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美術館 > 刊行物 > 所蔵品目録 > 作品目録 5 村山槐多・関根正二 スケッチ類 岡田文化財団寄贈作品集2

作品目録

凡例

1. 目録のデータは、カタログ番号、作家名、作品名、制作年、材質・技法、寸法、書き込み、来歴、展覧会歴、文献の順である。
2. この目録の解説等一部は1990年に刊行した『岡田文化財団寄贈作品集』を使用した。
  目録執筆者中二名の現在の所属は以下の通りである。
  中谷伸生:関西大学文学部
  荒屋鋪透:株式会社 ポーラ化粧品本舗美術館設立準備室

村山槐多 素描・詩原稿  →一覧

村山槐多の生涯はわずか二十二年だった。のこされた作品はおおくないし、とりわけ油彩の作品はすくないから、成長の跡をたどろうとすれば素描にたよるしかないわけだが、しかしそういった事情をかるがると超えて槐多の素描作品は時代に左右されず、それ自体のちからで他にかえられない水準にたっしている。そのためにはたとえば、《瓶のある静物》や《自画像》《友人像》《欅》、それに三重県立美術館蔵の《信州風景》などを思いだすだけでよくて、そのまえにたてば技術の巧拙ということをほとんど意味をもたなくさせてしまう、ちからの充実の頂点から頂点へかけて勢いよくはしりつづけるエネルギーをうけとらないでいられない。みたあとにのこる充電させられたような印象にはなにか圧倒的なものがある。

もっとも三重県立美術館が1992年度に一括収蔵した「素描・詩歌等原稿」は、それとはちょっと趣を異にする。素描のこととして、1915年から死の年である1919年までの幅をもつこれらは、そのかなりな部分が罫線のあるノートにえがかれていることからもわかるように、発表を前提にしたものというよりも、槐多のより私的な領分に属するものといっていいだろうか。

「槐」のサインがあるものもないものも、ふと思いついて筆をとってみたといった風に気どりがないし、ひまつぶしにペンをはしらせたのかもしれないとかんがえると、こっちも気軽になるから、槐多に親しみたいひとにとっては、かえって都合がいいかもしれない。ひとつ例をあげてみようか。和服姿でたつ若い女のすぐ右にくっつくようにして、その何倍かのおおきさで顔だけえがいた絵は《着物の女と女の顔》と題してあるのだが、おなじ画面のなかに槐多がかきこんだ「禁酒禁煙禁色」などはおもわず微笑せずにいられない文句なのである。なぜというと、槐多をすこしでも知るひとにとって、これはもうなんどか耳にしたことばの、ああまたいっていると懐かしささえ感じさせる、いわば常套句のひとつなのだった。


そこで僕は神様に(1)アルコール(2)ニコチン(3)□□を 十年間絶ち申した。(山本二郎宛書簡 大正3年5月)

第二に、霊を曇らせる一切の行為を禁ずる事、例せば欧酒、喫煙、耽色等。(『日記』大正6年5月14日)

三、興奮する食物飲料の絶対禁制、即ちアルコール成分の禁。四、煙草の禁制。…七、色欲の絶対禁制。
  (『日記』大正7年 9月12日)


いったい自己を信じきった傍若無人のわがままがゆるされる天才とつたえられる槐多が、じつはしょっちゅう反省をくりかえしていたのは意外といえば意外だが、過去にばかりこだわっていたわけではない。この反省はいつも万物成新の誓い、新生の誓いと密接にくみあわさっていたということもわすれてはならない。それはたとえばこんな風になる。


僕は全体として一新しさうだ。(山本二郎宛書簡 大正3年5月24日)

自分の新生は始まるのだ、過去をすつかり捨てた、…(『信州日記』大正4年10月)

裸になって自らを整理し新しくやり出すべき時はこの時だ。自分はやらう。真実にやらう。(断想 大正6年)

自分は最早や画工でも何でもない一箇の人間、何も知らぬ一人の男
  子に過ぎぬのだ。今夜自分は生れ落ちたと同じだ。(『日記』大正6年5月14日)


