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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 2007 > 佐藤忠良さんの芸術 酒井哲朗 日本彫刻の近代 図録

佐藤忠良さんの芸術

酒井哲朗

1.

 日本の具象彫刻は、佐藤忠良、舟越保武、柳原義達らによって、ひとつの頂点に達したといわれる。西洋の近代彫刻が日本で本格的にはじまったのは、明治9年に工部美術学校にヴィンチェンツオ・ラグーザが招かれて以来である。ラグーザがもたらしたのは、19世紀西洋のアカデミックな写実主義彫刻であったが、この彫刻の流れは、朝倉文夫や建畠大夢らに継承され、明治末期には日本の官展彫刻の主流となった。これに対して荻原守衛は、彫刻を面や量のダイナミックな構築物と考えるロダンの芸術に共鳴し、高村光太郎、中原悌二郎らと生命主義芸術といわれる系譜をかたちづくった。佐藤さんらは青年期に高村光太郎訳の『ロダンの言葉』に傾倒し、彼らの作家精神も、そしてその所産である作品も、後者の系譜に属するものと自認している。

 近代日本において、芸術家は社会的に不遇であるのが通例だが、なかでも彫刻家は、詩人とならんで世俗的な意味ではもっとも不幸な境遇を強いられた。荻原も中原も、その才能を注目されつつ、貧窮のどん底で若くして死んだ。彫刻家でありかつ詩人であった高村の人生もまた世間的には恵まれないものであった。彫刻家になるということ、しかも在野の立場を貫くということは、いわば精神か物質か二者択一を迫られることを意味し、飢餓をも恐れぬ人生を撰びとるということにほかならなかった。実際、50歳までの佐藤さんは、経済的には豊かであるとはいえなかったようだ。だが、1970年代にはいると、彫刻の社会的地位も彫刻家の生活環境も大きく変わることになった。

 高度成長以後の日本の社会が、彫刻を要求しはじめたのである。公共建造物や企業のオフィスのホール、公園や駅、街頭などさまざまなパブリック・スペースに彫刻を設置する風潮が広がり、一方で次々と美術館が建設され、そのコレクションに彫刻が加えられることになり、彫刻専門の美術館も出現した。新しく生まれた美術館では、彫刻の展覧会も盛んに開かれるようになった。いまや彫刻はもっとも社会化された芸術分野であり、好むと好まざるとにかかわらず、彫刻は私たちの生活環境の中に組み込まれている。佐藤さんらの青年期には、社会的にほとんど流通しない一種の「純粋芸術」であった彫刻が、いまでは情報化社会を彩る人気アイテムとなった。つまり彫刻芸術の大衆化という事態が到来したのである。これは高度資本主義国家として、日本社会が成熟した結果もたらされた現象であるが、佐藤さんらの芸術の宿命は、このような成熟に耐えねばならなかったという点にある。彼らの彫刻が、日本の具象彫刻の頂点を示すということは、とりもなおさず彼らの芸術がどのように成熟したかということを意味しよう。


2.

 1934年22才のとき、画家志望だった佐藤さんは目標を彫刻に切り換え、東京美術学校彫刻科に入学し、3年後には国画会に出品して奨励賞を受賞している。1939年、卒業の年に新制作派協会彫刻部創設に加わり、以来今日までこの会に属し、制作を続けている。佐藤さんは彫刻への転身について、美術雑誌の写真で見たプールデルやマイヨール、デスピオらの作品に感動したのが大きな理由だというが(『つぶれた帽子』)、とりわけデスピオの感化を受けたようだ。佐藤さんの初期の作品の大部分は失われたが、僅かに〈母の顔〉(1942)と数点の小品がのこっている。〈母の顔〉は、戦況が厳しくなって、佐藤さんは自宅でもっぱら家族の頭像などを制作していた頃のものだというが、ロダン美術館の佐藤忠良展のために、佐藤さんのアトリエを訪れたモニク・ローラン館長が、この作品に目をとめて出品を要請し、パリでも好評だったという。この作品は、〈群馬の人〉に代表される独自の様式が確立される以前のものであるが、すでに佐藤芸術の特色がみられる。それは熟知した対象をモデルにして、抑制された手法で静かに内面のリアリティを表現するという彫刻作法である。幼い頃父親を亡くし、母の手ひとつで育てられた佐藤さんにとって、母親は格別の存在であるが、佐藤さんはそのような個人的感情を彫刻作品のなかに昇華し、フランス人の心をとらえるまでに普遍化したのである。

