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図版・解説

牧野研一郎

1  ◎釈迦八相成道図
  絹本著色 掛幅装 1幅
  縦119.4 横84.8 鎌倉時代 13C.
  桑名市 大福田寺



 桑名市東方の丘陵東麓に位置する高野山真言宗・大福田寺は、文亀元年(1501)の大福田寺勧進状に「夫以此寺者 後宇多院御宇、額田部実澄於大神宮依神託受戒忍性菩薩共所草創之也」とあるところから、その創建は後宇多院のころ(1318−21)とされ、当初は福田寺と称したが足利尊氏より大の字を加えられ大福田寺と称するようになった。もとは大福村にあったが、寛文2年(1662)に現在地に移っている。

 釈迦八相とは釈尊の生涯での主要な事蹟、すなわち一般的には下天托胎、誕生、修学、出家、苦行、降魔成道、初転法輪、涅槃の八相をさすが、他にも釈尊の神変・霊験記をくわえて様々な組み合わせがある。しかしその場合でも釈尊の四大事(誕生、降魔成道、初転法輪、涅槃)は必ず組み入れられる。敦煌莫高窟A76窟に釈迦八相を描いた宋代の壁画があり、わが国の八相図はこれに倣ったものとも考えられている。栄華物語には法成寺の扉に八相成道変が描かれていることが記されていて平安期にはすでにこの主題の堂扉壁画があったことが知られるが、現存する釈迦八相図はいずれも鎌倉期のもので、釈迦信仰の興隆に伴い壁画から絹本へと移行したと推定されている。本図は自然景のなかに堂宇を配し、画面全面を用いて下天托胎からから分舎利にいたる釈尊の全伝を細密な描写によって描き、事蹟の傍には短冊形銘を付す。画面右下隅の下天托胎にはじまり、左下隈に四門出遊、中央に降魔、右上に初転法輪、左上隅に涅槃、金棺出現、分舎利におわるというように、近景から遠景への空間的推移と時間的推移とが巧みに構成されている。
5 ◎阿弥陀来迎図
  絹本著色 掛幅装 1幅
  縦65.0 横30.6 鎌倉時代 12−13C.
  津市 西来寺


 天台真盛宗の別格本山として知られる津市の西来寺は、寺伝によれば、慈摂(真盛上人)によって延徳2年(1490)に創建された。志登茂川河口付近とされる小舟の塩屋が草創の地で、その後安濃津町、釜屋町と移り、慶長5年(1600)の戦火によって堂宇が焼尽したため、翌年現在地の寺町に再興された。1945年空襲によってまたも堂宇は焼失し、曾我蕭白筆の襖絵等は灰尽に帰したが、本尊や寺宝の聖徳太子像や本図は戦災を免れた。

 本図は阿弥陀四聖像とも呼ばれるように、横川常行堂の阿弥陀五尊像から竜樹を除いた四尊、すなわち阿弥陀と観音、勢至それに地蔵の三菩薩が来迎する様を描いたもので、S字形に来迎して正面向きとなった構図から通形来迎に対して正面来迎式と分類される。半跏の阿弥陀は来迎印を結び、その傍には宝珠をもった地蔵菩薩が楽坐して侍し、前方右には左立膝した観音菩薩が蓮台を捧げ持ち、左には勢至菩薩が合掌する。肉身部は諸尊いずれも黄で賦彩し、朱線で描き起す。阿弥陀の着衣は精緻な截金で四菱入り七宝繋ぎ文・格子文・立涌文を配する。半伽の阿弥陀の正面来迎や諸尊の面貌、肉身部を黄で賦彩する点などが平安後期の特徴を示すのに対して、その冷たい印象を抱かせる彩色やかたい工芸的な截金文様は鎌倉時代の到来を偲ばせるものとされている。
14 ◎聖徳太子像
  絹本著色 掛幅装 1幅
  縦l12.0 横39.5 鎌倉時代 13C.
  津市 四天王寺



 津市栄町の曹洞宗四天王寺は寺伝によれば聖徳太子の建立という。この・實@がこの地方の古代仏教文化の拠点であったことは、その寺名や、境内から出土した古瓦や裏山の鳥居古墳出土の奈良時代の鍍金押出仏からもうかがえる。

 聖徳太子像は太子信仰による聖徳太子の肖像で、現存最古の作例としては8世紀と推定される、法隆寺に伝来した聖徳太子御影(御物)が知られるが、画像・彫像とも太子信仰が非常にさかんになった鎌倉時代にその多くが制作された。画像の類型としては、太子2歳のおり東方に向い南無仏を唱えたという伝説の姿を表す南無仏太子像、16歳のおり父用明天皇の病気平癒を祈る姿を表す孝養像、35歳のおり勝鬘経を講讃する姿を表す勝鬘経講讃像に大別される。

