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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 2008 > 第1章作品解説 生田ゆき 佐伯祐三展 図録

第1章 作品解説

(生田ゆき)

1
自画像
Self-portrait

1917年
油彩・カンヴァス
45.4×33.5cm
笠間日動美術館
 画面右下に「大正六年六月 佐伯祐三」とあり、1917年3月に大阪府立北野中学卒菜後、9月に上京、川端画学校洋画科に入学するまでの間に制作されたことが分かる。佐伯は北野中学4年生の頃から、赤松麟作の洋画塾に通い石膏デッサンを習うなど、絵画技法の基礎の習得に努めていた。短く刈り込まれた頭にふっくらとした頬は若者らしい生気に溢れ、瞳の奥の光には自らの未来への意志と自信が宿るかのようだ。


 佐伯の実家である光徳寺が終戦間際に空襲の被書を受けたため、大阪時代の作品は極めて少ない。現存する佐伯の作品の中で最も初期に位置する本作は、十代の佐伯の姿を知る貴重な一枚である。
2
自画像
Self-Potrait

1920-23年
油彩・カンヴァス
45.5×33.4cm
三重県立美術館

 川端画学校では生渡師と仰ぐ藤島武二と出会い、石膏デッサンの名手としてならした。1918年に東京美術学枚西洋画科予備科(現在の東京藝術大学油画科)に入学、1923年卒業を果たす。佐伯にとっての美術学校時代は、制作よりもむしろ人生における大きな分岐点の連続であった。相次ぐ肉親の死、池田米子との恋愛、結婚そして一人娘彌智子の誕生。《自画像》(No.1)の幼さを残す面差しは消え、青年期特有の、自我の不安定さを感じさせる自画像を多数描いた時期に重なっている。


 本展のためのエックス線調査において、完成作の下層から横長の画面に丸皿の上のリンゴと絵筆の画像が確認された。美術学校時代、佐伯は里見勝蔵や友人の山田新一らとともにセザンヌの画集に夢中になり、互いのリンゴの写生を批評し合ったことがあり、その若い情熱の余韻を残す一枚である可能性が高い。


エックス線写真 
4
裸婦習作
Study of a Nude

1923年頃
油彩・カンヴァス
80.5×53.0cm
 美術学校の卒業制作の「裸婦」を制作中、川端画学校時代からの友人で同級の山田新一に「氷漬けみたいな裸」と評されたことに対して、佐伯が返した言薬は、学校の指導方針への不信であった。結局は背景に景色やカ-テン、窓などを描くようにという注文には従わないままに提出したが、それは友人の曾宮一念の言葉を借りれば、「道具建の多い学校風の類型の中で静かに反抗を示してゐた」。若者らしい青い潔癖さの表出ともとれるが、後に待ち受けるヴラマンクとの出会いを考えると示唆に富む。


 本作は習作ではあるが、沈んだ調子の背景にほの白く裸婦が浮かび上がるのみで、周りの情況を示すものは何一つ描かれていない。透明感溢れる肌の質感には、当時傾倒していた中村彝を介したルノワールからの影響が窺える。
5
パレットをもつ自画像
Self-portrait with a Palette

1924年
油彩・カンヴァス
72.0×61.0cm
新日本石油株式会社
 佐伯がパリでの第一歩を記したのは1924年1月3日のことであった。マルセイユに船が着くや夜行列車に飛び乗り、一路芸術の都を目指した。到着直後から何かにつけ、美術学枚の先輩であった里見勝蔵を頼りにし、彼を先導に美術館や画廊巡りに精を出し、最新の美術潮流を肌で感じた。

 異国での刺激の洪水の中で佐伯の心を捉えたのは、美術学校時代から焦がれたセザンヌであった。本作でもあからさまにセザンヌの自画像のポーズを借り、フランス近代絵画の巨匠への接近を試みている。しかしながらセザンヌの作品に見られた堅固な構築性は端々でほころびを見せ、気弱に重ねられたタッチは形態の上を滑るのみである。突き出し気味の顎に閉じられた唇には、未だ手がかりを見付けられぬ不安と焦りが見え隠れしている。
6
パリ遠望
Distant View of Paris

