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T 佐伯芸術の始動 画塾時代〜第一次パリ時代

画家野見山暁治には「佐伯君の小道」と題した回想文がある。上京間もない頃、佐伯祐三の画集を「一枚一枚たんねんに頁をめくっていくうちに、油絵具の肌ざわりというか、情念のほとばしる色彩が、悲しいくらいに追ってきて」、ついに無理をして古本屋で購入したという。

大阪にある古刹光徳寺住職祐哲の二男として何不自由ない環境で生まれ育った佐伯祐三。彼が背負わなければならなかった唯一、そして最大の悲運、それが「死への恐怖」だった。

佐伯祐三が美術に関心を寄せ始めたのは北野中学校在学中の14歳のころ、芸術的感性の鋭い5歳年上の従兄、浅見憲雄の存在が大きかったといわれる。佐伯は17歳のころから油絵を描きはじめ、梅田の赤松麟作の画塾、そして中学校を卒業して上京すると、川端画学校で藤島武二の指導を受け、東京美術学校に入学した。その翌年、早稲田大学卒業前の浅見憲雄が結核で死亡、さらに翌年には父祐哲の死、そして兄祐正と恋愛関係にあった大谷菊枝が自殺、その半年後には弟の祐明が同じく結核で死亡するといった身内の不幸が続き、否応なく死を意識することとなった。その一方で池田米子との結婚、長女彌智子の誕生、アトリエ付きの家を新宿下落合に建て、自らの手で増築を行うなど明るい要素もあった。こうした激動のなかにあって学生時代の佐伯は「なんぼでもデッサン」とつぶやきながら素描に打ち込み、油絵では中村彝の作品を通じて感じ取ったルノワール、あるいは情熱的なゴッホの画風に共鳴しながら自己の表現を模索した。

東京美術学校を卒業した1923(大正12)年、関東大震災などで出発が遅れた佐伯だったが、翌年1月から2年間の第一次パリ時代が始まる。早速ホテルからパリの私立美術研究所に通い出し、3月にはパリ郊外のクラマールに転居。ルーヴル美術館や画廊などで多くの作品を実見し、画風はしばらくセザンヌ調が続いた。そんな初夏、先輩里見勝蔵に頼んでヴラマンクに面会、その頃描いた作品が怒りを買った。この有名な事件は、ヴラマンク流の実直な教育的指導であったに違いない。ここでようやく佐伯は自分の甘さに気づき、虚飾を振り払い制作に専心することになる。その最初の試みが、パリ北西、ヴラマンクが写生地としていた周辺地域のオーヴェール、ネル・ラ・ヴァレ、オニーなどの風景から湧き起こる自己の感情を直に投影させることであった。

そして、フランス滞在2年目となる1925(大正14)年、佐伯の描く大正は郊外から徐々にパリ市内の街並みへと移っていく。このころ関心の強かったユトリロの影響もあるだろうが、佐伯本来の集中力の歯車がかみ合いだし、ようやく本人の納得いく作品が生まれ出した。一方、雨の強い日には、前年暮れに転居したリュ・デュ・シャトーのアトリエで静物画を制作、まさに次の飛躍を感じるなか、無念の帰国を余儀なくされる。

(田中善明)

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