 四天王寺に伝わる聖徳太子像は孝養像で、髪を角髪に結い、袍の上に袈裟を着けた童形で両手で柄香炉を捧持するという孝養像の典型的なスタイルで、画幅いっぱいに太子を単独で描く。描線はのびやかで、豊かな量感をしめす。津市にはこの太子像のほかに、西来寺にやはり鎌倉時代の聖徳太子勝鬘経講讃図1幅が伝えられている。
15 聖徳太子絵伝 絹本著色 掛幅装 6幅
  各縦154.0−155.8 横95.3−96.2
  室町時代 14−15C.
  津市 上宮寺



 津市寺町の太楽山上宮寺は真宗高田派に属し、寺伝では聖徳太子行宮の址とされ、もとは紫雲寺という律宗寺院であったという。

 聖徳太子への追慕の念は、没後約1世紀を経て編纂された『日本書紀』ですでに神話化きれるにいたり、理想化された超人間的存在として仏と同格化され、平安時代中期以降には聖徳太子を「和国の教主」とする太子信仰が民衆にひろまった。鎌倉時代には仏教の各宗派はいずれも日本仏教の共通の祖として聖徳太子を仰ぎ、自派と太子との関係を民衆にアピールすることに努めた。真宗では宗祖親鸞が常陸国笠間郡稲田の寺院で説法したおりその本尊が聖徳太子像であったことから親鸞の法弟も聖徳太子を尊崇したらしく、現在も茨城県の上宮寺、愛知県の本証寺、石川県の本誓寺など真宗教団の勢力の強かった地域の真宗系寺院には聖徳太子像や聖徳太子絵伝が伝わっている。

 上宮寺に伝わる聖徳太子絵伝6幅は、各幅の画面構成などに若干相異が認められるが、自然の景物の描写に樹木が少なく、細密な太子の事跡の描写や、類型的な表現から、その制作年代は室町時代後期と推定されている。第1幅の図様が岡崎市の上宮寺や福井県三国町の称名寺の絵伝と類似点が多いことなどから、絵伝の制作者や伝写関係、伝播など興味ある問題を内包しているとされる。

第二幅       第一幅

第四幅       第三幅

第六幅       第五幅
16 ◎法然上人絵伝
  絹本著色
  掛幅装 2幅
  各 縦163.6 横124.2
  鎌倉時代 13C.
  多気郡 西導寺



 古代より水銀の産出地として栄えた多気郡勢和村丹生の浄土宗西導寺に伝わる法然上人絵伝二幅は、『丹洞夜話』(神宮文庫蔵書写本)や『西導寺什物国宝縁起』によれば、同寺開山の善誉に帰依していた長井四郎左衛門が両親の菩提のため同寺に施入したものという。

 浄土宗の開祖、法然(1133−1212)の生涯の行状を記した伝記は、法然没後まもなく成立しその後多くのヴァリエーションを生んだが、その絵画化もはやく、室町時代の書写本である善導寺本の本奥書年記によれば、その原本である本朝祖師伝記絵詞(伝法絵)の作られたのは鎌倉時代中期の嘉禎3年(1237)と知られる。法然上人絵伝は絵巻形式のものと掛幅形式のものとに二分され、前者のものとしては先にあげた伝法絵のほか法然上人伝絵残欠二巻(増上寺本)、法然聖人絵(弘願本〉、拾遺古徳伝絵、法然上人行状画図48巻が現存する主要作品として知られ、後者のものとしては光照寺本、妙源寺本、知恩院本などがよく知られていて、その多くが鎌倉時代から室町時代にかけて制作された。

 西導寺の法然上人絵伝は、他の掛幅形式の作品の多くがその構成において絵巻物の発想を踏襲するのに対して、不規則な場面配置による画面構成を特色とする。第1幅は法然上人の前半生が、第2幅は後半生が大和絵風に描かれる。そのテキスト解釈から、西導寺本が伝法絵に多くを負っていることや、法然と親鸞との関係を強調した拾遺古徳伝やそれ以降の掛幅絵伝とは別系統のものであることも指摘されている。