だからあるべき未来にむかってのこの反省と誓いは、もっとひろい空間とふかい時間をとった文化人類字の相のもとでみつめなおすと、とたんに「死と再生」という神話の輪郭がすがたをあらわしてくる。しらずになんどもちいさな神話を模倣するちいさな神である槐多のすがたが、といってもいい。

しかし、それはそれとして、もういちど素描のほうにもどるときである。すると女、とりわけ裸婦をえがいたものがおおいのがまづ目につき、しかもきわどい絵がまじっているいっぽうで、性器をあらわにした男がしゃがんだ図もある。レオナルドやデューラーのそれのような人体の造形と均衡の探求なんかではなく、これらはもっと暴風の如くかれを襲って去る青春の性欲そのものがかかせているのがたしかなのに、そういうことに常の、うしろめたさを感じさせなくててらいもみせず露堂々としているのはなぜか。おもしろいのはここである。たんに絵がうまくないからというようなはなしではない。ここでぼくらがつきあたるのは、かくすことを恥じる、或いは絶対にかくさないという村山槐多の生涯をつらぬく倫理ではなかったか。反抑制のエチカ。ぼくらはすでに中学時代の槐多が一人の美少年に恋し焦がれたという事件をしっているし、だからといって女性を避けたわけでもなかった。ようするに男にも女にも恋したのが槐多であるというか、愛の対象に男女の差別などないということをあえていいつのったのが槐多だったという気がする。ちかづくのが危険な性的倒錯の怪物とみせかけて、じっさいのかれの頭を領していたのは、すべての価値を足げりにしたがるニ-チェの破滅的世界愛よりも、「両性具有」のユートピアをかたったプラトンをこえるプラトン的恋愛にちかいというのがただしい。みずからデカダンに酔ったひととあざむきつつ、じつはデカダンの淵から半歩しりぞいて暗く深いその水面を意外に醒めた眼でみつめていた気配がじゅうぶんだ。ぼくらがかれに不可解な深淵をみるとき、それはかれにとっても不可解だったとかんがえたほうがいいので、かれはただ性急にその不可解をすてたり否定したりしなかっただけだ。なぜかとかんがえると、そのときはじめて、槐多的せかいの奥の奥で光をまつダイアモンドのような、どうやら絶対的な生の肯定とでもいいたい命題がみえかくれする。性欲もまたその例外ではなくて、無上光のもとでは、善悪を撥無するそのおなじひろくふかい「諸」の手ですくいとられ、やわらかに肯定されるなにかであることを、漠然とではあるが了解するちからにめぐまれていたほど、かれは早熟でかつ聡明だったんじゃないだろうか。

しかしそこへたどりつけばもう藝術さえいらなくなってしまうかもしれないそんな絶対の肯定が槐多におとづれるまえに、貧乏と病気と失恋がかれを雁字がらめにして、ついにそれは弱音ということを知らないはずの槐多をして「運命」とつぶやかせ、無念さがにじんだ晩年の詩をかかせるにいたるのである。三重県立美術館収蔵の村山槐多詩原稿類のほとんどはこのはやくきすぎた晩年のもので、そんな苦渋と諦観の調べがいたるところにひびいている。


健康は私にとつて小さい油壺持つラムプ
  のその明るさだ.炎の色だ.
  油はじきに尽きる
  油の量を私は知る            (詩『自ら私は腕を見、…』)

一切は墓場の上の幻だ
  私のやる事は
  私の生は
  みんなそれだ

私は何も怖くない
  私はその底それ自身
  虚無だ                 (詩『私は死を怖れない』)

ほんとの事はただ一つ
  それは 死だ
  一切はその上の幻だ.花火だ.けぶりだ     (詩『ほんとの事は…』)


けれどかれがみずからを「無」とみなすとき、その強いられた無をどう受けいれるかのこころの工夫は、たとえば『戦艦大和ノ最期』や『わが命月明に燃ゆ』の著者のような太平洋戦争で健康な生命がとつぜん絶たれる運命にであった学徒たちの落葉帰根の思想と或いはつうづるものであったかもしれない。ようするに、自分はおちてゆくいちまいの葉にすぎないとして、枝から幹へとさかのぼってゆくことができるその樹木は依然いきつづけるのであり、又それをうけとる大地もまたさらにおおきな生と死の循環のなかにあるということを信ずることである。槐多のばあいこの樹木にあたるものはとりわけ「愛」であった、とは、かれじしんが死をうけいれるしかなくなった晩年に、やっと自分というものが心底どういう出来であるかということをすなおに認めたということでもある。


