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図版・解説

山口泰弘

2.仏涅槃図
  絹本著色 掛幅装 1幅
  縦143.8 横162.2
  鎌倉時代 13−14C
  桑名市 十念寺



 仏伝図の一場面あるいは釈迦八相のひとつとして、釈迦が入滅する情景、すなわち涅槃変相を絵画化したのが涅槃図である。わが国では、奈良時代末に涅槃会が行われはじめているが、以後涅槃図の制作が多くなり、高野山金剛峯寺のいわゆる「応徳涅槃」(応徳3年・1086)をはじめ多数の通例がみられる。中国や日本では、中央の裟羅双樹の下牀座に臥す釈迦と、周囲でその死を悲嘆する仏弟子・俗衆や鳥獣、諸菩薩、そして(とう)利天から飛来する生母摩耶夫人を配する、という構成でこの情景が描かれることが多い。

 この十念寺の蔵する図も、そのような定型に則って描かれたもので、作風から鎌倉時代後期の制作と考えられる。また、裏瑞書によって天正18年(1590)と寛延2年(1749〉に修復されたことが知られる。
3 仏涅槃図
  絹本著色 掛幅装 1幅
  縦169.5 横122.4 南北朝時代14C.
  四日市市 大樹寺



 大樹寺は臨済宗妙心寺派。室町時代、保々城主朝倉氏の招請によって桃隠玄朔(禅源大沢禅師)が創建し、京都妙心寺七世日峰宗舜(禅源大済禅師)を迎えて開山した。

 画面左端中央に「詫磨法眼栄賀筆」の落款が認められ、本涅槃図の筆者を知ることができる。鎌倉時代以降、中世を通じて絵仏師の流派が形成され寺社勢力を背景に栄えるが、巨勢派とともにその有力な一派として栄えたのが、詫磨(摩)派である。詫磨派は、12世紀の終わりころから、従来の平安仏画の穏やかな線描、温雅な色彩、岩絵具の厚塗技法に対して、新しく摂取された宋風の肥痩のはげしい線描、冷たい色感、薄塗技法を積極的に吸収し、旧来の画風と融合して、中世における仏画の一典型を造っていった。栄賀は、南北朝時代に現れた同派の絵師である。「釈迦三尊及十六羅漢図」(京都国立博物館)「不動明王二童子像」(静嘉堂文庫)など詫磨派の定型的作品に加えて、「布袋図」「普賢菩薩像」(フリア・ギャラリー)など水墨様式による作品を描き、幅広い画域をもつ職業画人として知られる。

 入滅する仏の輪郭を描く穏やかな線描や会衆の顔貌や衣文の打込みの強い動的な線描表現、冷めた色感など、本図は、詫磨派の定型的作風を示す作品として貴重である。
4 ◎仏涅槃図
  絹本著色 掛幅装 1幅
  縦216.1 横176.1
  南北朝時代 14C.
  一恵郡 成願寺



 本図は、南北朝時代の制作になる大幅。

 損傷がかなりはげしく、仏の肉身に賦された金泥など9彩色に補修の跡が認められる。現在の表装に改装する以前の装背に墨書銘があったことが知られ、それによると天文10年(1541)と宝永3年(1706)のすくなくとも前後2回補修が行われた模様である。当初のものと思われる会衆の顔貌や衣文の描写などにみられる墨線は、比較的打ち込みの強い達者な筆使いをみせる。

 本図を蔵する成願寺は、天台宗真盛派に属し、明応3年(1494)、当時の伊勢国司北畠材親の部将新長門守の発願によって開かれたと伝えられている。同寺には、掲出の仏涅槃図のほか、鎌倉時代後期の作で蓮華座に腰掛けて、説法印を結ぶ特異な像容の木造阿弥陀如来椅像が蔵されている。
9 ◎地蔵菩薩像
  絹本著色 掛幅装1幅
  縦96.5 横36.5 鎌倉時代 13−14C.
  津市 地蔵院



 地蔵が来迎雲に駕し、迎接に赴く様を描く。像容は声聞形で円頂、左手は屈臂上掌して宝珠を持ち右手は半伸して錫杖を持ち、左向きの体をややかがめ蓮台に乗る。地蔵の着す円文の大衣には精緻な截金が施され、それがあざやかに残る白顔とあいまって像体を背景から際だたせている。

 釈迦入滅後弥勒仏が出世するまでの無仏の世界に現れて六道に輪廻転生する衆生を教化救済するという地蔵菩薩に対する信仰は、日本ではすでに奈良時代には行われていたといわれるが、その功徳から、以後各時代を通じてさまざまな層に浸透し篤信を集めた。

 来迎像としての地蔵菩薩は、平安時代後期には阿弥陀の来迎に従う聖衆の重要な一員となっているが、鎌倉時代以降、地蔵菩薩の信仰が盛んになるに従って聖衆から独立し、独尊形式としても措かれるようになる。
11 ◎十二天像(大宝院旧蔵)
  絹本著色 掛幅装 12幅
  各縦123.0 横41.8 鎌倉時代 13C.
  奈良国立博物館



 十二天はインド神話における12の神を1組としたもので、方位を司り、特に密教では教法護持の守護神とされる。

 本図は、津市の中心部に位置する真言宗醍醐派の大宝院に伝来したことが、箱書から知られる作品である。現在掛幅に改装されているが、もと六曲一双の屏風で灌頂の具として使用された。各扇に1天ずつ描かれ、それぞれは荷葉座、獣皮座あるいは飛雲上に立ち、頭上の円相内に種子が置かれる。肉身や衣の賦彩はうすぬりで、肉身は細い抑揚のない墨線で描かれ、衣文線には比較的打込みの強い抑揚のきいた墨線が使われている。

