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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1995 > 中谷泰・よわくてつよい画家 陰里鐵郎  中谷泰展図録

中谷泰・よわくてつよい画家

陰里鉄郎

(一)

中谷泰さんの年譜を読んでいてあらためて驚いたのは,この中谷さんに,これまでただの一度も回顧展らしき展覧会が開かれていないことであった。いや,個展らしい個展もなかったといってもよいほどだ。すこしまとまった展示としては,昭和52年4月の東京芸術大学教授定年退官記念展と咋62年4月の自選展(東邦アートギャラリー)があったにすぎない。その自選展とて,1965-87年(昭和40-62),しかし実質的には 1980年代の作品の23点の出品で構成されていて,中谷さんの50余年におよぶ仕事の軌跡をたどることはもちろん,その展開における問題や中谷芸術の性格や本質を見極めるのに充分であったとはとてもおもわれない。この多少とも規模の大きな個展が開かれなかったということは,中谷さんの仕事に対しての評価がひくいからだというのでは決してないはずで,どうやらその原因は中谷さんの作品に問題があるのではなくて,中谷さんご自身の性格にあったようである。自己主張や自己顕示欲のつよい美術家たちのなかにあって中谷さんはきわめて謙虚で,控え目で,シャイな人なのである。これまでにも個展開催の薦めは決してすくなくはなかったようで,たとえば中谷さんが教育していた岡鹿之助さんなどからはさかんに慫慂されていたようである。機会がなかったわけでもないはずで,私自身,中谷さんを高く評価している複数の画商の人たちから中谷泰展を開く意志のあったことを聞かされたことがある。

慫慂があり,機会があっても回顧展は実現しなかった。いや,させなかったのかもしれない。中谷さんが謙虚で控え目な人柄であることはだれしも認めるところであろうが,しかしただの謙虚や控え目ではないようである。そこのところじつはもっとも中谷泰的なところで,東京芸術大での僚友,野見山暁治さんをして「人柄にも色々あるものだ」(退官記念展目録)と感嘆せしめたところであろうか。野見山説によれば「人柄が優先するのはだいたい背丈の大きい人だ。大きい人が躰を丸めて,何とか相手と同じ小ささになろうとしている姿勢に人柄がしのばれるわけだ。中谷先生は,胸を張って背伸びしながら,大きい人と似たような小さい姿勢をする。」ということで,「人柄にも色々あるものだ」となるのである。

また,つぎのような中谷泰論にであった。筆者は中谷さんと同じ春陽会洋画研究所で一緒に学んだ間柄であった南大路一さんである。

「弱いは強い」と中谷が云った。

「弱いは恥でない。弱さに徹し得ないのが恥だ」と或る詩人の言葉にある。

「弱いは強い」と云った中谷の言葉は,とりもなおさず中 谷の体質であり仕事なのだ。

一見弱々しそうに見える中谷の精神は,不純なものに出逢うと,驚く程強靭となり,闘争的になる。

『BBBB』1950年4月号)

中谷さんの作品についての私の記憶は,昭和28年(1953)ころからである。〈流田〉や〈農民の顔〉,そしてそれにつづく〈炭坑〉や〈陶土〉のシリーズなどからである。日本アンデパンダン展や平和展の初期のころで,血のメーデー事件があり,破防法,教育二法案,内灘など基地反対運動の時期で,丸木位里,赤松俊子の〈原爆の図〉が発表されたころである。中谷さんはそのすこしまえの昭和24年(1949)に日本橋北荘画廊で小さな個展(静物画を主とした19点)を開いているが,私はそれをみた記憶がない。そのころの北荘画廊の展覧会は若い画学生たちの注目を集めていたので,森芳雄展(昭和24年)などみたのを覚えている。メーデー事件以後の学生運動の片隅にいた私は,アンデパンダン展や平和美術展をなかば義務のようにみたのであったが,中谷さんの作品で鮮明に記憶しているのは〈炭坑〉(昭和31年)以降である。記憶しているのは,つよい共感を覚えながらその画面に魅せられたからであろう。

