と同時代の画家や文学者については、それぞれに別稿で詳説されるであろうが、大正後半期から昭和初期にかけての時期、一般史的にいえば米騒動から関東大震災をへて世界恐慌にいたる時期に青年期を過した人びとのなかの芸術に探い関心をよせていたものにとって、数年先輩にあたる関根正二とその絵画がどういう存在であったか、そのことをこれら3人の言葉や文章から垣間みることができるようだ。


(2)

 村山槐多は22歳と5ヶ月、高間筆子は21歳と7ヶ月、関根正二にいたっては20歳と2ヶ月といういずれも短い生涯である。私たちはこの若くしての死を「夭折」と呼び、その死を哀惜する。それがとりわけ豊かな才能に恵まれながらも早すぎた死を迎えたとあればなおいっそう哀惜の念をつよくする。しかし、私たちがこれら3人の画家たちにつよい関心をよせるのは、彼らが単に画家としてすぐれた才能をもちながらも早すぎる死を迎えた、夭折したからだけではない。彼らの遺した作品(高間筆子の場合は、残念ながら関東大震災のためにほとんど全作品が焼失、詩画集1冊だけが残された)が注目すべき性格をもっていると考えられるからでもあるのである。この3人に共通しているのは、3人ともほとんど正規の官学派的美術教育と無縁であったことである。もちろん彼らとて同時代の彼らの周辺とまったく無関係であった訳ではないが、当時の、というのは明治後半期以降の日本洋画の主流ともなっていた外光派、文展を中心とする官学派とは無縁であったし、在野といわれる二科会や日本美術院洋画部のなかにあってもきわだって特異であった。それゆえに後年、「異色の画家」となかば異端あつかいをうけることになるが、はたしてそうなのであろうか。官学派にしても在野にしても日本の洋画は、西欧からの移植絵画としての性格とその反映の歴史を織りなしているにすぎないとすれば、ただ率直に正直に自己形成期の自己を、自己の才能のままに表出し表現しただけであった関根らの絵画は、多数のなかで特異ではあっても異色ではあっても、異端でなく、むしろ絵画として正当ではないか。関根の作品のまえにたつとき、技術の巧拙などを超えて私たちに訴えてくる戦慄のようなものはなになのか。関根正二とは、いったいどういう画家だったのか。本展の主題のひとつはその点にあるといえよう。


(3)

 自画像を別にして、生前の関根正二の風貌をよくつたえてくれる肖像写真が一葉だけある。この写真の発見者である、というより関根正二の再評価に執拗に取組み追跡調査して、関根の芸術をさきに述べた異色とか異端といった俗流の視点から解放してまっとうな位置におきかえられた土方定一氏は、この写真を最初にみたときのことを、「パレットを持つ若き関根正二の写真があった。ところどころ虫喰いがあるが、パレットを左手に持ち、紺がすりの着物に袴をつけ、面長な顔は汚れを知らぬ、のびやかさをもって強く正面を凝視している。」と書き、つづいて有島生馬の関根についての回想の一部を引用している。有島生馬によれば、閑根は「色の浅黒い、引き締った面長な武士のような長身の美青年だった。口数少く沈鬱で吾々に対してははにかみ屋だったが、一見、精神的な・[い瞑想にひたっている種類の人たることが感じられた。」という。有島の回想は後年のもの(昭和28年)であるが、その記憶はきわめて正確であったと思われる。というのは、関根の存命のころにその風貌を印象のままに記したものとして素木しづの小説『転機』の冒頭の部分につぎのように述べらているからである。素木とその小説『転機』についてはあとで触れねばならないが、この小説が、関根の無銭旅行の体験談が素材であったことはよく知られている。『転機』が発表されたのは大正6年9月、雑誌「黒潮」においてであった。旅行談を語りはじめた彼が、関根である。

 彼は、そのなかで一番豊かな風貌をそなえてゐた。そして如何にも健康さうな浅黒い顔の色に、高い肉附のいゝ大きな鼻と、柔和な瞳、濃いおだやかな眉毛、子供のやうな口元を持つた、まだ若い人好きのいゝ男であつた。彼は身丈が五尺入寸五分もあるといふ大きな男で、如何にも少年の日の驚異な、恐るべき旅の追憶に堪えないもののやうに語り出した。

 このとき関根は18歳である。あえて関根の風貌の紹介にこだわってきたのは、肖像写真や引用した文章にみられるように、彼が早やばやと病歿するとはとても考えられないほど健康で頑強な肉体をもった男であったと思われるからである。そしてその頑健な肉体をもちながら、関根はその外見からは想像できない内面の持ち主であったと思われるからである。関根が初めて二科会展に出品して入選した作品は《死を思う日》(本展カタログNo.1−2)という題名であった。大正4年(1915)の第2回二料金展、関根16歳のときである。

