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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1991 > パリ、写真の首都-アンドレ・ケルテスの作品は語る 荒屋鋪透 写真のエコール・ド・パリ展図録

パリ、写真の首都
アンドレ・ケルテスの作品は語る

荒屋鋪 透

 1968年、雨の東京。ひとりの写真家がホテルの窓から下の舗道を見ている。人々が偶然、路面表示の矢印の方向に進んでいく。俯瞰された傘の行列。この光景はまるで浮世絵を見るように美しい。エコール・ド・パリの写真家、アンドレ・ケルテスが来日した時の作品《雨の日、東京》[fig.1.]である。傘の群衆というモティーフで、前世紀にはエドゥアール・マネが北斎漫画の《雨中の侍》[fig.2.]にヒントをえて、エッチングで《肉屋の前の行列》[fig.3.]を制作している。印象派絵画の写真的要素、例えばドガのストップモーションやピサロの俯瞰構図、カイユボットのトリミングなどが、実は写真以前の絵画伝統にその多くを負っていることを、かつて論じたことのあるカーク・ヴァンドーが近著のなかで指摘するように、この高い視点からの画面構成は、モホリ=ナギやロドチェンコなど前衛的な写真家がはじめたものではない。たしかに「カイユボットの構図は、例えば構成主義デザインの影響下にあると思われる芸術家たちによって、1930年頃に撮影された写真とそっくりのように見える。この1880年の絵画(《頭上から見たブールヴァール》)とアンドレ・ケルテスの《オペラ座通り》(1928年)は、ケルテスがすでにその絵を知っていたという、ごくわずかな可能性をのぞくと、驚くほどの類似性をもっている」(註1)。浮世絵といえば、ケルテスはもう1点興味深い作品を残している。学士院の窓からルーブル宮殿を見た《ポン・デ・ザール》[fig.4.]。時計のローマ数字と針がシルエットになり、外の風景を遮る。前景にクローズアップされた対象が、その後ろにあるものを切断する構成は、広重の《名所江戸百景》[fig.5.](1857年)などに繰り返し登場するように、浮世絵ではむしろクリシェに属している。しかし学士院の破風の時計が古風であるにもかかわらず、その窓からみたパリの眺めがとてもモダンなのはなぜだろうか。《雨の日、東京》でも、ケルテスが縦長の画面を巧みに用いて決めた構図は、不思議に抽象的でありモダンだ。モホリ=ナギが「ニューヴィジョン」のなかで説く、マッスの配合の効果が効いているのだろうか。《ポン・デ・ザール》の場合、その風景を切断するものが時計の数字、記号である点も面白いが、その記号が黒い影として視覚に意味を与えるのは、このイメージがまさに写真によって創り出された現実であることを、誰よりも観者が知っているからだ。後年ケルテスは《雨の日、東京》について、こう回想している。「事物を想像してはいけない。現実が必要とするすべてを与えてくれるのだ。私は東京にいた。その日は雨で、私はちょうど新しいレンズを買ったばかりだった。この人々が通りを横断するのを見た時、ホテルの窓から試し撮りを何枚か撮った。まったく申し分のない構図だ」(註2)。ケルテスの出発点はまず絵画的現実との決別にある。対象を再構築するのではなく、現実の写真的な瞬間に立ち合うこと、それは、ドキュメンタリーとして優れた作品を残した、写真のエコール・ド・パリの重要な側面である。