私的な回想はともあれ,このたぴ,中谷さんのほぼ全容を開陳する展覧会が開かれることになった。それは15年戦争(満州事変から太平洋戦争)をくぐりぬけ,その体験からえた思想と,ほとんど独学でえた油彩画法による表現とを自己の体質に素直に一致させた「弱いは強い」画家の軌跡を示すものとなるであろう。

(二)

中谷泰(本名,泰一)は1909年(明治42),三重県松阪市新町に生まれている。生家は商家であった。松阪の商家といえば越後屋(三井),丹波屋(長谷川),小津屋などが著名であるが,中谷家は小津屋と親戚関係にあったという。小学生時代の1920年(大正9),中谷泰は大きな不幸に見まわれている。母と弟とを2,3日のあいだに喪ったのである。いずれもいわゆるスペイン風邪であったという。その後,中谷は商家の子弟らしく商業学校に入学している。中谷は幼少年時を回想して,小さな土蔵のなかで絵をかいたりしていたこと,祖母が松阪出身の日本画家が京都に行くときにお金を預けて日本画の粉を買ってきてもらい四君子などを習ったこと,松阪商業時代に友人から初めて油絵具をみせてもらったこと,そして2,3の友人と油絵をはじめたことなどを語ってくれた。やがて商業学校を中退して上京し,川端画学校に入っている。そこには松阪商業学校出身の小田谷養次(昭和9年東京美術学校油画科卒)がいて手をとって教えてくれたとのことである。1930年(昭和5)第8回春陽会展に〈街かど〉が初入選している。このとき中谷は徴兵検査で帰郷し,郷里から出品した。南大路一によれば〈街かど〉は「草土社臭の強かった春陽会の中で,将来を暗示する大まかなのびのびした作品であった。──そこには画家なら誰でも思い出す少年の頃,油絵具で描く戦慄に似た歓びの感動と,邪心もてらいもない素直な表現」の作品であったという。再上京した中谷は,内幸町にあった春陽会洋画研究所に入所している。

今回の展覧会は,〈都会風景〉からはじまっている。このとき中谷は,どういうわけか満州事変につづく上海事変に召集され,出品は友人たちがしたとのことであるが,帰還後,中谷は松商時代の山上先生の助言によって幡ヶ谷にあった私立帝京商業学校に編入し,卒業している。こうした丁寧に学びなおしたりしているところが,なんとなく中谷泰的であるが,一方では図案家を志して勉強し,製薬会社の広告図案などのアルバイトをしている。絵画に専念するようになったのは1935年(昭和10)からであった。以後,敗戦までの中谷の仕事は,〈水浴〉(1942)〈秋果〉(1944)といった画面に集約的にみられるように構成をつよく意識した作品であったようだ。〈水浴〉は,南大路の指摘するように青年時代の中谷が愛着したゴーガンの『ノア・ノア』の再現であったのかもしれない。〈秋果〉はセザンヌ的な画面構成を感じさせる。再び南大路によれば,「中谷は〈秋果〉によって,批判をうけ自己を知るため,1947年第1回連合展及び1949年の中谷の個展に再度出品して世評を問うた」ものだという。とすれば〈秋果〉は中谷の敗戦をはさむ前後の時期,戦中から戦後へのつながりをなした作品ということになる。事実,戦後の〈流田〉〈農民の顔〉にいたるまでの中谷の画面は,知的な造型構成を実現したモダニスム的で,そのなかでの繊細な表現をみせている。

