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第2部 その時代の画家たち出品目録

作品解説:中谷伸生

伊東深水

3 乳しぼる家
1916(大正5)年
絹本著色 125.5×130.7cm
左下に 深水
展覧会:1916年第3回院展

 伊豆諸島最大の島、大島の風俗に取材した作品であり、手前の井戸とおばしきものを、抜きだして描いた「島の黎明」が、やはりこの年に制作されている。大島は乳牛の飼育で知られるところであって、それが明治以降、観光の対象ともなった。深水は同時期に「牛」(カタログNo.2−2)を描いていて、この時期には、〈牛〉のモティーフに何らかの強い関心をもっていたように思われる。またこれら深水の作品は、関根の大正5年作の「農夫」(カタログNo.1−25)と共通する雰囲気を漂わせているが、両者の間には、少なからず影響関係があったと考えるべきであろう。関根や上野山らの友人たちは、好んで牛のモティーフを扱っており、かれらの作品は、同様の雰囲気の中で制作された節がある。深水は「乳しぽる家」を発表して間もなく、竹久夢二が住んでいた渋谷の伊達邸跡に引越したが、近所には上野山清貢、素木しづ夫妻、それに渋谷まで頻繁に訪問を続けた関根正二らがいて、この作品が描かれた頃は、彼らの交友が一層活発になった時期である。


河野通勢

7 長野風景
1915(大正4)年
油彩、キャンパス 112.0×194.5cm
長野県信濃美術館蔵

 彼方に信州の連山が見え、前景には大きな樹木が配置された雄大な風景画である。中景の川岸では、水浴して遊ぶ男たちが描かれているが、こうしたモティーフの扱いは、あたかもフランドル絵画を連想させるかも知れない。とりわけ印象深いのは、手前の大木の描写であるが、大正中期の通勢は〈樹木〉という対象にことのほか興味を抱いていたとみえて、油彩、素描を問わず、数多くの樹木をテーマにした作品を制作している。中でも彼がしばしば写生をおこなったのは、長野市の西側を流れる裾花川の川岸にあった三本の大きな河柳であったという。子息の河野通明氏の語るところによれば、その河柳を描くときには、常に木に向かって一礼をしたということである。また、その場所を〈ニンフの森〉と呼んで、深い愛着をもっていたという(河野通明「父通勢の悲しみ」、不忍画廊『青春 河野通勢』展目録、1982年10月)。おそらく通勢はこれらの樹木に一種の宗教的な感情を移入していたに違いない。本展にも「裾花の河柳スケッチ」が3点出品されており、その中の1点〈カタログNo.2−12〉は1914年(大正3)の二科展初出品作「裾花川」の構想を示すスケッチである。これらの素描は、大正4年頃に長野へ旅行して、河野家を訪問した関根正二に決定的な影響を与えたように思われる。この時期を境にして、関根の絵画は大きく変貌を遂げることになった。

17 授乳の聖母習作
1919(大正8)年ころ
コンテ、紙 34.8×29.3cm
裏面に 「妻の像」(コンテ)