1924年
油彩・カンヴァス
55.3×72.7cm
大阪市立近代美術館建設準備室
 パリでの約ニカ月のホテル住まいに終わりを告げ、郊外のクラマールの一軒家に越したのは1924年3月のことであった。同地周辺は豊かな森に古い町並や教会など、魅力的なモティーフに溢れていた。さらに同じ敷地には後に川口軌外らも越してきて、週末になれば里見や前田寛治、中山巍らがパリから集まり、さながら小さな日本人画家のコミュニティをなしていた。

 穏やかな光に包まれたパリが遠方に霞む。同年4月佐伯は山田宛にパリのベルネーム=ジュヌ画廊で見たセザンヌ展の感動を書き送った。その直後の制作と思われる本作は、幾何学的に還元された形態、斜めに走るタッチ、彩度を押さえた色調など、セザンヌからの影響が顕著である。しかしそれらは様式の外面的な模倣に過ぎず、佐伯の内在的な表現の発露ではなかった。
7
立てる自画像
Self-portrait in a Standing Posture

1924年
油彩・カンヴァス
80.5×51.8cm
No.36《夜のノートルダム(マント・ラ・ジョリ〉》の裏面
大阪市立近代美術館建設準備室
 佐伯より2年早くパリでの活動を始めた里見は、野獣派の大家ヴラマンクとの知己をすでに得ていた。佐伯は里見に紹介を頼むが、オーヴェール・シュル・オワーズのヴラマンクの自宅を二人が訪ねたのは1924年夏であり、佐伯のパリ到着から半年近くの時間を要した。パリで制作された佐伯の「非常に巧みに、野蕃な、美しい表現をした」裸婦に対して、ヴラマンクが浴びせたのは「アカデミック!」という怒号であった。佐伯にとって初めてといっても良い挫折、そして再生への格闘の始まりである。

 ヴラマンクからの叱責の後、佐伯は美術学校時代に続いて二度目となる自画像の集中的な制作期に入る。頼りなげに大地に立つ画家の顔は一度描かれた後パレットナイフでこすり取られて判然としない。未完成ゆえの荒々しさが逆に作品の存在感を増す一枚である。
8
裸婦
Nude

1924年
油彩・カンヴァス
60.8×73.0cm
No.32《壁》の裏面
大阪市立近代美術館建設準備室
 ヴラマンクの一喝は、フランス語をよく理解出来ない佐伯にあっては、逆に自閉の度合いを深めることになった。ある時はヴラマンクばりの風俗画を、ある時は醜くゆがんだ自画像を、かつての佐伯の作風からは考えられぬほどの激しい調子の作品を残した。そんな当時の佐伯の姿を米子は「急に人が変わったように、夢中で絵の中に誘きこまれてゆくように見えました」と記している。

 黒が優勢の画面の中に、関節がぎこちなく折れれ曲がった裸婦がベッドに横たわっている。米子はこの時期の裸婦の1枚を「黒を凄く使い、女の顔はカラス天狗のように真っ黒」と評した。

 本展の調査において本作が1911年のシャガールのグワツシュ(挿図)と酷似していることが分かった。シャガール自身ロシアからパリヘ出てきた直後、当時最先端の美術潮流にとまどいつつも消化吸収していく時期の作品であり、パリの異邦人同志、作品を通じて何らかの心情が響き合ったとすれば興味深い。


マルク・シャガール《横たわる裸婦》 1911年 厚紙にグワツシュ
10
風景
Landscape around the Oise River

1924年
油彩・カンヴァス
38.2×45.6cm
 1924年の秋から冬にかけて、佐伯は里見とともに、ヴァルモンドワ、ネル・ラ・ヴァレ、ヴァラングジャール、オニーなどパリ郊外の街へ写生旅行に出かけた。未だヴラマンクから受けたショックの傷が癒えぬ佐伯は、里見に教えられたヴラマンクの写生地をまるで巡礼するかのごとく描いた。里見によれば佐伯はこの旅行で7,80枚の風景画を描いたとするが、10数点のみが現存するだけである。不透明な色彩、パレットナイフの多用、うねるような形態把握。かつてのセザンヌ調からヴラマンク調への変化である。この変化を里見は「佐伯の信仰は新たになった」とし、その「懸命の努力と制作」を特筆するが、遠巻きに捉えられた景色はまだ画家の心をつかむには至っていない。
17
パリ雪景
Snow Scene in Paris