 1944年に佐藤さんは兵役について満州に渡り、その地で終戦を迎え、3年間シベリアで抑留生活を送り、32才から36才までの4年間彫刻を中断する。この人間の生存条件の限界点における生活体験は、佐藤さんの人間観や芸術観に重大な影響を及ぽしたようである。虚飾の通用しない裸形の人間関係の中で、人間の美しさや醜さを経験したことが、その後の佐藤さんの思想の核になっているように思われるのである。平凡なごく普通の人の日常生活のなかに、人間の美しさを発見しようとする佐藤さんの制作態度は、この作家本来の性向であるとしても、抑留体験を通じて体得した人間認識に基づくところが大きいといえるだろう。また、故国の山河や人々に対する望郷の思いというものも見逃せない。青年期にパリが芸術の故郷として憧れの対象であったであろうが、異国の荒蕪の地における虜囚の境遇にあっては、それよりも何層倍も切実に日本が憧憬の対象となる。80年に及ぶ佐藤さんの人生のなかでわずか4年のことであるが、この芸術上の空白の期間が、その芸術形成に与えた意味は深く大きい。

 帰国して制作を再開した佐藤さんは、〈オリエ〉(1949)〈たつろう〉(1950)などを新制作展に発表した。これらの作品では、すくすくと育ったわが子への思いが、清新な生命への感動として造形化されている。1952年には、日本の近代彫刻史上記念すべき〈群馬の人〉が制作された。この作品の直接のモデルは、『歴程』の詩人岡本喬氏であるが、佐藤さんが中学時代札幌で共同で自炊生活をした10歳年長の岩瀬久雄氏や軍隊で親しかった班長など、特定の人物というより、それまで佐藤さんがかかわった質朴な農民の魂をもった群馬の人を象徴的に表現している。これまでの日本の近代彫刻は、いわば西洋の技法で日本人の顔や姿態を表現してきたが、〈群馬の人〉は、真の意味で日本の彫刻が日本人を表現し得た作品として、高い評価を受けた。いかにも日本人らしい頬骨の張った平凡な容貌の小さなこの頭像は、緊密で簡潔なフォルムとして形象化され、強い存在感をもっている。

 佐藤さんは1950年代に、〈木曾〉〈常磐の大工〉〈うれ〉〈エイ〉〈魚商の女〉〈建築家〉など、「きたな作り」といわれた、およそ美男美女とは縁遠い素朴な平べったい顔の作品を次々とつくっている。佐藤さんは、こうした無名の生活者の面貌に真の美しさを見いだし、造形化していったのであるが、これらの作品にみられる佐藤さんの人間理解や余剰を一切削ぎ落として本質的形体のみによって表現しようとするその造形の力が、人々を感動させるのである。また、これらの作品の記号のように一般化されたネーミングも注目される。佐藤さんをとらえた個々のモデルの人間的魅力が、作品においては、本質的還元とでも形容すべき彫刻の理法によって普遍化されるのであり、そのことが作品の題名にも表明されている。

 これらの頭像と並行して、佐藤さんは、近代彫刻の正統的主題として、裸婦像を制作している。1950年代の〈やせた女〉〈はだか〉〈足なげる女〉などは、まさに日本人の手になる日本人の裸婦であり、「美の典型」というより、長所も欠点も含めてさまざまな側面をもつ生身の人間の美しさを表現している。〈娘の像〉(1959)や〈若い女〉(1961)は、若々しい充実した生命感情の表現であり、初期の裸婦像の代表的作品である。この作品系列は、初期から現在にいたるまで、佐藤さんの芸術のなかで一貫して追求されているテーマである。


3.