 一面に羊歯のおいしげる土手のうえに立ち並ぶ樹、羊歯も樹葉も強風にざわめいているなかを、ひとりの男が上衣の裾をひるがえしながら風に向って歩いている。うつむいて歩く男は関根自身であろうか。16歳の少年の頭に、いったいどんな「死」がえがかれていたのであろうか。羊歯や樹葉の戦慄のざわめき、行くてにさからう強風のうなりが少年に「死」を囁くのであろうか。

 この4年後には死をむかえたこの画家のことを知っているわれわれにとって、この《死を思う日》はこの画家の出発を飾るにふさわしかった、と思われてくる。関根は出発の当初から自己の悲劇的な運命を予感していたのだとも思われてくる。


(4)

 関根正二は、明治32年(1899)4月、福島県西白河郡大沼村大字(おおあざ)大字搦目(だいあざからめ)(現在、白河市)に生まれた。搦目は、白河市街の北辺をめぐっている阿武隈川が、白河市の中心から田島をへて磐城石川へ出る街道ともっとも接近している附近にある集落で、市の中心街から約3キロの地点にある。街道に沿って丘陵がつづき、集落より市街寄りに古い白河城址があり、そこは南北朝時代に結城一族の根拠地となったところである。

 関根正二の祖父にあたる利右衛門は幕末期に阿部豊後守正外につかえた下級武士であったと伝えられているが戊辰戦争で戦死したという。正二の父政吉は杉の木をけずって屋根を葺くコバ職人であった。正二は9人兄弟姉妹の第四子、二男であった。関根の一家は明治40年、正二のみを残して上京、正二も翌年上京して深川区東町46番地、現在の江東区住吉で家族と一緒になり、そこから深川東川小学校へ通い、その後も死去するまでそこで過すことになった。

 関根の少年時代をつたえる唯一の証言は、同じように深川の猿江界隈で幼少年時代を過した、のちの日本画家伊東深水(本名、一)の回想である。小学校こそ違っていたが年齢は一つ違いで住んでいた町は隣接していて、近くの大横川、小名木川は子供たちの格好の遊び場であり、関根と深水はそれぞれ一方の餓鬼大将という遊び友達であったという。画家の作品のなかには、画家自身が意識しないままにその画家の幼時期の体験がひそかに顔をのぞかせていると指摘されることも多いが、関根にとっても、幼年期を過した東北白河の阿武隈川附近の風土と、大都会の下町のなかの貧しい人びとの生活とは、愛欲や宗教的な感情の表出といった振幅のあるさまぎまな形をとってあらわれながらも、関根の意識のふかい奥底に沈澱していたようである。

 関根が小学校をおえたとき、明治は大正にかわった。関根が絵画への道を歩きはじめるにあたっては、伊東深水がその契機を提供したことは間違いないようである。深水は小学生のころから東京印刷株式会社に職工としてはたらき、ついで図案部へ移っていたころで、一方で鏑木清方に師事していた。関根は深水を訪ねて家庭の事情、画家志望を語り相談し、深水の斡旋で東京印刷株式会社図案部へつとめることになったのである。深水は明治45年の巽画会(第12回展)に初入選している。関根は深水のすすめで日本画を描きはじめたようで、大正2年、日本画《女の児》が巽画会展に入選したともいわれているが分明ではない。この当時の関根の日本画がどのようなものであったかは皆目わかっていない。ただ、このころ関根は自己発見の契機を見出し、日本画と訣別して洋画への道を歩きはじめることになる。

 伊東深水が関根についての回想のなかで幾度も述べていることであるが、東京印刷株式会社図案部は、当時、日本画家の結城素明を顧問として蔵前工専や東京美術学校卒業若い画家、図案家がたむろしていた比較的自由な雰囲気の職場であったという。そこに小林専という洋画家が入社してきて、関根はこの画家に大きな影響をうけた、ということである。小林専なる画家については現在でもまったくわかっていないが、深水によれば「この人は大変なロマンチストで、絵を描くより感想を書いたり、議論したり、どっちかというと詩人というタイプ」、「天才肌の洋画家で――それは非常な読書家で論客で、ニイチェやオスカー・ワイルドの信者であった」という。関根は毎晩のように小林宅を訪れてはその言説を聞き、興奮のうちに過したようで、小林の語りつづけたニーチェやオスカー・ワイルド、そしてグスタフ・クリムトなど、世紀末の思想家や画家についての断片的な挿話や思想の片鱗が、まっさらの白紙のような関根の魂のなかにしみこむように吸収されていったようである。


