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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1993 > 奥谷博の絵画 陰里鐵郎  奥谷博展図録

奥谷博の絵画

陰里鉄郎

かつてぼくは,つぎのように書いたことがある。

奥谷・獅フ作品の前にたつと,ときに眩暈(めまい)のような,陶酔とも感動ともつかない名状しがたい気分におそわれることがある。

いまもぼくはそうした感じをうけつづけているが,そう感じはじめたのはいつのころからであったろうか。画集をくって想いおこしてみると,それは多分,1960年代後半,奥谷が《ベランダの花》や《河豚と蝉魚》といった作品を発表しはじめたころからであったようだ。

この感じはなんだろうか,どこからくるのだろうか,と思いながらすこしく時が過ぎて,あっ,あのときの感覚だ,と思い当ったものである。いささか私的なことではあるが,それは,少年のころからすこし青年になりかけたころ,夏期の休暇になると海水パンツをはいたお腹のところに小さな網袋を結びつけては水中眼鏡をかけて海のなかに潜っていたときに感じていたものだと。もちろん素潜りで,栄螺や鮑をさがし求めては海中を泳ぎ回ったり,ときにヤスを持っては魚を追いかけ,また立てた網のなかへ必死になって魚を追い込んだりしていたとき,その海中や,海底で受けた感じ,その感じが奥谷の作品をみていると一瞬にして甦ってきているのではないか。あのときの視覚と聴覚,いや体の全ての部分で感じてしまう感覚に似ている。

空中とはすこし異なった光,そして沈黙。にぶく霞んだような水中の光は,それでも澄んで見える。無音のなかにいるのに,どこからともなく聴えてくる「カチーン,コチーン」とでも表すしかない音。身体のどんな細部をも包みこんでいる液体は,これもまた動いていないようでいてかすかに感じとれる流れのような動き。これらを意識したとき,ゾーっとするような快感のようなものが身体を貫き,頭脳をしびれさせる。ボンヤリしているようでいて,しかしすべてが明晰に視覚に映じているように感じられる。-奥谷の作品からうける感じはこれに似ている,とぼくはおもっている。

誤解のないように断っておかねばならないが,前記のような奥谷作品から受ける感覚は,奥谷の画面,例えば《詩海》(1983)のように,ヤスを手にした画家自身が画面に描きこまれていたり,数多くの魚たちが描かれていたりすることからの単純な連想だけではないということだ。

画面に登場しているモチーフは,たしかに観るひとの感覚を刺戟し,さまざまな想念を喚起させたり,物語りを連想させたりする。それだけでも興味深いものではある。奥谷の場合,サメやタコやエイやタチウオといった沢山の魚類や珊瑚など,海中の生物が数多く登場し,岩や小石の山といったものも,疑いもなくこの画家の遠い記憶につながり,過ぎさった日への回想もない訳ではないに違いないが,それらが追憶や回想といった言葉の響きからくるような甘美なものではなくなっているということである。したがって,郷里や,海洋の生物や事物ではないモチーフ,例えば鳥であれ,花であれ,髑髏であれ,人物であれ,風景であれ,それらのモチーフで構成された奥谷作品の画面から受ける感じもまたさきに記したものと同じようである。

奥谷の画面がかもしだしているこうした感覚的なるものは,もちろん奥谷の過去の体験,彼の人間形成に深くかかわっているに相違ない。

奥谷は,1934年(昭和9)に高知県宿毛町(現,宿毛市)の農家に生まれている。奥谷はしばしば「その土地の思いがいつも作品に宿るようにおもう」と語っているが,その土地とは,奥谷によればつぎのようである。

私の生まれた土地は,現在でも(-1989年)鉄道の走って
いない四国の最西端にある,豊後水道に面し,足摺宇和
海国立公園に指定されている美しい海岸線と濃緑の山並
みに包まれた宿毛という町である。都会からの観光客の
中には宿毛をヤドケとかシュクモ等といっている人もい
るが,正しくはスクモである。―足摺岬に近く,西に
宿毛湾をひかえ,市街地にそって松田川が流れ,濃緑の
荒瀬山,琴平山に包まれた,“我が心のふる里“と言える
閑静な町である。

 こうした「閑静」で「美しい海岸線と濃緑の山並み」をもつ地域は,いまも日本の各地にあるといえばそれまでのことであるが,そのなかで体験したかずかずのことが,ナイーフなままで自己の深部に沈澱し,かつ肉体や精神に素直に,あるがままに息づきつづけているところにこの画家の特質のひとつがある。