このような中谷の初期の仕事に注目したのは春陽会の先輩,木村荘八であった。これも南大路一の指摘するところであるが,中谷の資質を「誰よりも理解したのは,木村荘八である。一世間では古風に見られる木村荘八は,中谷を発見し,中谷につづく若い作家を無言の愛情によって育てる近代絵画の理解者である。」ということである。荷風の『(ぼく)東綺譚』の挿画の画家,そして一葉の『たけくらべ』絵巻の画家,木村荘八は,またかつてフュウザン会の画家であり,後期印象派や未来派の文献の翻訳者でもあったわけで,中谷の■質を見出す炯眼はさして不思議ではない。中谷も木村荘八に対しては終始変らぬ敬愛をもちつづけている。この時期から岡鹿之助に親んだことも後半期の中谷の画面をみるうえでは見逃せないであろう。岡鹿之助が10余年のフランス滞在から帰国したのは昭和14年(1939)末で,翌年の春陽会展忙滞欧作品を出品したのであった。

「私は子供のころから肉親に死別したり兄弟とも離ればなれになったり,それに37歳で終戦をむかえるまで暗い谷間を歩いてきたから楽しい思い出というものがない。いつしか絵を描いて自らをいたわり,いろんな人の絵を見て自らを励ますようになった。」(退官記念展目録)と中谷は書いている。母と弟のひとりを数日もおかずにうしなった中谷の少年期の体験は,中谷の心情の奥底に暗い大きな塊りを残していたに違いないが,戦争はもうひとりの弟をも奪いさった。中谷の短かい述懐にはそれらのことについての深い悲しみと怒りが秘められているようである。どこまでも弱者としての自己をみつめていく中谷の強靭さはこのあたりに発しているように私にはおもわれる。

(三)

戦後になってからの中谷の転機は,ゆっくりとやってきて,ゆっくりすすんでいる。敗戦直後の一時期,中谷は絵具検査官という仕事に携わっていたらしい。この官職は当時の商工省と関係があったものであるらしい。どういう経緯であったのか,また東京で唯一人の検査官であったというがそれらの詳細はたしかめていないが,当時の国産の絵具はきわめて粗悪であったために設けられたものなのであろう。私の興味のある点は,独学にもひとしく油彩画を学んだ中谷が,こうした職につくほどに油彩の素材に精通し,またさらにはそのあと,美術雑誌などに初心者向けの懇切丁寧な絵画についての解説や油彩画法の記事を書いたりしていることに明らかなように,中谷は油彩画に関しては相当のアルチザン的な画家になっていた点がうかがえることにある。伝統と蓄積のうすい日本の油彩画の歴史を考えてみれば,このことは看過できないことである。こうした点においても岡鹿之助とどこか似かよっているようだ。

さて,ゆっくりやってきた中谷の転機はどういうものであったろうか。松谷彊は,「画家中谷の存在がはじめて時代の脚光をあびるようになったのは,第二回平和美術展の〈流田〉(1953)のころからであったといえよう」(『美術手帖』,1960年5月号)と書いている。左翼側からだけではなくてもあるいはそうであったかもしれない。〈流田〉は今回出品されていないが,1953年(昭和28)の和歌山県有田川流域の大災害に取材した作品で,前景に災害に打ちしいがれた3人の農民の顔がクローズ・アップして描かれ,背景は現地の惨状が描かれている。しかし描写は自然主義的な,あるいはいわゆる社会主義レアリスムからの写実ではない。〈実らぬ稲〉(1954)〈農民の顔〉(同),そして〈はまを荒す者〉(1955)といった作品が〈流田〉につづいているが,いずれもすこし誇張し,デフォルメした農民や漁民の顔の描写は,たとえば同じ時期の朝倉攝の画面にも共通してみられたものであった。このような描写や表現は,当時の画学生の一部に流行したことを私は憶いだすが,ともあれ,「ただ逡巡,悔恨,反省をくり返すだけ」(中谷)であった中谷が水沢澄夫のすすめで日本美術会に入会(1951),初めて社会的な現実に正面からたちむかった作品が〈流田〉であり,〈農民の顔〉であった。日本美術会は,敗戦直後の1946年に「日本美術の自由で民主的な発展とその新しい価値の創造を目的」として結成され,当初は広範な美術家の自主的な集団で日本アンデパンダン展を毎年開催していたが,朝鮮戦争のころ(1950年)を境いとして,どちらかといえば政治的には左翼系の集団となっていた。左翼系といってすべてがそうであったわけではなく,戦争の苦い体験から平和擁護に関心をもつ美術家たちも参加していた。中谷がこの会に入会したのも,朝鮮戦争の勃発に平和への危機感をいだいたためかもしれない。中谷はのちに,「日美(日本美術会)に入ってからは,それまでになかった他会泥の友人に恵まれた。それに,なによりもこの会の精神に学ぶものが多かった。それは私を創作面で前進させてくれたし,〈陶土〉や〈炭坑〉シリーズも日美に入ったから描けたようなものだと思っている」と語っているが,中谷における戦後の転機,あるいは進展の分水嶺は,〈はまを荒す者〉(1955)の直後の仲間たちとの常磐炭坑や製陶の地,瀬戸への旅行にあったようである。