(5)

 さきに触れた素木しづの小説に書かれた関根の無銭旅行は、いつのことであったのか。そしてどこをどのようにめぐったのか。関根の死去以来その時期は大正2年(1913)とされてきたが、最近の調査では大正4年説が有力となっている(酒井忠康編『関根正二遺稿・追想』所載年譜。中央公論美術出版・昭和60年刊)。この旅行は、関根の自己形成と絵画の展開に決定的な影響力をおよぼしているだけにその時期がいつであるかは重要なことであるが、確定にはなお調査が進められねばならないであろう。それにしても関根は突然に勤務していた東京印刷株式会社をやめて無銭旅行の途についた。それも小林専の友人の日本画家野村某に誘われてのことであったという。歩いたコースは、小説『転機』によれば、小田原から御殿場、静岡へでてそれから北上し、甲府へ、甲府から松本を通って野麦峠をこえ高山にいたり、ついで高山から越後長岡、長岡から再び信州へはいり長野に滞在して帰京したことになっている。さらに長岡から二科会に作品を送り、長野で越年したことになっている。『転機』の内容をそのまま信ずるわけにはいかないとしてもコースそのものはほぼこのようなものであったのではないかと思われる。旅行の途中で野村某と別れての流浪、遍歴であった。まがりなりにも小林専を通して近代的な思想の洗礼をうけていた関根にとって、この旅行はあてもない彷徨ではあったが充分に自己鍛錬の機会ともなった。帰京したとき、友人たちは一様に関根の変貌に驚いている。吉川晴帆(東京印刷での同僚)はつぎのように書いている。

 そして其時長野で見たといふ河野氏の絵に対する態度を敬虔の態度で大に貧めたものでした。其河野氏のペン画は余程同君(註・関根のこと〉の描くペン画の上に大に参考になつたものと見えて其後の同君のペン画がカナリ違て来た様に噂したものでした。兎に角此旅行が見もしらぬ他郷で同君を困惑と窮乏のドン底に押しやつたことも時々ある棟でしたから、旁ら精神修養の上に多大な益をなしたものと見えて、同君が大に得る所がありましたとキツパリ話し得た程に、其後の同君は内面的に強くなつて来ました。

 ここで「河野君」とあるのは、のちに岸田劉生の草土社に参加して活躍した河野通勢のことで、当時河野はまだ郷里の長野にいて、彷徨していた関根と出会ったのである。関根に長ずること4年、20歳の青年であった。深水の伝えるところでは、このとき関根は、河野からデューラーや、ミケランジェロの画集を見せられてルネッサンス期の芸術に啓発されたということである。その画集は、今日から見ればおそらく貧弱なものであったに相違ないが、それでも「無銭旅行の彷徨のなかで肉体的にも精神的にも飢餓状態にあった関根の飢えた魂は、これまで知っていた線描とは全く異質な、硬質で刻み込むような線描と、そのきびしい現実把握のモラルの精神的な力にはげしい衝撃を受けている」(土方定一)と言えるものであったに違いない。これは、間違いなく関根における人間と素描についての開眼、と呼んでもよいであろう。それから以後の関根の素描は、刃物で鋭く刻みこんだかのようなきびしい線条によって描かれたものが多く、それは単に対象や眼前の現実の再現にとどまらず、関根の内的な現実の告白となっている。関根は一時期、太平洋画全研究所へ通っていたことがあるが、そのとき中村不折が関根の着衣人物の素描を「棒杭に衣を着せたようだ」と評したという。関根はこれに激怒したといわれているが、この不析の侮蔑的な批評は、逆に関根にみられる本質把握の鋭利さと強靭さを言いあてていたともいえよう。

 経済的な原因もあったが、関根は素描を多く描いた。それらの多数は、死の少し前に死を予感した関根自身によって焼却されてしまい、現存するものはごく少数でしかない。その残されたわずかの関根の素描をたどるとき、その鋭利な線描のなかに若い関根の孤独な魂のかすかな叫びを聞く思いがする。


(6)