 このような形式は、宅間勝賀作と伝えられる京都・教王護国寺本(建久2年・1191)、京都・神護寺本、滋賀・聖衆来迎寺本などと同類のものであり、鎌倉時代中期の絵仏師の手になるものと思われる。


(上) 伊舎那天、毘沙門天、風天、水天

(中) 羅刹天、閻魔天、火天、帝釈天

(下) 月天、日天、地天、梵天


19 伊勢両宮曼茶羅図
   紙本著色 掛幅装 1幅
   縦165.4 横178.7 桃山時代 16C.
   伊勢市 神宮徴古館農業舘



 本図は、一図のうちに、むかって左側に内宮、右側に外宮を配し、さらに上部左右に日輪・月輪を置く。 画面右下には宮川にかかる船橋とみそぎをする人々が描かれ、参宮の始まりを示す。道中は、山田の町並みから上方へ外宮、天岩戸を経て、中央部で下方へ屈曲し小田橋・間の山を過ぎて、五十鈴川にかかる半円状の宇治橋に至る。橋を渡ると内宮、その上には朝熊山金剛証寺、その左には、二見浦と富士山が望まれる。

 泥絵具で描いたと思われる厚塗りの平面的な賦彩、画中の社殿の立体表現や人物の描写の漫画をみるような一種の稚拙感
、それがこの図を特徴づける要因のひとつとなっている。こうした表現上の特徽は、室町時代末から江戸時代初期にかけて庶民階級の間に広がっていった御伽草子の冊子本で今日奈良絵本と称される絵本の手法と非常に似通った要素をはらんでおり、興味がもたれる。

 本図は、明治初年まで宇治の御師のもとに蔵されていたと伝えられ、また、現在掛幅に改装されているが、画面には縦横の一定間隔で折り目が残っており、当初、折り畳んで携行し絵解きの具として使用されていたことが想像きれる。
20 熊野観心十界曼荼羅図
   紙本著色 掛幅装 1幅
   縦147.7 横129.2
   江戸時代 17C.
   津市 大円寺



 熊野三山は古くから山岳信仰と結びついた神仏習合の霊場とされ多くの信仰を集めていたが、三山のひとつ那智山が西国三十三所の第一番に当てられたことも手伝って中世から近世初期にかけて貴賤を問わず多くの参集者を集めた。熊野信仰の普及には先達と呼ばれる山伏たちの全国的な布教活動に預かるところが多かったが、布教活動とかかわりつつ描き継がれた絵画として「熊野量荼羅」がある。

 「熊野量荼羅」は、遺品としては、鎌倉時代から南北朝時代にかけてのものがのこっているが、おおむね、社景に神体や本地仏を布置した図様で描かれている。ここに掲出する「熊野観心十界量荼羅」は、そのような遺品とは異なる。画面上方左右に日輪月輪を配し、その下に人間の誕生から死までを表した半円形の坂道を描く。この坂道には、右の坂下で誕生し、頂上で壮年に達し、降るにつれ老い、やがて死ぬ、人生の行路がそれぞれの世代を象徽させる男女の組合せと、四季のうつろいで表現されている。その下には「心」の字を配し、さらにその下に地獄極楽のさまが展開する。

 このような図柄の、曼荼羅図は、近世初頭元和・寛永年間の成立とみられる「住吉神社祭礼図屏風」の画中画として描かれていることがすでに知られている。画中では、住吉大社の橋のたもとで、ひろげた図を比丘尼が指し示しながら絵解き、女子供がそれを見入る、という場面が描かれる。婦女子を排した山岳霊場のなかでは例外的にその参詣を許した熊野で、山伏とともに布教に多いに預かったのが、熊野比丘尼と呼ばれる画中の比丘尼であり、「熊野観心十界曼荼羅図」(20)は、この熊野比丘尼の布教と密接なかかわりがあるといわれている。本図には縦横に折れたあとが残っており、小さく折り畳んで携行したものとみられ、画中画と同じように、布教の具として使用されたことがわかる。
21 那智参詣曼荼羅図
   紙本著色 掛幅装 1幅
   縦155.7 横160.7
   江戸時代 18C.
   津市 大円寺

22 仏涅槃図
   紙本著色 掛幅装 1幅
   縦154.9 横118.7 江戸時代 19C.
   津市 大円寺



 「那智参詣曼荼羅図」(21)は、熊野三山のひとつである那智大社と青岸渡寺を描き、右上方に那智滝をそして画面下辺の海には普陀落渡海にむかう小舟を描く。

 本図及び「仏涅槃図」(22)は、現在、「熊野観心十界曼荼羅図」とともに一具とされているが、制作年代は、図様から判断しておそらく江戸時代中期から後期まで降るものと思われる。
 (20)

 (21)
27 勢州稲生村三社絵図
   紙本著色 掛幅装 1幅
   縦97.3 横173.6 室町時代 16C.
   鈴鹿市 伊奈冨神社



 伊奈富神社はまた稲生神社とも書き、古くより西宮、大宮、三大神の三社からなり、東西500メートルの神域を有する規模を誇った。所伝によると、創立は古く崇神天皇の時代とされる。当社には平安時代後期の16体の神像が伝えられているが、そのひとつが崇神天皇に擬せられている。三代実録によると貞観3年に正五位上から従四位下に昇叙し、さらに文永11年には正一位の神階を得ている(当社蔵「扁額3面」)。

 本絵図には、左より西宮、大宮、三大神の社殿、三大神の右に隣接する神宮寺の伽藍が描かれ、また、画面下方には現在も残る最古の神社庭園のひとつといわれる俗称七島の池が描かれている。

 本絵図は室町時代後期の三社及び神宮寺の状況を写した資料として貴重である。
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