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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1987 > 作家略歴/作品解説 東俊郎 大原美術館所蔵品展-20世紀・世界の美術-図録

作家略歴/作品解説

東 俊郎(三重県立美術館学芸員)

小野忠弘 (Ono Tadahiro)  1913-

1913年青森県に生まれる。1933年東京美術学校彫刻科に入学,在学中に鳥海青児を知り,油絵を描きはじめる。 1942年福井県三国中学校の美術教師となり,敗戦後の1947年「ラ・バクール」を結成する。同年につくられた北陸美術会の会員に,また1950年には自由美術家協会会員になった。小野が平面作品よりさきにまず彫刻の分野で独自の世界をうちたてたことは,たとえば1953年ロンドン近代美術協会主催の彫刻展に出品した『無名政治囚』が佳作をえたことからもわかる。絵画のほうははじめキュビスム風の半具象だったが,対象を欠くアンフォルメルの時期を越えて,具象と抽象の統合がはかられる経過をたどった。1960年堀内正和,荒川修作たちと「集団現代彫刻」を結成する。この前後はとんど毎年個展をひらき.その集大成として1976年の東京セントラル美術館での個展では『ホネイロの砂漠』『ツボケ』シリーズを中心に106点を出品。翌年にも『テラテラの曠』『タダの人』シリーズをふくむ100余点からなる『妖星の画家―小野忠弘』が開催された。

 《ムチン―Y》(no.40)は1957年制作。自由美術家協会第21回展に出品された。それまでのいかにも彫刻的な量把握の直訳的なマチエールからぬけて,厚塗りの凹凸を生かしつつ,自由な線描の軌跡をゆるす動感にあふれた世界をうみだしている。またその絵肌は,土壁,土器,石,古陶器,瓦の破片,乾漆像などの材質感に対する小野の尋常ならざる心的傾斜からくる即物性をあらわしてもいる。

●針生一郎「現代作家小論 小野忠弘」『美術手帖』133 1957.11
●小野忠弘『平安地下陶器─寂寞人間(につぽんじん)の終熄物(ほんしつ)』O&Nコレクション 1970
●『小野忠弘展』図録 福井県立美術館 1985

加納光於 (Kano Mitsuo) 1933-

1933年東京に生まれる。病弱のため十代後半を療養生活ですごす。銅版画を独学ではじめた1953年ころに滝口修造を知り,滝口の推薦で各種の展覧会に版画を出品する。1956年タケミヤ画廊(東京)で最初の個展。以後内外の版画展に参加。版の素材として使用していた亜鉛合金を1964年よりガス・バーナーで焼いて版そのものを作品とした『MIRROR 33』と,『ソルダード・ブルー』の連作で新しい技法による作品を開拓,1966年『半島状の!』シリーズから後期ルドンのように色彩がくわわった。1969年ころから函形立体のオブジェ作品を制作。版画のほうもコラージュやフロッタージュを援用していっそう多様な展開をみせるようになる。画集形式で発表した『葡萄弾──遍在方位について』(1973)と『PTOLEMAIOS SYSTEM 翼・揺れる黄緯へ』(1977)はその成果である。1976-7年,デカルコマニーを利用したリトグラフ連作『稲妻捕り』に没頭,その完成後一転して油彩画に興味をむけ1980年油彩画のはじめての作品群を個展『胸壁にて』として発表した。

《緑を脱いではいけない》(no.94)は1982年の作品。このあと同工異曲の『赤のなかの縁』が同年つくられている。色彩の相互浸透,というよりレオナルドならImpetoと呼んだであろう色彩の衝突,とりわけ赤とオレンジ系の色の氾濫によって,みるひとをとかしてしまう灼熱のエネルギーをあたえられた『胸壁にて』のあと,登場してくる緑色なので,ここでは,あらたな色を納得なしにはつかわない細心さが,ひとたび自己のものとしたあとの展開の大胆さを暗示しつつ,発火の条件をととのえている。