1950年(昭和30)1月,中谷は佐藤忠良の案内で他の仲間たち(年譜参照)と初めて常磐炭坑を訪れた。当時の炭坑は,朝鮮戦争による特需景気で息を吹きかえした日本経済が,やがて高度成長へ向かう時期にあって,石炭鉱業は国家の基幹産業として重きをなし,日本の戦後資本主義の根幹をなすものの生産現場として注目されていた。「新しいリアリズムの会」をつくっていた中谷とその仲間たちにとって壮大な生産と労働の現場は恰好の対象でもあったに違いない。それにしてもその地の風景は,中谷にとっては衝撃的なものであった。そのことは本カタログの年譜のなかで中谷自身が特記している。中谷における風景感情,または造型感情と思考に,それは大きな変革をもたらすことになる。そしてそれは同時に〈流田〉や〈はまを荒す者〉といった主題性と様式化のつよいこれまでの作品に対する批判への解答にもなったのである。批判というのは,たとえば針生一郎によるつぎのような批判である。

──観察と体験が前景に大きくうかびでた農民の表情把握にいかされている。しかし,背景の黄いろい空間は芝居の書割のように説明的で,かれが抑圧と窮乏になやむ農民 への共感を,流田の情景全体の表象に典型化できなかった事情を物語っている。この作家がたえず社会的矛盾の集約的にあらわれる事件をみずからのものとして体験して,これを論理と構造を、もって画面にまとめようとしている努力は敬服するが,結果としてはいつも様式にまとまってしまう。この努力がもっと方法化されることがのぞましい。

(「記録性について」『美術批評』第37号)

はたして針生一郎が期待していた「方法化」の方向であったかどうかはわからないが,中谷にとって炭坑体験は鮮烈なものであり,以後の方向を決定づけたものであったに違いない。1956年(昭和31)の第33回春陽会展に発表した〈炭坑〉がその最初の作品であるが,これについて中谷は,「坑夫たちと話をするだけでも,人間が生きてゆく上でのきわどい場面が想像されます。しかし,この絵はたんなる風景画です。とにかく,絵かきの私がみて,ズリヤマは新しい感動でした。自然の眺めの中でそれは全く別のものです。しかも,人間の作りあげた大きな土の塊です。これだけで私は描きたくなりました。ここ永い年月に人々の血と汗でかためられた形……と,そこまで考えなくても私には充分でした」と書いている。これはたんなる風景画なのだ,と中谷は開きなおったように云うのである。たしかに画面からは思想的なイデオローグはほとんど消え去って,緻密に構築された,そして繊細な画肌をもった風景画となっている。こうした風景画が〈炭坑〉から〈煤煙〉そして〈陶土〉シリーズへとつづくのであるが,中谷には中谷としての自己の内部での葛藤をへた静かな変化があったことは充分に想像される。中谷はまた,つぎのようにも書いている。それは作品〈煤煙〉をめぐってのことであるが,「もともと私は,ひなびた環境を好んで描いてきたし,どちらかといえば,土臭い情緒泥という処で我慢している。──私とて新しいものを自分の眼でみつけ,その感激を作品化する過程で自らの古い衣を1枚1枚脱ぎすててゆきたい。だから対象と馴れ合いで情緒にてんめんとしているわけにはいかない。しかし,そうは思っても毎日毎日の仕事の結果としてでき上る絵は,たんなる風景画でしかない。──これを人々は妥協というかも知れないが,私は近ごろ,仕事のあい間によく自分にいいきかせるのだが,今までの自分のなにかある情緒などというものをもっと整理した気持で,もっと圧縮した気持で対象を見なおしてみてはどうかと。」というのである。こうした中谷の内部での気持の変化は,変化というよりは深化であったといってよいように私にはおもわれる。独自の方法で身につけた油彩画法のメティエ(技法)と,凝縮した視覚,同じように社会派的な対象や主題であっても,深化されたそれは鋭利であると同時にほのあたたかく,繊弱であるようで堅牢な画面をつくりあげてくることとなる。私はその典型を1958年(昭和33)の〈陶土〉やその翌年の〈陶土〉などにみることができるとおもっている。中谷芸術の頂点のひとつがそこに形成されていると考えている。