 佐藤さんの彫刻の重要なモチーフとしてこどもがある。〈果実〉(1963~4)〈ふざけっこ〉(1964)〈風の子〉〈冬の子供〉(1965)〈夏のこども〉(1968)〈二歳〉(1972)などをはじめとして、自ら「小児科」というほど多数制作し、テーマとして一領域を形成している。モデルは達郎、オリエのような自分のこども、竜、未菜ら孫たち、美術学校時代の恩師朝倉文夫の娘で舞台美術家摂の愛娘亜古など、佐藤さんの身辺のこどもたちである。無心に遊ぶこどもたちの動静を観察しながら、佐藤さんはあるポーズを素速くデッサンして、それを粘土で表現する。

「子どもを見ていて、『彫刻になるかな』と思うのはどう言うところかと言いますと、まず最初は可愛さというのがあります。ひょっとしたポーズが、ほっと、つぎに移動するようなある瞬間に、巧まざる可愛らしさが出てくるものです」(『子どもたちが危ない』)と、佐藤さんはいう。子どもの作品は、〈ふざけっこ〉のように激しい動きの頂点で表現した作品から、〈冬の子供〉や〈二歳〉のように静止の瞬間をとらえたものなど、さまざまなヴァリエーションがある。「巧まざる可愛さ」と佐藤さんがいうように、それは純真なもの、無垢なものの表現である。

 佐藤さんは、彫刻は「時間を奪われた芸術」だという。ところが人間は時間に規定された存在であり、彫刻はこのバラドックスを、土やブロンズの人間像を通じて表現しなければならない。したがって、彫刻は本来的に象徴的性格をもつ「強気の芸術」だと佐藤さんはいう。首や全身像によって、すぐれた実例を示してきたわけであるが、こどもの作品と〈群馬の人〉のような作品とは、異なる点がある。〈群馬の人〉の背景にはさまざまな人間的経験があり、過去の時間が凝縮されているが、こどもは天衣無縫、自然そのもの、時間を超越した存在であり、この点で両者は対照的である。こどもには純真、無垢、未来、失われた時間など、さまざまな意味が付託できるが、こどもは過去をもたない、眼前の動きそのもの、非時間的な空間自体としてとらえることができる。こどもというモチーフには、ヒューマンな主題上の問題だけではなく、こういった彫刻の方法論上の要因もあるような気がする。


4.

 〈群馬の人〉を初期の代表作とするなら、〈帽子・夏〉(1972)を後期の佐藤さんの代表作とみなし、佐藤芸術の展開を象徴的に語ることができる。〈帽子・夏〉もまた、従来の日本彫刻に類をみない清新な作品であった。鍔広の帽子の庇を目深に下げ、ジーパンをはいた若い娘が踵を高くあげて足を開き腰をかけた半裸の像であるが、ひきしまった若々しい身体のモデリングと微妙な均衡の上に成り立つ斬新な空間構成によって、現代的な清爽な情感を表現した。ここに表現されているのはまぎれもない日本の女性であるが、〈群馬の人〉などの一連の無骨な庶民の典型のような「きたな作り」の首と正反対の都会的な洗練された女性像である。

 これらふたつの作品の間に、20年の歳月が流れている。この間日本は、戦後の復興を成し遂げ、高度成長といわれる経済発展のただなかにあった。日本人の社会環境や生活意識は変わった。一億総中流といわれた時代の動向のなかで、日本人の生活様式は急速に都会化し、画一化して、佐藤さんの周辺に「土臭い」人物は見られなくなった。佐藤さんが変わったというより、日本人の生活環境や意識が変わり、世の中全体が変わったのである。日常身辺の普通の人々の生活のなかに美を見いだすという、佐藤さんの芸術信条は変わったわけではない。〈帽子・夏〉において、佐藤さんは帽子とジーパンという、日常生活に親しい現代風俗を彫刻にとりいれ、現代人の生活感情を見事に造形化して人々の共感を呼んだのである。