1925年
油彩・カンヴァス
60.5×72.7cm
新日本石油株式会社
 1924年12月佐伯一家は約9カ月間住んだクラマールから、パリのリュ・デュ・シャトーのアトリエに引っ越した。佐伯は同時期のことを振り返りこう記す。「段々巴里の町をかくことの面白さを知つてもう郊外等へ行きたくなくなつて終始町ばかしかゐていました」。「私は十五區と十四區の間に住んでゐたので十五區と十四區のホトンドの町では畫架をたてた事があります」。モンパルナス駅近くに位置するこの場所で、いよいよ佐伯はパリの街角と対峠する。

 陰鬱な冬の景色はヴラマンクのお手の物であるが、かつてのような直接的な模倣の様相は幾分後退の兆しを見せている。左前面の建物の壁には、この後花開く文字への関心の萌芽を認めることができよう。
22
リュ・ペルネティ
Rue Pernety

1925年
油彩・カンヴァス
65.5×91.2cm
 リュ・ペルネティとは地下鉄ペルネティ駅近く、パリ14区内にある短い通りのこと。佐伯のアトリエからは歩いて十分足らずの距離である。ここでは飾り気の無い普段着の町並みが主人公である。ヴラマンク仕込みのパレットナイフによる大胆な彩色は影を潜め、時には力強く、また時には軽快に引かれた黒い輪郭線の魅力が際だち、それらは色数の抑えられた画面に絶妙なリズムを刻む役割を果たしている。通りの奥に行くに従って急激に収束する遠近を強調した構図は、同時期に特徴的なもので、1925年6月にベルネーム=ジュヌ画廊で見たユトリロが描くパリの裏町への接近が如実に表れている。
24
自動車小屋
Garage

1925年
油彩・カンヴァス
53.0×72.7cm
 堂々たる印象を与える作品。子細に観察すれば入り口より向かって右側は建物の側面となるはずであるが、屋根から看板、窓枠へと平行に走る太い線は奥行きよりも平面性を強調し、まるで一枚の壁が立ち上がっているかのような錯覚をおこさせる。小屋の中は薄暗く、かすかに機械の鈍い反射光が漏れるのみであり、黄色い壁と青みがかった黒い文字のコントラストを一層強めている。

 佐伯は帰国後の1926年9月、東京府美術館で開催された第13回二科展に、滞欧作19点を出品し大きな反響を呼ぶが、特に「私自身として一番気に入った作」としたのが「自動車小屋」であった。自動車に関連する場所を描いた作品は3点の現存が確認されているが、いずれが出品作であったのかを同定するにはいたっていない。
26
洗濯屋(オ・プティ・ソミュール)

Laundry(Au Petit Saumur)
1925年
油彩・カンヴァス
73.0×60.4cm
大阪市立近代美術館建設準備室
 灰色と青みがかった緑の繊細な調子の変化が美しい一枚。ここでは屋根の勾配のアクセントや通りに行き交う人の活気もなく、ただ店の戸口と窓だけをまっすぐに切り取っている。この単純な場面設定であっても、2階においては鎧戸の開閉の差による斜線と水平線、1階においてはカーテンが生む黒白のコントラストなど、画面には十分な変化が付けられ、即興風に見せてその実綿密な構成の妙が窺える。

 ソミュールとは、パリ以西ロワール川沿いにある町の名で、ワインの産地としても有名。向かって左の入り口に「Vin Rouge」の文字が読めることから、かつては《おかず屋》と題されたこともあった。1階郡右端には縦に下から「BLANCHISSERIE」と記され、これが「洗濯屋」のタイトルの由来となっている。
27
レ・ジュ・ド・ノエル
Les Jeux de Noël

