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彫刻と塑像の関係

 一般に彫刻と呼ばれる作品は、その技法から「塑造」と「彫刻」に大別できる。「塑造」とは粘土など柔らかく可塑性のある素材をこねて形をつくり出すものをいい、「彫刻」とは石や木など硬質の素材を鑿などで彫り刻んで形を表すものをいう。

 粘土を加えながら形をつくる塑造と、すでに存在する立体の塊から形を彫り出す彫刻とは技法的には対極にあり、作り手の意識や作品の特質も異なるといわれる。実際、塑造は粘土を加えたり取り去ったりして、いわば推敲を重ねることが可能なのに対し、彫刻は彫りすぎた場合に後戻りすることは原則的に不可能であり、両者の相違は大きい.

 また、その作り手についても、今日では塑造を手がける作家と石や木の彫刻を手がける作家は分化している傾向が強く、塑造と彫刻双方で本格的な活動を行う作家は少数である。

 近代になってこの間題にはじめて検討を加えて発表した人に、大村西崖がいる.大村は東洋美術史家としても知られ知られるが、東京美術学校彫刻科の卒業生で、卒業後は京都市立美術学校(現・京都市立芸術大学)で彫刻科の新設に従事していた。その間の1894(明治27)年に、「彫塑論」と思した論文を発表し、塑造(西洋彫刻)の優秀性を主張した。

 大村は、彫刻と塑造とを比較して、何度でも改変を加えることが可能で、素材の制約が少ない塑造が優れていることを主張した。しかし、彫刻と塑造の関係は、実際にはそう単純に割り切ることができないだろう。

 歴史的にも、奈良時代後半から平安時代初期にかけてつくられた木心乾漆像のように、彫刻と塑造双方の技法を用いた作品が存在するなど、両者はどこかで関わりをもっている。

 明治時代以降も、現実には塑造と彫刻とは互いに関係を保ちながら行われてきたといえる。こうした塑造と彫刻との相互関係を端的に示すのは、その両者を手がけた作家たちの存在である。高村光太郎はもっともよく知られた例だろう。

 明治から昭和にかけて活動した日本美術院彫刻部には、佐藤朝山、石井鶴三、新海竹蔵らのように彫・塑双方に作品を残した作家が少なくない。彼らの作品には、塑造が木彫制作の準備段階の役割を果たしていた例もある。さらに、策二次大戦後になると、塑造だけではなく、石彫に独自の世界を築いた舟越保武の名を忘れることはできないだろう。

 興味深いのは、山崎朝雲、米原雲海、平櫛田中らの木彫家が、最初に塑造で作った作品を転写用の星取り機によって忠実に木彫に移して発表していた例である。さらに彼らは、そうした木彫を原型としてブロンズで鋳造することも行っていた。

 このように、東洋と西洋双方の技法による制作が行われるようになったことも、日本彫刻の近代を象徴する事柄である。

(毛利伊知郎)

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