 写真のエコール・ド・パリ。この言葉を同時代の綜合的な美術の視野に挿入しようと試みた展覧会のひとつに、ポンピドゥーで開催された『パリ=モスクワ』展(1979年)がある。同展カタログのなかで、ロメオ・マルティネは、シュルレアリストと写真のエコール・ド・パリを併置して、マン・レイ、スジェ、ケルテス、アルバン=ギヨ、ブラッサイ、タバール、クルル、ロタール、ジャアン、フロイント、ロニ、カルティエ=ブレッソンらの名前を列挙している。フォトグラフィックな技法を駆使して、「意味するもの」のイメージを模索した写真家たちの作品は、同時代のロシア構成主義やドイツ前衛写真と、はたして明確に区別されうるものだろうか。群衆を見下ろすアレクサンドル・ロドチェンコの視点は、バルコニーを見上げた彼の作品同様、社会変革のうねりを反映させて、モダニズムの写真にひとつの指標を提示した。それは今日もなお、例えばヴィム・ヴェンダースの映画に登場する天使の視点となって受け継がれている(私は、最近米国で開催された『ロシア構成主義』展カタログのなかに、ヴェンダースの映画冒頭に瞬間的に挿入されている、天使の目のクローズアップとそっくりな、雑誌『新レフ』のロドチェンコの表紙写真を見つけた(註3)。そして、機械や建築の部分をクローズアップして新即物主義を予告した、アルベルト・レンガー=パッチュの作品が連想させるもの、それはディーレン・コークがすでに述べているように、物質の基本構造を客観的に図式化した工学図面であり(註4)、その作品群は、ある概念に基づくプログラムに裏付けられている。一方、ロメオ・マルティネが採り上げた写真技法、シュルレアリストが実験して写真のエコール・ド・パリが応用したという、ソラリゼーションやレイヨグラフ、ディストーション、またダブル・イメージをつくるためのモンタージュなどは、実体のない現実、つまり痕跡としての写真の独自性を主張してみせた。だが、そうした刹那的な虚構の映像ならば、モホリ=ナギと同じ美学的な実験とはいえないだろうか。ただドイツのフォト・ジャーナリズムの延長線上にくるはずであった、パリの異邦人ケルテスの作品を仔細に見ると、そこに写真のエコール・ド・パリ固有の資質を発見できるかもしれない。

 1928年、シャンゼリゼ劇場のサロン・ド・レスカリエで開催された『第1回写真アンデパンダン・サロン』の展示作品のなかで、最も重要な写真となった、ケルテスの《フォーク》について、サンドラ・フィリップスは『パリとニューヨークのアンドレ・ケルテス』展(1985年)カタログにおいて、ニューヨークの写真家ポール・アウターブリッジの静物写真と比較し、美的な作為的構成を施されたアウターブリッジ作品が、常に広告としてアピールする要素をはらんでいるのに対し、抽象的でありながら、私的な晩餐に使われた食器のもつ本質的機能から逸脱することのない、ケルテス作品の純粋性に言及している(註5)。皿に残されたフォークは食事の終わりを暗示しているが、それは構成主義者がよくやるようなユートピアのシンボルではなく、9×12cm感光板を用いたカメラ、フォクトレンダー・アルピンにより、クローズアップされた具体的で個人的な記憶なのである。写真史上、この『第1回写真アンデパンダン・サロン』は、マン・レイ、クルル、ホイニンゲン=ヒューネらの実験とアジェの回顧などを同時に行い、ドイツとフランスの写真の相違点を明確に提示してみせたのだが、写真のエコール・ド・パリは、ドイツ前衛写真ほど、雑誌というメディアのもつ美的潜在性に固執してはいなかった。その作品はより個人主義的であり、機械の美しさに熱心に傾倒するでもなく、真実の視覚の道具としてのカメラを信奉していた訳でもない(註6)。ケルテスは、むしろ意識的に機械的イメージを避けている。《リュクサンブール公園の椅子》(1925年)から《フォーク》まで、つねに身のまわりにある対象こそ彼の素材だ。例えば、《カフェ・デュ・ドーム》の喧騒。ケルテスがブダペストからパリに到着して間もない頃の撮影で、ヘミングウェイの小説で有名なカフェの賑わいが伝わってくる。中央のテーブルでは、ロシアの画家マリー・ヴァシリーエフとハンガリーの建築家エルネ・ゴールドフィンガーに、ふたりの間にいる男性、画家ラヨシュ・ティハニが熱心に語りかけている。ここには、ロラン・バルトのいう文学性、それもルポルタージュとしての文学がある。「モンパルナスにあるカフェ・デュ・ドームはみんなの溜り場だったが、私も撮影に出掛けない時はそこに行った。それは生活の四分の一を占めた。宿には寝に帰るだけだ」(註7)。1926年初頭、友人のひとり、アントワープ出身の詩人ミシェル・スーフォールの紹介で、ケルテスはモンドリアンと会った。スーフォールはモンドリアンの評伝で知られているが、「瞬間的なものは不朽である」という戯曲を発表するなど、当時の前衛美術の実験と積極的にかかわっており、彼を通じてケルテスは、レジェ、オザンファンなどの芸術家や詩人ポール・デルメを知る。デパール街26番地にあったモンドリアンのアトリエには、当時、多くのジャーナリストが訪れており、『デ・テレグラーフ』紙(1926年9月12日付)には、次のような画家自身のコメントが掲載されている。「女性の上品さと愛らしさを象徴するようななにかが欲しかったわけです。でも、いいですか、それは造花で、しかも自分の部屋から不毛な自然主義的な緑を取り除くために、花びらを白く塗ったのです」(註8)。ケルテスは《モンドリアンの家で》(1926年)において、モンドリアン絵画に潜む神秘性を鮮やかに暴露してみせた。「私は彼のアトリエに行き、その絵画の精神を直観的に写真に定着してみた。彼は、とことん単純化する。構図はアトリエのシンメトリーで決定した。花のさした花瓶があったが、それは造花だった。彼の手で美しく彩色され、とてもよくアトリエにあっていた」(註9)。対象の本質を直観的に把握し、細部を巧みに取り込みながら、物語性を内包する映像をつくる作業は、同郷の彫刻家イシュトヴァーン・ベーティのアトリエの椅子の踊り子、マグダ・フェルシ・トナーの一瞬の動きを捉えた、《おどけたダンサー》にも見られる。モデルのポーズは、近くにあるベーティの彫刻に呼応して抽象的である。ベーティはヨージェフ・チャーキとともに、パリで制作を続けたハンガリー出身の彫刻家だが、ケルテスには、ラヨシュ・カシャークやモホリ=ナギが寄稿した、ハンガリーの前衛雑誌『MA(今日)』と関係した画家、ジュラ・ジルツァーやティハニ、ノエミ・フェレンツィなど多くの同郷の芸術家の友人がおり、彼らのポートレートが残されている。