 無銭旅行以後の関根は、「白と黒とで絵は描ける」と豪語していた。二科展に初入選した《死を思う日》はその時期に描かれているが、河野通勢からのルネッサンス期絵画の呈示によっての素描開眼を第一の転機とすれば、《死を思う日》が出陳された第2回二科展会場で関根は、第二の転機に遭遇する。その会場にヨーロッパから帰国したばかりの安井曽太郎の滞欧作品が特別陳列されていて、関根は「色彩の価値をしみじみ感じたのもこの安井の仕事に因るもの」(伊東深水)となったのである。たしかに《死を思う日》の画面には色彩らしい色彩はない。しかし、関根は色彩を否定していたのではなかった。色彩の価値についての体験がなかったに過ぎないのであろう。安井の滞欧作の出品は、《田舎の寺》から《赤き屋根》《山間の小さき町》など44点であったが、ミレー、ピサロ、セザンヌなどの影響を示すそれらの作品から関根は、「色があるんだ――」ということを知らされたのであった。この言葉を関根は呪文のようにつぶやきながら徐々に変化していったのであろう。友人たちはこの時期にセザンヌ風の作品が多く描かれたとつたえているが現存するものは皆無に近い。

 こうして関根は、線描家、素描家としては、河野通勢をとおしてルネッサンス期の巨匠たちに開眼され、色彩家としては、本来素描家であった安井曽太郎をとおして印象派的色彩を知ることになった。しかし、色彩においてはほとんど無意識裡に印象派的色彩を拒否していたようであるし、素描においても、岸田劉生の草土社風と共通しながらも、どこかでこれを絶っているように思われる。いずれにしても関根は孤絶した道を歩いていくことになった。

 《死を思う日》の前後、どういう経緯があったのかは不明だが、関根は、前田夕暮の門下生たちだけの雑誌『炎』の発行(大正4年7月)に参加している。現在まで『灸』は一冊も発見されていないし、関根の詩もまた全くわかっていないが、詩らしき文句の端々はデッサンのなかに散見される。

日は暮れ 人は皆な
手を休める時は釆た 俺は
合掌して天なる神に
祀(まま)りを奉(まま)げる 木は静か
総て夕の気に包まる 九月十三日
  (デッサン≪タベ≫より〉

 これらの詩句には、どこか内面に沈潜した神秘なものに対する怖れ、といったような宗教的な感情がうかがわれる。詩句が書きこまれているデッサンはほとんど大正4〜6年のものであるが、関根の内面の奥底にうごめいていた心情の吐露であろう。それは画面では、画面上方の壁龕風のアーチと照応しているようである。こうした関根の弘独な魂の神秘的な旋律は、失恋や愛欲の烈しい悩み、また病気による神経の摩滅によって、やがて一挙に狂的な、幻視的な映像となって関根の前に顕在化してくることになった。
 関根の魂が孤独であればあるほど、関根は人なつっこく、多くの友人に愛されたようである。大正4年以来の『炎』の同人から、竹馬の友伊東深水の転居先であった渋谷伊達邸跡周辺にいた上野山清貢、素木しづ夫妻、ついで上野山の本郷への転居から久米正雄、佐藤春夫、さらには本郷界隈に屯していた東郷青児、今東光らへと交友関係は広がっている。こうした若い無頼の芸術家仲間と交遊するなかで関根は失恋をくりかえし、大正6年の暮、悄然として東北山形へ友人村岡黒影をたずねて旅へ出た。村岡家に藩在中に《村岡みんの肖像》(本展カタログNo.1−8)、屏風《天平美人≫(本展カタログNo.1−26)を描いている。その帰途、郷里の白河に立ち寄り《真田吉之助夫妻像》(本展カタログNo.1−9)をも制作している。関根は、「山の色も暖かく日没の色調は異国の夕ベのやうです。恁うした自然の相異を静かに考へて驚かざるを得ないのです。真に自由な天地に足を入れたやうです」と白河から山形の村岡へ書き送っているが、この東北の雪国への旅行につづく郷里滞在は、関根にとって一種の解放と沈潜して思考する横合でもあったようである。

 大正7年(1918)秋、第5回二科展に関根は《信仰の悲しみ》(本展カタログNo.1−10)、《姉弟》(本展カタログNo.1−11)、《自画像》の3点を出品した。当時の批評につぎのようなものがある。

 関根正二君の画は珍しいものですね。――白昼鬼気に触れる気がします。伝承の画術に拠らない、自由で生な技工といふものはまつたく強い力を有つて居ますよ。(山本鼎) 関根正二君の画には、凄味がある。魔気を有つてゐる。――それに何物にも拘束されないやうなテクニックだ。(石井柏亭)この少し前の5月、関根は友人に、「僕も変つた。――何うしても描かなければゐられない。頭も実に良い。」と書き送っているが、このときには有楽座で上演された久米正雄の劇『地蔵教由来』の舞台に出演し、その前に久米の世話で東大病院で蓄膿症の手術を受けたのであった。久米はこのときのことを「鼻を切ったS君」と題した小説に描いている。その内容は、今東光の回想とは若干ことなるが、手術後経過が思わしくなく、また新しい失恋の傷手もあって「関根発狂せり」との噂が友人の間に流れたという。しかし、関根は《信仰の悲しみ》に対するアンケートでつぎのように答えている。