(四)

1964年(昭和39),中谷は最初のヨーロッパ旅行に出発している。このとき,中谷は絵具箱を持参しなかったという。絵かきにあるまじきこととあるいは人はいうかも知れないが,そこが中谷流のある種の諦観であると同時に強靱な態度というしかないであろう。美術館で作品をみることに徹したのである。フランスからイタリア,スペインをまわって帰国している。滞欧作らしい滞欧作のないところが他の日本の画家とちがっている。そしてヨーロッパ絵画のなにに感動したかといえば,もっとも感動したのは〈アヴィニヨンのペ-タ〉であったということである。あの張りつめて折れ曲ったような人体表現や,緊張感に満ちた形体表現を思いうかべると中谷のつよい感動も納得させられる。その後,中国旅行や再度のソ連からヨーロッパ旅行,そして 1970年(昭和45)のベトナム旅行とつづいている。そのあと7年間の東京芸術大学教授の時代となっている。

この間の中谷の作品で目だつのは,雪景シリーズである。かつて「土臭い情緒派という処で我慢している」と自称した中谷であったが,土のぬくもりを残しながらもきわめて洗練された土臭さの情緒派へと進展しているようである。対象となっている風景は,竹林であったり落葉した欅のある風景であったりするが,ほとんど実景ではない。中谷は多摩地区など武蔵野の残影をスケッチし,それをもとにして画面を自己の映像としてつくりあげている。また,こうした自然風景ではなくてその後の炭坑のズリヤマの雪景や工場街の雪景など,依然としてかつて画因が生かされている場合もすくなくない。雪景といっても真っ白の風景ではなく,土臭く,また人臭い風景の雪景である。雪景は,1950年代の最後のころ,〈陶土〉シリーズのころにすでに顔をだしていて,この雪景シリーズのもっとも成功した作品の最初は,1965年(昭和40),最初のヨーロッパ旅行の直後に発表された〈寒林〉(今回,不出品)ではなかったかと私にはおもわれる。以後,雪景は中谷の清冽な情緒を表出する色彩となってきているようである。かつての陶土シリーズの黄色と,煤煙シリーズのすこし濃い紫がかった灰色に新しい中谷の色彩として中谷の詩情の色となっている。

滞欧作はない!と書いたが,〈霧の朝〉(1971)はあきらかにヨーロッパの画因であり,〈機織〉(1978)はベトナム旅行時の山岳地帯での取材であるという。いずれも族行の時期から2,3年はずれたあとになっての制作であり,発表である。中谷にあっては,感動を持続させてそのあいだに映像を凝縮させ,それを精密にそして自己のメティエ(技法)にあわせて表現することになっているようである。それは,直截に表現する以上に容易な行為ではないようにおもわれる。「弱いは強い」の強靱な体質をもった画家だけができることなのかもしれない。

(三重県立美術館長)

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