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作家略歴/作品解説

牧野研一郎(三重県立美術館学芸員)

荒川修作 (Arakawa Syusaku) 1936−

1950年代末から60年代初頭にかけてのいわゆる反芸術の渦中からいち早く抜け出してアメリカに移住し,記号や文字を用いた「図式(ダイヤグラム)絵画」に取り組み,展開している作家。

1936年名古屋市に生まれる。1958年から61年まで読売アンデパンダン展に出品。60年には篠原有司男らとネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成して反芸術的傾向を推進した。60年村松画廊での個展「もうひとつの墓場」で発表したセメントと綿とでつくられたグロテスクなオブジェは,「内的なオブセッションが見る見るうちに,固い凝固に変貌していく過程」(東野芳明)と評されたが,当時の他のネオ・ダダのメンバーが作品の解体へと走ったのとは対照的な荒川の造形の姿勢がこの評からも窺える。1961年「現代美術の実験」展出品。この年のおわりにニューヨークにうつった。渡米以前から図形への関心はみられたが,1963年以降事物の影や写真・記号などを平面上に構成したダイヤグラム絵画に取り組み,翌年「ダイヤグラム」と題した個展をひらいた。その後,事物の影や写真は言葉に置き換えられて画面からは具体的なイメージが消去され,記号と図形のみで情景が示されるようになった。

《ダイヤグラム・オブ・ミーテイング》(no.65)は,室内をおもわせる図形,正逆二つのLOVERの文字,動きを示す矢印などで構成され,題名のとうり室内における恋人たちの出会いが描かれているが,図式絵画という名称からうける索漠とした印象とはうらはらに,清潔な詩情が画面には漂っている。1966年の第7回現代日本美術展に出品され大原美術館貰を受賞した。

●『絵画についての言葉とイメージ・荒川修作展』カタログ 西武美術館 1979.7
●荒川修作,マドリン・H・ギンズ『意味のメカニズム」ギャラリー・たかぎ 1979

宇佐美圭司 (Usami Keiji)  1940−

'60年代初頭の形態が激しくせめぎあうようなダイナミックで,それでいて緻密・繊細な感性の漂うオール・オーヴァー・ペインティングから出発し,人と人あるいは物との関係性をシステム絵画と呼ばれる独特の方法で追求している作家。

1940年大阪吹田市に生まれる。1963年南画廊での初の個展で,《作品・1963》(no.60)のような,おぴただしい不定形の形態が複雑に絡みあい戯れあって,網目あるいは「宇宙的な檻」(大岡信)のように見えるオール・オーヴァー・ペインティングを発表して注目され,翌年「現代美術の動向」展(国立近代美術館京都分館)に出品。1965年にはニューヨーク近代美術館企画の「日本の新しい絵画と彫刻」展に選抜され,以後多くの国際展に出品している。1964年の『銀河鉄道』(三重県立美術館蔵)や《ハード・トレーニング》(no.62)のころから肩や手足といった人体の一部の形象が画面に導入されはじめ,画面は奥行きのある空間を持つようになった。1966年以後雑誌「ライフ」に掲載されたワッツ暴動の写真をヒントに,真空の無機的な空間のなかに走る・投げる・かがむ・立ちどまるという人体のパターンを用い、各々の形態を色の帯(干渉光)により互いに対応するものとして関係づけた図式的な絵画(システム絵画)を制作するようになった。また光と空間への関心はレーザー光線を用いた個展(1968)へと展開していった。

《ジョイント》(no.77)は第8回現代日本美術展(1968)に出品され大原美術館賞を受賞した作品。人間の行為を個別の,切り離されたものとして見るのではなく,相互の連関作用として捉えようとする作者の認識が,透明な光を媒介とすることで形象化されている。

●一柳慧「宇佐美圭司〈現代作家論〉」『美術手帖』252,1965.5
●宇佐美圭司・東野芳明「システム画家が雁字搦になるとき」『みづゑ』829 1974.4
●宇佐美圭司『絵画論 描くことの復権』筑摩書房1980

中西夏之 (Nakanishi Natsuyuki)  1935−

60年代前半における絵画の否定ののち,ふたたび60年代後半に「絵画の発生論的問いかけ」(巌谷國士)をなしつつ絵画へ復帰し,新しい絵画の地平を切りひらいている作家。

1935年東京に生まれる。1958年東京芸術大学卒業。翌年平面の抽象作品『韻』でシェル賞佳作貰を受賞したが,次第に立体へと関心が移り,1962年には電話器や時計などといった日常的事物を寄せ集めアクリル樹脂で卵形に固めた「コンパクト・オブジェ」シリーズを制作しはじめた。これと前後して赤瀬川原平,高松次郎とハイレッド・センターを組織し,街頭でのハプニングを頻繁に行っている。その後,暗黒舞踏派・土方巽の身体理論に深く共鳴しその舞台装置などをてがけた。1967年の南画廊における個展での絵画への復帰も土方巽の舞踏に触発されたものという。「私の絵を観る人はそこにあるものを読もうとするのではなく,私が平面を前にして繰り返していた動作を,今度は観る人が絵の前で同じように繰り返してもらいたいと意図していたかも知れぬ。」という作者の言葉からも,その辺りの機微が読み取れよう。この言葉の後には次の言葉が続く。「何故なら絵画とは,いまだ名を持たぬ平面の前に永く佇ませる装置=祭壇なのだ。」

中西の作品に弓形が現れるのは1979年のことである。画面の垂直線は「延長すると直線にかぎりなく近づこうとしている孤線,巨大な円の一部」であり,それを感覚的に示すために弓矢が用いられる。そのことで中心がここにではなく,そとにあるということが示唆される。《弓形 82V》(no.96)は,絵画を中心性から解き放そうとする作者の一連の作品の一点だが,そこには極めてしなやかな感性と思索との結合が見られる。

●東野芳明「〈中西夏之〉が触れて」『みづゑ』912 1981.3
●『中西夏之展図録』北九州市立美術館 1985.7

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