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彫刻家父子 光雲と光太郎

毛利伊知郎

 近代彫刻の歴史をたどると、父子ともに彫刻家であった例が多い。思いつくだけでも、高村光雲と光太郎、吉田芳明と芳夫、北村正信と四海、保田龍門と春彦、建畠大夢と覚造など数組の父子彫刻家を挙げることができる。


 同じ仕事に父と子がつく場合、両者が常に良好な関係を保つことができるかどうかは微妙である。同業であるがゆえに父の期待と子の希望とが相容れず、何らかの摩擦を生じることもあるだろうし、日常生活では仲がよくても、こと仕事になると互いに火花を散らすことがあるかもしれない。彫刻家という職業の場合、父と子の間に生じるさまざまな軋轢や問題が、彫刻の本質と関係することも少なくないだろう。


 上に挙げた親子のなかで、特に興味深いのは高村光雲と光太郎である。なぜならば、近代木彫の祖、あるいは近世から近代への橋渡しをした作家ともいわれる高村光雲は、前近代的な部分を多分にもっていた。−方の光太郎は、明治後半期から大正期にかけて、ロダンの彫刻思想、あるいは芸術家の絶対的自由を尊重するフランス近代の芸術思想をわが国に紹介するなど、当時の最先端に位置していた。彫刻に関して両者が相容れないのは、当然といえば当然のことであった。


 光太郎は父光雲について記した著述を数多く残している。随筆「父との関係」(1954年)、「回想録」(1945年)、「父・光雲作の仏像」(1936年)、さらに随筆「出さずにしまった手紙の一束」(1910年)、詩「父の顔」(1911年)もある。


 子供の頃から木彫の修練を続けていた光太郎にとって、父と同じ道に進むことは当然の定めであった。両親の支援で渡米した光太郎は、ニューヨークで両親を懐かしんで涙したこともあった。しかし、さまざまな体験を積んだパリ滞在を経ての帰国後は、「親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない」と記すまでに自己の世界を確立していたのである。


 日常生活ではふたりは友好的であったし、光太郎は父が請け負った肖像制作の仕事を厭わずに手伝った。しかし、彫刻家としての父光雲は、「彫刻家」高村光太郎の理想からはほど遠いものであった。光太郎が見るところ、「結局父光雲は−個の、徳川末期明治初期にかけての典型的な職人であった。いはゆる〈木彫師〉であった。もつと狭くいへば〈仏師屋〉であった」(「父との関係」)。また、光太郎は「父の作品には大したものはなかつた。すべて職人的、仏師屋的で、又江戸的であつた」と述べ、父を芸術家として認めようとしなかった。


 しかし、光太郎が残した愛すべき木彫作品は、光雲という存在抜きに誕生することはなかった。光太郎の代表作のひとつ《手》[p.111]が、光雲的世界に属する仏像の手から発想されていることも注意すべきだろう。光太郎の激しい批判にもかかわらず、光雲と光太郎父子は仕事のうえで切っても切れぬ親子の絆によって結ばれている。


 光太郎を通じて光雲を見ること、逆に、光雲を通じて光太郎を見ることは、この親子の問題だけではなく、日本近代彫刻に内在する西洋的世界と日本の前近代的世界との関係を考えるうえで多くの示唆を与えてくれるのである。


(毛利伊知郎)



高村光太郎・智恵子展図録(1990)

高村光雲とその時代展図録(2002)


自作《高村光雲像》
のかたわらに立つ
高村光太郎

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