 1928年、ケルテスはハンガリー出身のジャーナリスト、ジェルジ・ベーレニから、祖国の詩人エンドレ・アディのパリ時代の足跡を辿る仕事を依頼された。ベーレニはアディの評伝を執筆していたのだ。アディは、ハンガリーの国民的詩人であり、前衛美術の紹介に努めた雑誌『ニュガット』の創刊(1908年)に尽力している。その詩集は、ゾルターン・コダーイの歌劇《ハーリ・ヤーノシュ》で知られるシャーンドル・ペテーフィの詩とともに、今世紀初頭のハンガリーの民族運動に強い影響力をもった。アディは、1904年と1906年から7年にかけてパリに滞在している。ケルテスの写真にベーレニはこう記す。「アディの詩は、パリのカフェのテーブルで書き始められた」。1900年当時ブダペストでは、日刊新聞だけでも21紙を数えるほど、ジャーナリズムの活動が盛んであり、1924年にケルテスの写真を掲載した『エルデケス・ユジサーク』紙には、アディを筆頭に多くの文学者が寄稿している。若きケルテスは、雑誌『ニュガット』編集に携わるレアリスムの小説家ジグモンド・モーリツの作品に共感を覚えていた。ケルテスの作品のいくつかには、ブダペスト精神ともいうべき、世紀転換期に育まれた民族意識が反映されている。少年時代、彼は家族に連れられて平原の村で一夏を過ごしている。ティサ河から遙か東に広がる大平原プスタ。そこに点在する、アカシアの林と白壁の農家、そして跳ねつるべ井戸のあるタニャの風景は、初期の作品《プスタ》(1914年)に定着された。だが、ナジバーニャ派絵画を想起させるような、この抒情的なハンガリー時代の作品においても、ケルテスの写真に一貫するドキュメンタリー性は、パリ時代の作品と同じである。「ハンガリーのピクトリアリズムの写真家は、ケルテスと同様に、農民と彼らを取り巻く環境、貧困、そしてロマンティックな古き良きブダペストを表現した。しかしケルテスの作品は、はじめからピクトリアリストとは異なり、今日では一般にドキュメンタリーと呼ばれる、より自然でリアルなものになっている」(註10)。1925年9月、ケルテスは第1次世界大戦後のブダペストから汽車でパリに向かった。戦後の混乱のなかで、もはや『エルデケス・ユジサーク』に写真を載せることはできなかった。無二の友人であった従兄のレオポルド・ホフマンは死んだ。それはパリに出るというよりも、祖国を離れる理由となったようだ。1925年のパリでは、アレクサンダー三世橋とアルマ橋にはさまれた河岸で、装飾・工業美術国際博覧会が開催されており、アール・デコが全盛となっている。