 コンテによって練習用に描かれた素描習作であるが、通勢の西欧美術に対する研究を示す重要な作例である。鋭く巧みな描線は、ルネサンス期の画家デューラーあるいはレオナルドを彷彿とさせる。
 主題は聖母マリアが胸をはだけて幼児キリストにお乳を飲ませている場面である。聖母が幼児キリストを抱き上げるというモティーフ、すなわち「聖母子像」は、西洋中世の伝統的な図像であり、ゴシック及びルネサンス時代にはもっとも好まれたモティーフとして、その例は教会堂外壁に立ち並ぶ彫刻からフレスコ、テンペラ、油彩画にいたるまで、枚挙にいとまがない。しかしこの「授乳の聖母」という、一面においてマリアの官能美を示す図像は、西洋中世美術史上、比較的新しく、13世紀のゴシック美術において現れたものである、と推測できるかも知れない。非常に古い作例としては、フランスにあるシャルトル大聖堂の南周歩廊上部の円形窓にはめられた、13世紀前半のステンド・グラスを挙げることができる。
 通勢は、おそらくこの図像をデューラーから借用したと思われる。デューラーの「授乳の聖母」の作例としては、1519年作の銅版画があるが、デューラーの場合には、聖母の乳房と幼児キリストの向きが、左右逆になっている。しかし、マリアの手や、その上に重ねられたキリストの手の形態モティーフなど、両作品には酷似する点が多い。だが、デューラーのこの銅版画は、それほど有名なものではないので、通勢がそれを美術図版でみたと簡単に結論づけるわけにはゆかない。
 また、この画面には横向きの、多くは女性と思われる複数の頭部デッサンが、聖母の右肩の上に重なるように描かれている。これらのプロフィールが、何を意味するものか不明であるが、聖母子との関連、あるいはその特徴ある群像表現からいって、幼児キリストを礼拝にやって来た東方の三博士の周囲を取り囲む、群衆の表現であるかも知れない。とすれば、これはレオナルドの未完成作といわれる有名な「東方三博士の礼拝」から借用した人物描写といえるかも知れない。形態モティーフとしては、非常に酷似するものといってよい。関根正二が長野の通勢の家を訪れた時期、通勢がレオナルドの画集を持っていたことが、明らかになっていることから、レオナルドの影響ということは、十分に推測することができるに違いない。
 キリスト教に題材を採った通勢の作品は、「キリスト礼拝図」、「テベリア湖上の耶蘇」、「スザンナと長老」、「ピエタ」など、大正後期に集中しており、この「授乳の聖母習作」が描かれた時期には、デューラー、レオナルド、レンブラント、ルーベンスに対する通勢の研究は、極めて内容の深いものであったと思われる。しかも、このことは、北欧ルネサンス絵画の表現から制作の源泉を汲み取ろうとした、岸田劉生をはじめとする草土社の多くの画家たちと共通するものであるとはいえ、通勢の場合には、ギリシア正教を信仰する父親の次郎の影響が決定的であったため、これらの作品には、他の大正期の画家とは異なる、より一層深い精神的内容が籠められていたはずである。
 なお、この「授乳の聖母習作」は、ルーベンス風の描写を見せる「妻の像」(カタログNo.2−18)とほとんど同様の表現法を用いた〈妻の像〉の裏面に描かれたものである。


上野山清貢

20 牛屋M・Aさんの肖像
1925(大正14)年
油彩、キャンバス 72.5×60.4cm
左下に Portrait of Mr.M.A.Kobe December
1925 K.Uenoyama

展覧会:1926年第3回槐樹社展

 1925年(大正14)に制作され、翌1926年(大正15)の第3回槐樹社展に出品された作品である。「和製ゴーギャン」の異名をもつ上野山は、1924年(大正13)の第5回帝展に初入選して、頭角を現しつつあった。この作品は、第3回槐樹社展において、同じく槐樹社賞を受けた上野山の代表作である。南洋諸島のサイパンへの旅行後の作品であって、野生的な、あるいは幻想的な動物を画面に配する彼の独創的な作品「サイパンにて」(大正14)や「ある夜」(昭和3)、また「人魚」(昭和3)などと共通する力強い絵画といえる。上野山の幻想に関しては、ゴーギャンやルドンの影響が指摘されているが、この幻想には、関根正二の「信仰の悲しみ」などの幻想と通じるものがあるのではなかろうか。ただ、この画面では、他の作品のような荒々しい画面構成は見られず、人と牛のモティーフが画面一杯に端正な構図によって纏められており、上野山の作品中でも、ひときわ品格の高い一点であるといえよう。牛のモティーフについては、彼は以前から関心を抱いていたようで、大正6年の関根正二『日記』中にも、「上野山牛の絵を描いて屠る。あまり感心せず」という記述が見られる。また、男の表情には、何か思索するような重々しさがあり、この絵が単なる構図や色彩だけで勝負する作品ではなく、人間の内面を微妙に表現している作品であることが一瞥で分かるであろう。画面上部には祭壇画を思わせる角型の装飾的枠取りが見られるが、鈴木正實氏の指摘するところによれば、この形態モティーフは、岸田劉生の作品に描かれた壁龕型装飾に想を得たものということである(上野山貢三郎編『上野山清貢画集』、北海道新聞社発行、1982年)。当時の展覧会評によれば、「上野山清頁氏の『牛屋のM・Aさんの肖像』の表現派とも見られる痛快さ、『Beautiful Provibench』(ママ)の力強い表現何れも真剣な努力を認められる」(『美之国』第2巻3号、行楽社、1926年)とある。また、同展を見ての友人、松本弘二による展覧会月評には、「上野山清貢君は旧友であります。同君がこの頃画作に一生懸命なのは嬉しい気がします。気に入るまで、腑に落ちるまで描くといふ熱心な態度は学ぶに値ひします。南洋風景にしろ、肖像にしろ、とことんまで描いてあります。併し、私が同君の希望は、あれまでの努力が聊か的ちがひぢやないかと思はれるのと、色彩とに就いてであります。その結果、ややともすればグロテスクな感じを受け勝です。」(『アトリエ』第3巻第3号、アトリエ社、1926年)と批評されているのが興味を惹く。

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