私は愛で動く
  愛が私をあやつる             (詩『電車は電気で走れ』)


残念ながらこの詩は三重県立美術館所蔵の詩原稿にははいっていないけれど、そのかわりに、《稲生氏へのラブレター》《ピンクのラブレター》があって、これは詩と書と画それぞれの要素が他をたすけ、よってもって槐多の為人をこれ以上はないあざやかさで示しているとみえる。そうそう、かれの親友のひとり山本二郎がかいた追悼文のなかにはこんな記述もあった。「死ぬ少し前にもまだⅠ少年の古い記憶をたどつて届ける宛もない手紙を書いて寂しい心持ちを独りなぐさめてゐたらしい。」(山本二郎『槐多の初恋』)いまこの山本の証言がただしいとすれば、制作年不詳となっている《稲生氏へのラブレター》《ピンクのラブレター》のうち、内容からみてそれにあたりそうなのは《ピンクのラブレター》のほうで、そうなればこれは大正7年末から8年にかけての作品ということになる。いまおもわず「作品」といってしまったが、花火のように夜空に噴水がうちあがり赤い月がのぼる公園のベンチに男がすわっている。ピンクのうてにピンクをかさね白の水彩で罫線をとったこのラブレターをしめくくる「さらばまた 赤鬼より」という文句なども、これが晩年の作とみればなかなか意味深長であるし、なによりこのピンクは文句なしにうつくしくて、これこそ槐多なりとかたっている。

(東俊郎)

関根正二 スケッチ帖他   →一覧

村山槐多と関根正二はしばしば並べられて比較される。村山は1896年(明治29)に生まれ、1919年(大正8)年に逝去した。いっぽう関根が生まれたのは1899年(明治32)で、亡くなったのは村山とおなじ1919年、槐多に遅れることわずか4カ月ほどの6月16日のことだった。彼らはほとんど同世代を生きたので、しかもその短い生涯の晩年をともに東京ですごしている。共通点はまだまだあるが、なかでもっとも目立つのはどちらも独学の画家だったことだろう。このことは当時の社会に瀰漫していた藝術上の「天才」概念を、かれら二人に容易にうけいれさせる下地となって、一種奇矯なふるまいと、その原因とも結果ともなった夭折とにむすびつき、やがて大正の洋画界を彗星のようにかけぬけていったものへの天才神話がうまれてゆくことになったのである。

もちろん違いはある。たとえば、関根はたしかに小説をよむことは好きだったけれど、文章によって自在にこころのせかいを表現することはできず、知的でさえなく、かれの才能はもっぱら絵筆をふるうことに限られたのに対し、村山槐多のほうは、有り余る才能にかえって戸惑っている感さえあるとみえるほど、すべてに早熟で、傍若無人なふるまいにもかかわらず、なによりも聡明な知性の印象をさいごにのこす。槐多にくらべて関根の頭脳はより混沌としていて、それゆえ神秘にひかれる傾向がある。いまこれをいいかえて関根には神があり、村山槐多には神がない(とは厳密にはいえないけれど。晩年の槐多の詩にしばしば「神」ということばがあらわれるのはじじつなのだから。しかしそれは関根とくらべてもきわめてブッキッシュな「神」であり、かれ自身がいうように「わが神はわれひとりの神」なのである。)といっていいだろうか。もっともこのばあい、神というのはもっぱらキリスト教のそれをさすのだけれど。