 ケルテスのパリの友人には、「北ホテル」の作家ウジェーヌ・ダビ、またエコール・ド・パリの画家たちの評伝を書いた作家、フランシス・カルコやピエール・マッコルランらがいた。彼らはモンマルトルのボヘミアン文学者であり、1920年代から30年代のパリの表の賑わいとその裏の淋しさを綴っている。マッコルランはケルテスを「写真の詩人」と呼んだ。「ケルテスの作品における気紛れな街路の喧騒は、中央ヨーロッパの趣味を非常にうまく採り入れながら、影と光の神秘な諸要素を、ロマンティックな特徴を引き出して、説き明かしている。もし我々が自分たちの時代の文学史のなかに、ヨーロッパのロマン主義と〈社会の幻想〉に捧げられる、新派の非常に明快な痕跡を残し、普遍的な作品を生み出したとするならば、そこに、ゲオルゲ・グロッスとマズレールのような〈デザイナーの作家〉と、マン・レイやケルテスのような〈写真の詩人〉の名前を付け加えねばならないだろう」(註11)。後年ケルテスは、彼の作品がよくシュルレアリストと結びつけられるという質問に対し、自分はレアリストであると否定しているが、フォト・ジャーナリズムが確立する時代の、パリの証言者のひとりとして、その言葉のもつ意味は深長である。ブラッサイやカルティエ=ブレッソンに継承される、そのドキュメンタリー性には、むしろ映画でいうところのドラマトゥルギーを感じさせるものが潜んでいる。事実、エイゼンシュテインは早々とケルテスの才能を見抜き、自身彼の写真に納まっている。「ロシアの映画監督エイゼンシュテインがパリを訪れた時、驚いたことに、私に会いたがっていると聞いた。………この精力的な男は来るなり、『ヴュ』誌に掲載された私の4枚の写真について語った。彼はそれに大変感動しており、スクラップ帳に集めていたのだ。私達はとても気があった。私は、モンパルナス通りのわが家のカーペットに彼を座らせ、写真を撮った。それはチェコスロバキア製の絨毯だった」(註12)。写実のドラマトゥルギー。エコール・ド・パリの多くの映像の詩人たちの作品を見る時、そこには単なる記録写真以上の何かが感じられる。前衛的な実験の結果であっても、その個人的で私的な記録には、哀愁の漂う詩情、神秘な抽象性がつきまとっている。もう一度、同時代の写真のなかで、そのファディッシュなモダニズムの映像を楽しんでもよいのではないか。
註1 Kirk Vamedoe, A Fine Disregard:What makes Modern Art Modern,Harry N. Abrams,New York,1989,p.220.
fig.1
アンドレ・ケルテス
雨の日、東京
1968年


fig.2
葛飾北斎
北斎漫画(初編)より
雨仲の侍
1814年(文化11)


fig.3
エドゥアール・マネ
肉屋の前の行列
1870年


fig.4
アンドレ・ケルテス
ポン・デ・ザール、パリ
1932年


fig.5
歌川広重
名所江戸百景より
高輪うしまち
1857年(安政4)
註2 Kertész on Kertész,Abbeville Press,New York,1985,p.105.
註3 Art into Life:Russian Constructivism 1914-1932,Henry Art Gallery,University of Washington, 1990,p.148.
註4 Van Deren Coke, La Photographie d'Avant-Garde en Allemagne:1919-1939,Philippe Sers,Paris, 1982,p.27.
註5 Sandra S.Phillips,“The Years in Parjs”,in exh.cat., André Kertész:Of Paris and New York,The Art lnstitute Of Chicago, 1985,p.36.
註6 ibid., p.36.
註7 Kertész on Kertész,p.48.
註8 『モンドリアン展』カタログ、西武美術館ほか、1987年、127頁。
(「ビート・モンドリアンを訪ねて 三つの会見記」五十殿利治訳)
註9 Kertész on Kertész,p.53.
註10 .Sandra S.Phillips,“The Years in Paris.”,p.21.
註11 Christopher Phillips ed., Photography in the Modern Era. European Documents and Critical Writings,1913-1940,The Metropolitan Museum of Art and Apeture,New York,1989,p.29.
註12 Kertész on Kertész,p.57.

(あらやしき とおる  三重県立美術館学芸員)

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