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〈三〉「民藝の発見」

(一)下手ものの美

李朝の陶磁や木工品も、当時は一般に価値の認められた美術品ではなく、まだごく一部の人々しか注目していなかった。朝鮮の工藝品との出会いは、浅川兄弟や柳宗悦にとって新しい美の発見であり、柳はそこに日常生活に用いられる品々における「親しさの美」を見出した。この頃から柳による陶磁器の蒐集も始められている。また後の柳の回想によれば、藍絵の猪口や大津絵への関心もすでにこの時期に始まっていたと考えられるが、当時民衆的な工藝品への関心はあちこちで芽生えており、富本憲吉は「民間藝術」、バーナード・リーチは「農民藝術」という言葉で民衆的な藝術を呼んでいる。リーチとともにイギリスに渡り、三年の滞在を経て帰国した濱田庄司がスリップ・ウェアの皿を清ち帰り、柳と河井寛次郎を熱狂させたのも「民藝」以前のことである。

関東大震災の直後に柳が京都に移ると、イギリスから帰国した濱田、河井らが集まり、京都の朝市を中心に本格的に雑器の蒐集が開始され、丹波布や肥前の緑釉捏鉢など、柳の代表的な蒐集品がここで見出された。蒐集が進むにつれ、より具体的な方向の模索が始まる。「民藝」という言葉の創出、民藝美術館の設立構想、「下手ものゝ美」についての思索、さらには正しい工藝を新たに生むための組織としての工藝ギルドの設立(『工藝の協團に関する一提案』1927(昭和2)年2月)と次々と新しい方向が打を出されていった。

柳宗悦の「下下手ものゝ美」は1926(大正15)年9月19日付の『越後タイムス』に発表された。この時初めて柳は、耳慣れない「下手もの」という言葉を世に問い、、「下手もの」、すなわちそれまで美の担い手と見なされてきた絵画や彫刻、美術工藝品などではなく、日常人々が使っている様々の道具類のうちにも美が宿っていることを述べた。柳宗悦が起草した『日本民藝美術館設立趣意書』はこれより早く、同年1月に富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司、柳宗悦の連名のもとに印刷され、配布されている。異論もあるが、「民藝」という言葉は、1925(大正14)年の暮れに紀州を柳、濱田、河井の三人が木喰仏を求めて旅行していた際、津に向かう車中で創られたという。ここに民藝運動は創始されたのである。

(二)工藝の道

 「下手もの」や「民藝」など、柳宗悦らがあえて耳慣れない言葉を用いたのは、それらが従来の美術的な工藝品とは異なるという点を強調するためであったが、同時に彼らは「下手もの」や「民藝」こそ本来の工藝であると考えていた。そのため柳は民藝運動を展開する一方で、「工藝」についての理論的な追求を行い、『雑器の美』を刊行するのと同時に武者小路実篤が創刊した『大調和』に「工藝の道」の連載を開始している。また『工藝』第8号(昭和6年8月号)に掲載された「工藝的なるもの」という論考では、「工藝」という概念が、具体的な「民藝」を離れて広範囲の事象に敷衍され、言葉の言い回し、動作、物売りの声、書体、絵画、彫刻、宗教、茶道、華道、能、歌舞伎、義太夫、相撲、武術、文学、科学、社会、本能等を例に「工藝的なるもの」が次々と明らかにされ、「そこにはいつも型の世界が現れている」 としている。

柳は「工藝的なるもの」を探求することは、「工藝」とは何かを明らかにするばかりでなく、「美とは何かと云ふ根本的な問いに対しても、極めて示唆深い」と考えていた。

(三)民藝と社会−民藝運動の展開

1928(昭和3)年に上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会に、柳ほか日本民藝美術館同人は「民藝館」を出品した。これは、公の場で「民藝」の存在を世に知らせる絶好の機会となり、前年に結成されたばかりの上加茂民藝協團の最初の成果を問う場ともなった。また、博覧会に出品された「民藝館」のための什器は主として「日本各地で現に作りつつある民藝品から選択すること」になっており、そのための蒐集の旅が 1927(昭和2)年12月下旬から始められた。泉北、山陰、九州など旅は全国に及び、各地から多くの新しい品物が集められ、民藝館に展示された。こうした旅はその後何度も繰り返されると同時に、同様の視点は朝鮮にも向けられ、柳は河井、濱田とともに朝鮮を旅して廻り、その成果をまとめた『今も續く朝鮮の工藝』を出版している。

