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渡米前(1950年以前)の岡田謙三

陰里鉄郎

岡田謙三が晩年のある対談のなかで、若いころなぜ絵を描こうという気になったのか、という問いに答えてつぎのように語っている。「19歳のときに、牧師さんからジャン・フランソワ・ミレーの話を聞いたんです。(中略)その話を聞いてぼくは涙をこばして、絵描きになるんだと思ったの。いや、本当の話。」

いささか冗談めかして岡田は語っているが、あるいは、本当の話だったのかもしれない。牧師はどうやらミレーの生活と芸術を事実以上に悲劇的に述べたようであるが、若い岡田の魂を刺戟するには充分であったであろうし、どこか甘美なロマンティシズムを生涯にわたって持ち続けていた岡田の青年期における絵画へむかう動機としては充分であったかもしれない。

そうした岡田が、パリヘ向けて旅立ったのは1924年(大正13)1月、東京美術学校在学中のことであった。美校の同級生にはのちにそれぞれの個性的な作風で知られることになる画家に、牛島憲之、荻須高徳、加山四郎、小磯良平、山口長男、猪熊弦一郎、中西利雄、高野三三男などがいたが、それらのなかで岡田は、高野とともに海外に留学した最初の画学生であった。

岡田のパリ滞在中の生活は、伝えられるところによると相当に放逸であったようである。一応は研究所グラン・ショミエールに通ってデッサンの勉強をしたようであるが、ときに公園やカフェのテラスで新聞をかぶって寝ることもあったという生活であったようだ。生活もさることながら岡田の絵画についての苦悩と彷徨は海老原喜之助との出会いによって始った。ある日、海老原は「絵は描くだけでは何にもならん。絵はつくるものだよ」と岡田に語った。海老原のこの一語は岡田を混迷のなかへ落し入れたようで、彼は「絵をつくるという概念のとりこ」となってしまい、はては絵筆を投げ出しての放逸な生活へと傾いていったようである。たしかに岡田は描くことを放擲し、海老原を通して識った藤田嗣治のアトリエを訪ねてはただその仕事振りを傍観していただけであり、挙句には藤田からの来訪拒否の葉書を受けとっては自己の怠惰に苦悩を深めただけであったかもしれない。そしてたしかに岡田のパリ滞在中の制作は、帰国直前にサロン・ドートンヌに《ボートのある海浜風景》が入選したことが記録されているだけである。しかしこの感傷のいりまじった悔恨と絶望の岡田のパリ体験は、その原因となった海老原の「絵はつくるもの」のとりこになったことによって岡田の画家としての真の出発をはたしたことを岡田はのちに悟ったのではなかろうか。多少の試行錯誤はあったとしても、帰国後の岡田の絵画の展開、さらにはそれは渡米後のそれまで意識の底のほうで岡田を支配していたように私には思われる。

1927年(昭和2)秋、岡田は帰国し、以後、二科展を舞台に活躍しはじめる。

《ヴァルコン》(1932)、《アコルデオン》(1932)、《ブランコ》(1935)、《室内》(1936)、《時》(1936)、《つどい》(1937)、《野外裸婦》(1938)、《幕合》(1938)、《高原》(1939)といった作品をつぎつぎと発表し、多くの注目を集めたのであった。これらの岡田の初期の大作のいくつかが本展に出品されているが、この時期(昭和初期)、官展(帝展、文展)をも含めて洋画界は群像の構成による大画面(当時としては)が一種の流行のようでもあった。そうしたなかで岡田の作品は、やはりエコール・ド・パリのなかで呼吸してきた画家のもつ華やかさと甘美さ、感傷と苦悩とがないまぜになった独特の情感を漂わせていたようである。

この時期、岡田はいく度か個展を開催しているが、そのなかのひとつの目録に、藤田飼治は序文を寄せてつぎのように書いている。「彼のサンシビリティーの鋭い絵画本質的の最高条件としての彼の豊富なマチエールを持った私の称賛する個展。」

1936年(昭和11)の個展には、パリ風景などとともに《花売り》など多くの少女像が出品されている。それらの少女像は、大作の群像のなかの女性像にも共通していたものであるが、おでこのはった少女が小首をすこしかしげて街角に腰かけているといった類のもので、その色調とともに、どこまでも甘美で哀愁感をたたえた画面であった。それらは藤田ゆずりの繊細で緻密な画肌をもっており、藤田のいう「豊富なマチエール」とはそのことをさしているのであろう。そしてこれらの作品は、都会的な洗練された感覚の叙情を漂わせていて、戦争へと泥沼化していく同時期の暗い世相のなかで、どこか人びとのいらだちをいやすような魅力があったように思われる。

1941年(昭和16)の春、岡田は旧満州国(現・中国東北区)に旅行、ハルピン、奉天、熱河を写生して回っている。このときは美校の同級生でパリ滞在では入れ替りになってこの前年に帰国していた荻須高徳も1司行していたと思われるが、荻須関係の資料によれば、前年の40 年にノモンハンからソ連・中国国境附近を旅行してきた藤田嗣治のすゝめによってでかけたとのことである。本展の出品作には《熱河ラマ寺》が含まれているが、熱河(Je(')ho-Sheng)は旧省名(1928年以後)、省都は承徳(現・中国河北省北東部の都市)、承徳を別名熱河と呼んだ。熱河は清時代の康熈帝や乾隆帝といった皇帝が好んだ夏季の行宮のあった名勝の地であった。この年の12月の個展に岡田はこの旅行時の作品の多くを出品しているが、その時の目録によれば承徳の街や屋根、ラマ寺や土塀を描いた画面が多い。ラマ寺とはチベット仏教の寺院でこの地には清時代に立てられたラマ寺が軒を連ねていた。

さきに述べたように岡田は、小首をかしげた甘美な女性像の画家として知られていたが、初期に風景画がなかったわけではなく、1936年の個展には《パリ裏街》《セーヌ河》《田園風景》といった作品を発表している。これらの作品はいまでは見ることができないが、推察するに藤田飼治ふうのマチエール(画肌)をもったものではなかったかと思われる。それらに対して満州旅行のときの作品は変化をみせていたのではないかと私は推察するが、どっしりとした尾根の連なる街や重量感のある土塀、薄黄色や赤茶けた建造物や空、こうした大陸的な風景や風物が岡田を魅了して熱河風景の連作が生みだされたのであろう。翌1942年(昭17)にも岡田は夫人を伴って再度満州に旅行し、《北市場》などを制作している。

敗戦後の岡田は、いち早く再建された二科展に復帰し《楽屋の一隅》《紅色の上衣》(いずれも1946年作)を発表している。楽屋の踊り子たちの群像、そして踊り子の単身立像であった。これらの作品は戦前の少女像女性像からそのままの連続、継承であった。ついで翌年《シルク》を発表しさらに《詩人》(1948)へとそれは発展している。《楽屋の一隅》は精巧な写実の画面であるが、《シルク》になると同じように踊り子やアルルカンの群像ではあるが形体はいく分整理されてきている。と同時に荒廃した日本の戦後の社会の退廃的な雰囲気を漂わせているように感じられる。《詩人》はさらに整理され、単純化され、並列した4人の人物は輪郭線だけで示される構成的な画面となっている。

この時期に岡田は自己の世界の行き詰まりを強烈に感じていた。戦中、戦後の鎖国的な状況の日本のなかで世界の美術動向を鋭敏に感じとろうと必死になっていたようである。そしてつぎなる大地を求めてほとんどやみくもに日本を脱出、アメリカへ向っている。

(三重県立美術館長)

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