神は目を開かせた、力を認めた、

人間を仲宿に、神を表現せんと努力すれど、神は俺を罪有る者と俗界に放逐せり。

神よ、私の心を何時迄も静かさと、努力の力を続けさせて下さい。どうか願います。

のよさんと云ふ女をなぜか、神は幸なる日を恵まぬかと、私は日頃思ひ増さるのです。

人間の仕事生ける吾等地上の動物総て、神其の物の創造物、小さ
  い人間が育ちの人間界で造た、卑な物共の仕事とどれだけ隔りが有
  るか。


と関根がかきあぐねる神ということばの背後にたちあらわれてくるのは、ギリシア・ローマのでも日本古来のでもなく、脱亜入欧をめざした近代日本に西洋からやってきたGOD以外のなにものでもないだろう。しかしおよそキリスト教とは無縁の環境に育った関根はどこでイエスの教えと接触があったのか。考えられるひとつは河野通勢との出会いである。関根が放浪の旅の途次信州長野で河野通勢に宿を借りたのは1915年のこととされる。かれにみせられたレオナルドやデューラーの画集と、自身のペン画はそれ以後の関根のデッサンを一変、とまではいかなくても、そうとう変化させたはずなのだが、それとおなじほど重要なのはこの河野がギリシア正教の洗礼名までもつ信者だったことである。キリスト教の信仰を画集にのったヨーロッパの宗教絵画を手引きに熱っぽくかたるのを聴く関根にとって、「宗教」と「藝術」は、どちらがどちらと区別がつかないひとつの大きな魅力的なせかいと映ったはずである。さらにこの前後から知遇をえた画家のひとり上野山清貢・素木しづ夫妻の感化をかんがえていいかもしれない。上野山はクリスティアンだったし、関根がひそかに恋慕していたしづが亡くなったときの葬儀会場は霊南坂教会だった。

しかし、関根がほんとうに惹かれているのは宗教ではなくやはり藝術なので、それはキリストや釈迦をこの世でもっともすぐれた「驚くべき藝術家」なのだと、友人への手紙のなかで漏らしていることなどから想像される。有島生馬が関根を評して、「口数少なく沈鬱で吾々に対してははにかみ屋だったが、一見、精神的な深い瞑想にひたっている種類の人たることが感じられた。」とかたっていることをあわせてかんがえると、自らを人なみ以上にこの世の悲しみを背負っているとみなした関根にとって、その観念的なところも入眠幻覚的なところもふくめたすべてを掬いとってくれる存在としてはキリスト以上のものはなかったのであり、さらにそのキリストが藝術家だとみなすことができれば、かれの慰めはいっそう深くなるはずであった。もっというと、青春特有の性欲と過剰な空想によって苦しめられていた女性への思いを、マリア信仰にも似た聖なる愛へ昇華させるための触媒になったのも、関根のなかでふくらんで、もはやキリスト教の神とは異質なものに変化してしまっているかもしれないその神への意識だった。《信仰の悲しみ》はそのもっともいい例であるが、他にも《神の祈り》とか《女の顔》とか《慰められつつ悩む》などに関根正二の内面のありどころが示唆されている。

かれが夥しく描いたはずなのに、わずかしかのこらなかったデッサンのなかにもその痕跡をとどめたものがある。たとえば、「暗き内に一点の光あり 其れを俺れは見て居る神を知る人は或る感情に俗界に通俗な風姿方をする 此れはだ作」という書込がはいった神奈川県立近代美術館蔵のデッサンなど、そのもっともいい例だろう。三重県立美術館の所蔵している素描のなかにも、一種の自画像ともみえる《合掌する男》がある。ともあれ関根は「低級な彼等に自分の藝術が解せるか。」と憤り、「俺は強い様だが、実は弱いのだ。」と愚痴をこぼし、ことあるごとに「不快」を連発しながら、それでも日記(大正5年1月2日)のなかでこんなことを告白することができた。

藝術は神の力を、実在を実現し表現した物だ。其れは人間一人の性
質を通した自然感情其れが、もっとも、真実で有りうべき物が真なる
藝術だ。神の創造物の内に小さい仕事をするので人間だ。神に絶服
する人間は最も真実だ。人間は実に弱い者だ。人間と云ふもの以外に
吾れ等は何物も持たぬのだ。

そしてその最後はこう終わっている。


神への教へは、藝術家のしなければならぬ仕事だ。人間界で最も
  責任の重い物だ。

(東俊郎)

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