 着衣の人物像は、1960年代に〈冬のこども〉や〈風の子〉などで試みられ、その後〈マント〉〈ボタン〉(1969)などといった作品が制作されている。〈マント〉や〈ボタン〉は、顔と手足の一部を除いて、人体はマントやスカート、ブーツに覆われている。人体の垂直の軸線とコスチュームが形成する面やボリュームを巧みに構成して、裸体では得られないフォルムを創造し、現代的な人間像の表現に新しい分野を開いた。裸体を至上の美とみなす芸術観からすると、余剰とみなされる装飾的、意匠的要素を導入して、新しい彫刻美を追求しようとしたわけだが、それにはイタリア彫刻の刺激があったことを見逃せない。1960年代に、マリーニ、グレコ、マンズー、ファッチーニ、クロチェッティらイタリアの具象彫刻が日本に紹介され、これらイタリア現代作家たちのエスプリや斬新な空間表現は鮮烈な印象を与えた。だが、佐藤さんの場合、その作品を見れば明かなように、イタリア彫刻を外形的に模倣したのではなく、それらが佐藤さんの思考を活性化させ、佐藤さん固有の造形思考と感性のなかで方法化され、独自のスタイルを創造するのに役だっている。

 さきにもふれたが、佐藤さんは初期から現在まで、裸婦という主題を一貫して追求している。佐藤さんが終始裸婦の表現に固執するのは、その主題の象徴性の故であろう。このもっとも単純で自然な、しかし奥の深いモチーフを、比較的初期のいくつかの例外をのぞけば、たいていは立つか坐るか、立像の場合は左右いずれかにやや体をひねったポーズが多いが、抑制された自然なポーズで、密度のある肉づけと均整のとれた簡潔なフォルムとして表現している。ドラマティックな誇張や激しい感情の表出をせず、静かな均衡のうちに充実した内的な生命感を表現するのが特色である。佐藤さんは、裸体という主題が普遍性をもつとしても、明治の女と大正の女、昭和の女は違っていると考え、この裸婦という領域においては、同時代のヴィヴィッドな生活感情をもった現代の裸婦を表現しようとしてきたといえるだろう。

 着衣の裸婦という矛盾したいい方はおかしいかもしれないが、佐藤さんの女性像にはジーパンをはいたり、シャツをはおったり、部分的にコスチュームをまとった女性像がある。〈帽子・夏〉などがその例だが、これ・轤フ作品は、主題の象徴性という意味で裸婦像のヴァリエーションといえるかもしれない。あるいは、裸婦像と着衣像を総合して佐藤さんが創出したモチーフといってもいいかもしれない。

 佐藤さんの制作原理において、デッサンは重要な位置を占める。デッサンは、「作者の眼と心の硬化を防ぐ、息のながい体操のようなもの」で、自分のものは人に見せたくないが、人のものは盗み見たくなるものだ、と佐藤さんはいう。つまり、デッサンは、作家がものを見、考えるという造形思考そのものを意味し、作家の精神の運動の表象なのである。佐藤さんはすぐれた素描家として定評があるが、デッサンは頑として売らない。また、佐藤さんは、かつての師朝倉文夫の「一日土をいじらざれば一日退歩」という言葉を大切にしている。彫刻の仕事は、職人の仕事と同じだと考え、手仕事の伝統に固執する。

 佐藤さんの生き方を律しているのは、人間に対する誠実さではないだろうか。それはヒューマニズムといわれるものと同義であり、芸術の上でも、私生活の上でも貫徹されているように思われる。佐藤さんの芸術は、常に普通の人々、無名の人々とともにあろうとし、日常的な生活世界から発想されている。このことは佐藤さんの人間に対する誠実さに由来するものであろう。佐藤さんの芸術は平明であっても、決して通俗に堕さないのは、制作上の厳格な自己規律があるためであろう。このようなストイックな芸術観は、人間の文化を律してきた高貴な精神に対しても誠実であろうとする、佐藤さんの価値観に基づくものであろう。

 同時代の芸術の変貌は実に激しい。芸術上のさまざまなイズムが興亡し、大衆文化のなかで芸術もまた消耗品と化するかのようである。既成の人間や芸術の概念の風化や解体がいわれるなかで、佐藤さんは人間や芸術にたいする信頼を決して捨てようとしない。佐藤さんの彫刻の女性やこどもは、優美でさわやかで抒情的である。だが、その根底にしなやかで強靭な精神がある。「強さは、心のやさしさに支えられて、作品=佐藤忠良の世界をつくっているのではなかろうか」。僚友柳原義達氏の評言である。それは戦中、戦後の世界体験のなかで、日本の具象彫刻が成熟し、到達した一地点なのである。

(三重県立美術館長)

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