 私は先日来極度の神経衰弱になりそれは狂人とまで云はれる様な物でした。併し私はけつして狂人ではないのです。真実色々な暗示又幻影が目前に現れるのです。朝夕孤独の淋さに何物かに祀(まま)る心地になる時あした女が三人又五人私の目の前に現れるのです。それが今尚ほ目前に現れるのです。あれは未だ完全に表現出来ないのです。身の都合で中ばで中止したのです。(『みづゑ』164号)

 果実を両手で大事そうに持って草花の咲く野原を列をなして歩く女たち、この女たちは関根自身が語っているように彼の幻影のなかの女たちである。その幻影は、「突如、共同便所の中から、様々な光に燦爛として現れ出た行列の幻影の一部」(三瀦末松)であったのか、療養中の銚子で山中を彷徨中に見た幻影なのか。ともかく関根の眼前に現れては消えた幻影であった。深水によれば、関根はこの作品に初め「楽しい国土」と題を附していたという。さきに触れたように、関根の生来の神秘的な、あるいは宗教的な感情、度重なる失恋による精神的な苦悩、それでいて女性への限りない鑽仰、抑えがたい若き愛欲、宿痾と狂的な状態からさらに深まっていった孤独と絶望、そして今東光のつたえるところに与ればこの時期にロシアで進行していた社会主義的革命に対して関根は共感をいだいていたというが、こうしたさまざまの思いと情念が、関根の内側には堆積し、錯綜していたと想像される。それゆえに、女性の行列、この幻視の光景は、関根にとってはまさしく「楽しい国土」、楽園の映像であったのかもしれない。しかし同時に、関根の潔癖な倫理的宗教的心情をもってすれば、それは容易に信仰の次元へ転化されうるものであった。この幻視の映像は、関根の深い絶望の彼方にあらわれた楽園の光景であろうか。


(7)

 それにしても「閑根発狂せり」は真実だったのだろうか。現代の精神医学はこのことに鋭いメスを加えている。神経科医の加藤稔氏によれば、大正7年5月から9月の関根は「明らかに精神病となった」と診断している(「関根正二と幻視」、『精神医学』第17巻第7号、昭和50年7月)。同年6月から9月が亢奮期にあった、とされている。肥厚性鼻炎の手術のあと、《信仰の悲しみ》の制作期である。日比谷公園での奇行(年譜参照)の時期である。そこにみられる知覚の錯覚的変容と宗教的恍惚などは鼻炎手術からきたものではなく、また精神分裂症でも、躁病でも夢幻様精神病でもなく、「結局、心身にわたる種々の負荷が重なり、それがひきがねとなって発症に至った内因性精神病と考えられる」とされている。

 とにかく関根は、あまりに多くのものを負っていたのであろう。若い関根は、それを上手に、知的に整理するすべを持ちあわせてはいなかったのである。

 のちに、寺田寅彦はこの《信仰の悲しみ》に触れて、「すべて宗教には陰惨なエロチシズムの要素をもっている、ということをこの絵が暗示しているように思われる」(昭和8年)と書いている。妊婦のような女性、重苦しい空、郷里阿武隈川畔の風景ともかさなる花咲く野原、《信仰の悲しみ》の地は関根にとっては同時に「楽しい国土」であった。

 女性鑽仰と郷里への果てしない思慕といえば、姉の背に負われている幼児のつぶらな瞳が、観る人をやさしく見かえしている《姉弟》の画面も忘れ難い。そして《三星》〈本展カタログNo.1−20)では中央が関根自身とすれば、両側に立つ二人の女性が関根の思慕の対象となった女性であったとしてもさして誤りではないであろう。

 関根は、物質的にも肉体的にも、そして精神的にも、終始、飢えていた。しかし、精神的には、村山槐多と同様に貧してはいなかった。著さとは、一面では飢餓そのものであろうが、関根は無垢のままに飢え、それゆえにこそ関根は、生におびえ、死に憧れ、そしてその逆でもあったようだ。その魂の叫びが、関根の画面の鋭い線描であり、底の方から輝いてくる青と朱の色彩である。その絵画的魅力と魂の叫びが、世代差を超えて私たちを魅了してやまない。この孤独な魂と幻視の持ち主であった若者の死の床の枕辺には、《慰められつゝ悩む》が立てかけられていたという。関根は母親に助けられながらその画面に署名しようとしたが果たせず、その生涯を終えている。


(三重県立美術館長)

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