●「特集 加納光於」『みづゑ』876 1978.3
●大岡信『加納光於論』書肆風の薔薇 1982
●馬揚駿吉『液晶の虹彩』書肆山田 1984

フォートリエ,ジャン (Jean  Fautrier) 1898-1964

1898年,パリに生まれる。父の死後母とともにロンドンに移り,14歳でロイヤル・アカデミーに入学。1917年,第一次世界大戦に動員され,フランスにもどったが,ソンムの戦いで負傷,1920年除隊しパリに住んだ。この頃の作品はキュビスムにもシュルレアリスムにも接近しない,全体にくらい色調の,ドランとかキスリングに通ずる写実風であった。しかし次第に具象からはなれる傾向をみせ,1927年,ポール・ギヨームと契約,ベルネーム画廊で初の個展をひらくが,この契約は経済恐慌のために数年で破棄された。しばらくパリを離れ,絵筆をすてた時期の後,ふたたびパリにもどり,ナチ進攻下で彼の家はレジスタンス活動の一拠点となった。1943年,家宅捜索をうけるも,釈放,友人ジャン・ポーランのはからいでパリ郊外に隠れる。「人質」連作はそこで描かれた。1945年,ルネ・ドゥルーアン画廊で「人質」連作展。彼の厚塗りの非具象絵画は,第二次大戦後のフランス絵画のあたらしい方向をしめす出発点として評価された。また1950年のピリエ=カピュート画廊での「複数原画」展はオリジナルの概念を否定するこころみとして注目された。1964年死去。この年パリ国立近代美術館で回顧展がひらかれている。

《人質》(no.10)は,上記のようにナチ占領下に描かれた,政治や人間の状況に関心をおいた作品として,戦後おおきな反響を与えたとしても,その本質はむしろ時代を超えたところにあるようだ。彼自身「私の絵はいつも感動から出発した絵で,なんらかを暗示するような象徴はない。」と語っている。「苦脳の象形文字」というアンドレ・マルローよりも,駒井哲郎のように,「ダ・ヴィンチやレンブラントやルドンなどの持っている精神性や冥想をもっとも新しい形で実現した」作品とかんがえるほうがいい。(他にno.47も参照)

●東野芳明「フォートリエ」『美術手帖』165 1959.12
●ジャン・フォートリエ「石と語る〈滞日放談録〉」『芸術新潮』121 1961.1
●「特集 フォートリエ」『みづゑ』658 1960.2

横尾忠則 (Yokoo Tadanori) 1936-

1936年兵庫県西脇市に生まれる。幼児期より絵の模写に興味をしめし,はじめは漫画家志望だった。1954年,高校の美術教師の影響で油絵をはじめ,美大入学を希望したが断念,その後神戸新聞社にはいって,ポスター・デザインをてがける。1960年上京し,この年日本デザインセンターに再々入社,永井一正などのアシスタントをつとめた。この前後毎年日宣美(日本宣伝美術会)展に出品。1964年退社,宇野亜喜良などとスタジオ・イルフィルを設立,イラスト,ポスター,雑誌・本の装丁に独自のコラージュ技法を駆使し,その平面と立体の,新と旧の,東洋と西洋の同時併存が注目される。1969年には第6回パリ青年ビエンナーレ版画部門に出品した『責め場』でグランプリ受賞。1974年インドに旅行し,宗教的なテーマがふえるなど,作風に変化があらわれた。1980年ニューヨーク近代美術館でピカソ展をみて,おおきな衝撃をうけ,油彩画の本格的な制作にはいり,きわめて表現主義的な作品を発表しはじめて現在に至る。

《ロンドンの四日間》(no.98)は1982年の制作。息の短い,比較的単純な,絵具そのものにちかい色の線が乱舞する画面は,世界を嘗めつくそうとする炎の運動感をかんじさせ,快/不快を同時にくるみこんで,ニューペインティングとよばれるものとの類縁をしめしている。しかし,サンドロ・キア,シュナーベル,クレメンテなどの「新絵画」からの摂取をこえて,ピカソ展での啓示であった,作品はなにを,どのように描いてもいいのだという自由の表現の一形式として,それ以前の横尾スタイルとの連続をみてとるべきだろう。

●「特集・横尾忠則」「美術手帖」516 1983.10
●『横尾忠則の世界展』図録 西宮大谷記念美術館 1983
●「横尾忠則展」図録 西武美術館 1987

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