1925年
油彩・カンヴァス
72.5×60.5cm
和歌山県立近代美術館
 シャトーのアトリエ近くの、何の変哲もない下町の店先に、佐伯のまなざしは吸い寄せられていく。画面一杯に正面から捉えられた店たちは、いずれもにぎやかさとは無縁で、店内の奥は暗く、ただ屋号だけが入り口の上で威勢良くはねるのみだ。佐伯は当時の思いについて、パリで親交を結んだ小説家の芹沢光治良に対し、「この町の附近に、僕の荒涼たる心境を表現するモチーフがたくさん目にとぴこんで、ほんとうに仕事に夢中になった」と語っていた。

 赤い壁に深い緑の入り口が映えるこの店は、気取らぬ酒場を営み2階を宿屋にあてている。屋号のレ・ジュ・ド・ノエルとは「クリスマスを楽しむ店」の意。パレットナイフによる早描きで一気に描いたように見えて、2枚を比較すると、向かって左の壁端や2階部分の塗装のはげ具合が共通しており、実際の店を前にした観察に忠実であることがわかる。
30
運送屋〈カミオン)
Camionnage

1925年
油彩・カンヴァス
60.2×72.1cm
大阪市立近代美術館建設準備室
 右下に「Uzo Saiki 1925 a Paris」と署名年記あり。「Camion」とはトラックのことを指し、この建物が運送屋を営んでいることがわかる。画面中央のガレージの扉は開けられ、赤い上着の女性が今横切るところである。後ろへと勢いよく振られた腕と短いスカートからのぞく白い足は呼応し、颯爽とした足取りに靴音さえ聞こえてくるようだ。曇天ににじむ空と下町の古い壁、水平に走る道路は一体となり、画面には穏やかな統一感が生まれている。まるで壁そのもののような触覚的なマチエールを自在に操ることで、このような何もない、静かな午後さえも十分にモティーフとして機能することを確かめ、佐伯は確かな手応えを感じていたに違いない。
32

Wall

1925年
油彩・カンヴァス
73.1×60.8cm
裏面にNo.8《裸婦》
大阪市立近代美術館建設準備室
 オークル色の古ぼけた壁。まだらにはげた塗装。消えかかる屋号。たとえ人影が見えなくともそこには確かに人々の生活の臭いがしみこんでいる。本作の制作において佐伯はペインティング・ナイフで絵の具を重ね、削り取り、また時には指も使うなどして、パリの風雪に耐えてきた壁の量感の描出に苦心している。「壁土を削り取って混ぜた」とさえ噂されるほどの現実感は、イメージの再現性と絵具の物質性が際どい均衡を保つ佐伯の真骨頂とも言えるだろう。

 斜めに横に走る「DEMENAGEMENTS」の文字は引っ越し屋を表し、1階2階にはそれぞれ「1860年に建てられた古い家」という説明が繰り返される。視線をさらに左下に落とせば、朱色の文字によく似た書体で佐伯は自らの署名と年記を付け加えている。それはまるでパリの歴史に自らを刻む行為にも似て、画家の自負をそこに見ることができる。
34
ノートル・ダム(マント・ラ・ジョリ)
Notre-Dame(Mantes-la-Jolie)

1925年
柚杉・カンヴ7ス
79.5×59.0cm
裏面にNo.12《オワーズ河周辺風景(ネル・ラ・ヴァレ)》
 1925年6月、佐伯は兄祐正からのバリ行きを知らせる電報を受け取った。兄の来訪は欧米のセツルメント(社会福祉事業)の視察が目的であったが、佐伯の体調を案じた母から日本に連れ帰る命も受けていた。久しぶりの再会に兄弟はパリや近郊の観光地をめぐるが、その一つ、パリ郊外、各駅停車で一時間ほどの距離にあるセーヌ川沿いの古都マント・ラ・ジョリを訪れたのは、10月下旬のことであった。この小旅行に佐伯はカンヴァスを4枚持ち込むが、表裏とも白地のカンヴァスはl枚のみで、シャトーのアトリエ以前の未完の作品を張り直して持ち込んだ。

 歴史の重みを感じさせるゴシック様式の寺院は、すでにパリの下町で手中に収めた油絵具の濃厚なマチエールの相手としては申し分ない。同地から日本の姉へと出した兄弟が寄せ書きをしたハガキには、この教会の「正面を画くつもりです」と宣言されており、この堂々たる建築物と文字通り真っ向からぷつかった意欲作であった。