文献

米倉迪夫「西導寺蔵 掛幅本法然上人伝絵について」
『美術研究』316 昭和56年

第一幅

第二幅
17 ◎善信上人絵詞伝 第一巻
  紙本著色 巻子装 5巻のうち1巻
  天地33.3 全長797.0
  永仁3年(1295)
  津市 専修寺



 津市一身田の真宗高田派の本山・専修寺に伝わる善信上人絵詞伝5巻は親鸞聖人の生涯の行状をあらわした絵巻で親鸞入滅の日に行われる報恩講の伝道用に用いられた。善信は師の法然上人がら与えられた名である。親鸞聖人の伝絵は、永仁3年(1295)10月親鸞の曽孫にあたる覚如上人が詞を撰し、詞書を覚如自らが執筆、絵を信州康楽寺の浄賀に描かせ、善信上人絵と題して2巻本にしたのがはじまりである。その後この初稿本は焼失したが、専修寺の善信上人絵詞伝の本奥書、永仁3年10月に覚如が親鸞伝絵の制作を企図した趣旨に続けて「今回歳大呂仲旬第三天又書之」との記述から、専修寺の善信上人絵詞伝が初稿本制作の2ヵ月後に写されたものであることが知られる。現在は5巻本となっているが当初は初稿本に倣い2巻本であったと推定されている。やはり覚加が詞書を執筆した西本願寺に伝わる最初期の善信上人伝絵(琳阿本)に比較するとその画風は構図、描法ともに粗豪な趣きがあるとされる。
24 紺紙金泥法華経 巻子装 7巻
  平安時代 11−12C.
  伊勢市 金剛証寺



 伊勢朝熊岳山頂近くに位置する臨済宗南禅寺派金剛証寺について『伊勢名勝志』は「欽明天皇ノ時僧暁台此山ヲ創開シ天皇行幸且伽藍創造アリ……大同二年僧空海大神ノ託宣ニヨリ此山ニ上リ中興ス」と述べている。初めは真言宗であったが、室町時代、鎌倉建長寺5世東岳文cにより臨済宗に改められた。
 紺紙金字法華経7巻(8巻のうち巻第2が欠巻)は、法量、装館法、表紙絵、見返し絵の様式等から同寺に伝わる般若心経、無量義経と一具をなすものである。その伝来については詳らかでないが、寛延3年(1750)の『伊勢朝熊岳開帳目録』にはこれらが記されていることから、それまでに同寺の寺宝となっていたことが知られる。法華経7巻の各巻表紙には後世に貼付された緑色の題簽に「法華経一 日蓮人筆」と同筆で墨書されているが、現在の表紙の巻次四、六、七、八は本来は各々七、八、六、四であったことが知られる。本文は金字で書かれ、本文料紙の界線は銀泥で引かれる。表紙絵は、各巻に図様の統一はないが、いずれも中国・五代から宋にかけて急速に普及した牡丹唐草文様の影響下に制作されたことが指摘されている。見返し絵は、通例のごとく、巻一の霊鷲山を背景に説法する釈迦を描く序品以下、法華経に説く各品の喩えを描く。仏、菩薩の肉身部には薄く金泥が刷かれることや、印相、姿態、山容の表現は古様を示しながらも、12世紀に多産される定型見返し絵の諸要素をすでに完備し、様式上の和様化もみられることから、その制作年代は11世紀前半と推定されている。


参考文献

 江上綵「新出の金剛証寺蔵紺紙金字荘厳経」『美術研究』314号 昭和55年。
 須藤弘敏「平安時代の定型経巻見返絵について」
 『仏教芸術』136号 昭和56年。

@紺紙金泥法華経 巻第一
天地27.6

A紺紙金泥法華経 巻第三
天地27.4

B紺紙金泥法華経 巻第四
天地27.4

C紺紙金泥法華経 巻第五
天地27.5

D紺紙金泥法華経 巻第六
天地27.6

E紺紙金泥法華経 巻第七
天地27.4

F紺紙金泥法華経 巻第八
天地27.4
25 紺紙金泥無量義経
  巻子装 1巻
  天地27.5
  平安時代 11−12C.
  伊勢市 金剛証寺

26 紺紙金泥般若心経
  巻子装 1巻
  天地27.5
  平安時代 11−12C.
  伊勢市 金剛証寺



 先の法華経7巻(8巻のうち1巻欠)とともに金剛証寺に伝わる装飾経で、その装飾法・表紙絵・見返絵の様式から法華経と一具をなすもの。法華経は写経成仏、女人成仏を説くところから平安中期以降、貴族階級とりわけ後宮において信仰をあつめ、その美意識を反映して、「経とは見え給はで、さるべきものゝ集などを書きたるやうように見えて、好ましうめでたくしたり」(『栄花物語』)と記されたように、美麗な装飾経が作られた。

 無量義経の見返しには、仏菩薩と、その周囲にこれを拝する僧形・俗形の人物が描かれ、その下方には建物と3人の人物が別の情景として描かれる。前者は無量義経説法の図、後者は十功徳品の1シーン。心経の見返しには、中央に般若菩薩、左後方に般若経の守護神・十六善神の三神将、左に舎利弗を描く。手前には水を渡る2隻の船とこれを迎える僧を拝する人物を描いて、波羅蜜多の絵説きとしている。

25 紺紙金泥無量義経

26 紺紙金泥般若心経
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