奥谷が初めてこの生まれ育った地を離れて上京したのが,1953年(昭和28),18歳のときである。初めて見た大都会,このときのことを奥谷は「腰を抜かさんばかりの驚き」であったという。ついでいえば,67年(昭和42),第一回の文化庁芸術家在外研修員として初めてヨーロッパヘ赴いたとき,「フランスヘ行ったときの第二の驚き」とも語っている。現在では,こうした言葉はあるいは誇張したものにも聞えるかもしれないが,現在のようにリアル・タイムで映像伝達がなされる状況とは異なった時期の地方青年,いってみれば田舎者にとっては,決して誇大な表現ではない。地方出身,それも僻地といっていいような地方からやってきた青年にとって東京という大都会とそこの人びとは驚異の存在であり,地方青年にとっての闘いは,まず驚異を克服することにあったはずである。

国外研修のとき,奥谷はどうやら積極的にはなれず,すすめられるままにいやいや応募したようである。こうした地方青年が否応なくもたざるをえなかった心情,それを,これもまた否応なく受け入れながら自己を形成していく過程,そのなかで自己を練磨していくほかなかったに相違ない。このように書くと地方出身青年奥谷は,きわめて消極的な人間のようになってしまうが,事実はそうではない。上京後の芸大入学,そして林武との出会い,フランス留学,すべて結果は実り豊かなものとなっている。いずれもとりたてて特異な体験ではないが,奥谷は,自己をつつむ状況の変化をあるがままに受けとめ,それを取りこみながら素直に独自のものにしてしまい,そこから能動的に自己を創りあげてきている。

奥谷の初期の作風の一大転換にその好例をみることができる。

1964年(昭和39),奥谷は東京芸大油画科助手の職にあった。このとき,望んだ訳ではなかったが壁画研究室担当となった。そしてフレスコ画の模写をすることになる。模写の対象となったのは,ルネッサンスの画家ウッチェルロの三連パネル画《サン・ロマーノの戦い》(ロンドン,ナショナル・ギャラリー蔵)であった。その模写も原作からではなく小さな複製図版によってであった。この場合も,奥谷はどうやら好んでこの仕事に携わった訳ではなかったが,一年半にわたるこの作業から得たものが奥谷に重要な変化をもたらしたのである。

《横たわる裸婦》(1961)《坐せる女》(1963)といった作品にみられる林武やビュッフェの影響をおもわせる画面の絵具の厚塗りからの大転換がなされることになる。それは絵具の画面における量の問題だけではなかった。ウッチェルロの画面から透視図法の遠近表現や,林立する槍やその変化。それらが生みだす幻想的効果,奥谷は自づとそれらを身につけてしまったようにおもわれる。かくして《桐の木の下》《針千本》(1965)が生まれ,その後の奥谷独自の様式が形成されてきている。

遠い過去の体験も,近く新しい経験も,前者は自己の内部からあらたに甦り,後者の新しい経験は新しい外部としてあらたに彼の内部を照射する。奥谷のナイーフでセンシブルな感性は,それらを自在にわがものとした。

奥谷のアトリエを覗くと,窓際の棚の上には髑髏が三つ並び,その脇に手の模型がにょきにょきと立っている。壁には大凧があり,そのほかこまごまとした彼の画面に登場する小物があったりする。ぼくには,これらモチーフに対する奥谷の嗜好はよく理解できたとしてもそれが「奥谷」だとはおもえなかった。さきにあげた海中生物やトカゲや異様な鳥やアトリエにある小物の類は,一見,不吉で不気味な感じをもたせるものばかりであるが,それが作品の画面となるとそうでなく清澄で,夢幻的な,詩的な魅力をもったものとなる。この魔術を実現させるのは,おそらくは画家のポエティックな想像力と思想,そしてそれを支えている卓越した技術とであろう。遠い記憶も豊かな想像力によってあらたなリアリティを獲得しているのである。奥谷の想像力は,モチーフの不気味さとは全く対位するところから,つまりもっとも健康で健全な地点から発している。そのことは,奥谷が絶えずいだきつづけてきている主題,あるいは思想によくうかがえよう。

奥谷の作品は,一般にいうところの具象絵画というものからはもはやはるかに異なった地点にある。たしかに描かれている個々の題材やモチーフは具象的ではあるが,近年,濃厚にみられる彼の主題は,どうやら「生」や「死」,森羅万象にひそむそのことにあるようにぼくにはおもわれる。「死」を描くことは「生」を描くことであり,その逆もまたそうである。奥谷の仕事は,さきにかずかずあげてきたようなモチーフを鮮烈な色調で濃密に画面をうめつくして,われわれにとっては限りなく不可解な生命の神秘の世界を描きだそうとしているのではなかろうか。

ある時期からの画面に,奥谷は自画像を描きこむことが多くなった。その像は,球面の鏡に映る像であったり,歪んだ形であったりする。彼にとって「外部」が,彼を照射し,それを彼自身がとらえようとでもしているかのようだ。そして画面の全部分に奥谷自身がただよっているような感をぼくは感じさせられる。

それゆえであろうか,この画家の自然観,宇宙観,生命観が,そのままこの画家の画面であり,それは,奥谷が,絵画で表すしかない世界なのであろう。

(三重県立美術館長)

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