 本作は長い間パリのノートル・ダム寺院と混同されてきたが、朝日晃氏の調査により、マント・ラ・ジョリの古寺院であることが確認された。3枚のうち1枚は佐伯の一時帰国時に北野中学時代の美術教師中村堯興を訪ね、同枚へ寄贈されている。
40
広告のある門
Gate with Posters

1925年
油彩・カンヴァス
60.2×73.0cm
和歌山県立近代美術館
 兄祐正による帰国の説得に従う意志を固めた佐伯は、残されたパリでの時間を惜しむかのように、制作の速度と密度を上げていった。ここでは洗濯屋や酒場へ向けられたのと同じような目線で、広告の乱雑に貼り巡らされた門を描いている。一時帰国後発表した生前唯一の手記に、佐伯は「巴里の古い家が面白いと思いました、コトに煙突とビラが綺麗だと思いました」と書き、自らが掘り当てたモティーフに自信を見せている。注意深くポスターの文字を読み取れば、そこにはシャンソンや舞台の告知を拾うことができよう。中央右に位置する「DAMIA」とは佐伯お気に入りの歌手の名であり、音楽好きの佐伯の一面が垣間見られる。

 帰国直前に出した山田新一宛の手紙に、佐伯は「今自分のキヨウ地(境地)ヲ見付けたいのであへいて(囁いで)ゐる 大分見付けてきたのだ」と記した。それはちょうど《コルドヌリ(靴屋)》が第18回サロン・ドートンヌに入選した時期に重なっている。「アンシアンパリーをかいて日本にもつてかへりたいと思つてゐる 今のところ十枚位 氣に入つたのがあるだけであとこれからだ」と親友に綴る佐伯の胸は、すでに再び巴里に戻る日を待つ心境になっていた。
44
静物 パリ・ソアル
Still life(Paris-Soir)

1925年
油彩・カンヴァス
53.5×65.0cm
メナード美術館
 リュ・ドュ・シャトーの4階のアトリエは天井が高く半分ガラス張りで、採光の点では好ましいものであった。当時を知る芹沢が語るように「巴里の下町全体體」がアトリエであった佐伯にとっては、室内で物言わぬ小さなものたちと向き合う時間は少なかったとみえ、現存する静物画の枚数は多くない。

 静物画を描くとき、佐伯の頭の中にはヴラマンクから出された「砂糖と塩の白と、皿の白と布の白との物質感を描き分けろ」という課題がいつも響いていたことだろう。テーブルの上には似通った色彩の異なる素材が並べられている。また、絵具箱やテレピン油といったモティーフを選んだ背景には、一種の精神的自画像の意図があったのかもしれない。箱や瓶の説明書き、新開やパンフレットといった文字も積極的に挿人され、風景画にも通じる指向が顔を見せることは興味深い。
45
人形
Doll

1925年頃
油彩・カンヴァス
41.2×32.2cm
大阪市立近代美術館建設準備室
 一般に流布する悲劇的なイメージとは裏はらに、佐伯のパリ生活は父の遺産と実家光徳寺からの仕送りのお陰で、経済的には恵まれたものであった。身なりには全く無頓着な佐伯であったが、パリへの船中でインド更紗を買い集めたり、タクシーで町を走る途中見付けたセーターを、車を突然止めさせて求めたりするなど、一旦気に入つたものには突発的な執着心を見せる一面もあった。

 本作のモデルとなった人形は、米子によればオペラ座通近くの骨董店で購入したもの。パリでのほぼ一カ月分の生活費焚に相当する1000フランを費やしてしまい、画家仲間の川口軌外への借金や、日本へ送金依頼の電報を打つ騒ぎにまで発展した。なめし皮製の人形は男女一対で男性の人形は米子のアトリエに残ったが、女性の人形は後に有島生馬のもとに嫁入りし、その後焼失した。スケッチ風に素早く描かれた人形の、アーモンドアイの流し目に黒いほくろが何ともいえぬ清純な色香を漂わせる。
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