さらに柳の関心は新作品へと向かい、地方民藝の発展とそれらの品物を流通させる店舗の経営を試み始める。新作運動はまず、鳥取の吉田璋也、松江の太田直行によって1931(昭和6)年に始められ、やがて倉敷や益子へ広がっていった。また1931(昭和6)年5月に「水澤」、翌年1月に「港屋」、同年6月に鳥取に「たくみ工藝店」が次々と開店し、柳もその経営を支援した。『日本民藝美術館設立趣意書』にすでに掲げられていた「現代への是認」、「将来への準備」という仕事が具体的になり始めたのである。柳宗悦は機会あるごとに、新作を紹介すること、また地方工藝の正しい発展の方が、古索引の蒐集・紹介以上に意義深く、困難な仕事であることを述べている。

(四)個人作家の位置

工藝に関する柳宗悦の思想と実践は、早い時期から、バーナード・リーチ、富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司ら、身近にいる優れた作家との交遊の中で育まれてきた。『陶磁器の美』にはバーナード・リーチと富本憲吉への献辞があるが、1910年代から両者は柳宗悦に大きな影響を与えた。とりわけリーチの存在は柳にとって大きく、ブレイクへの傾倒をはじめ、リーチとの交遊は柳の思想形成に大きく作用したと考えられる。

1919(大正8)年にリーチを通して知った濱田庄司、その濱田を通して出会った河井寛次郎も、柳が出会うべくして出会った作家であり、彼らとの密接な交流のなかで、民藝は発見され、運動へと展開された。彼らの存在は柳個人にとって欠くことのできぬものである一方、彼が本道と見なしていた無名の工人による民藝のあり方とは矛盾していたことも事実で、柳はたびたび民藝における個人作家の位置や役割について議論を繰り返している。仏教に「自力道」と「他力道」があるように、工藝にも両者の道があることを認めた上で、自力道が難行道であること、だからこそ、他力道ある工藝本来の道に徹する必要を説きながら、柳は難行道を行く作家たちを常に頼りにし、彼らの仕事を高く評価している。

(五)手仕事の文化l沖縄・台湾・アイヌ・日本

地方に残る手仕事の文化への柳の関心は、戦争が激しくなるにつれてますます高まっていった。4年がかるで取り組んでいた『日本民藝圖録 現在篇』は、印刷にまわる直前に大阪の空襲で失われたが、同時に手がけていた『手仕事の日本』は戦後まもなく刊行された。視野は満遍なく全国に及んでいるが、なかでも柳が特に力を注いだのは東北地方の手仕事である。たびたび泉北を訪れ、展覧会の開催、東北地方の蓑と背中当を紹介した『雪國の蓑』の刊行、また秋田における樺細工伝習事業などが次々と展開された。

沖縄は濱田庄司や河井寛次郎がすでに訪れており、柳自身も十年以上前から一度訪れたいと願っていた土地であったが、 1938(昭和13)年になって初めて実現した。この訪問で、あらゆる面に古い文化の姿をとどめた沖縄の地そのもの、その「奇蹟のような存在」に柳は強く惹かれ、その後立て続けに訪れている。『工藝』や『月刊民藝』ではしばしば沖縄の特集が組まれ、染織品や陶磁器のみでなく「琉球の富」として沖縄のあらゆる文化、そして風土が紹介された。また、こうした強い関心から、当時この地に起こっていた言語問題について柳は積極的な発言を行い、これは『月刊民藝』誌上を中心に、関係する人々を巻き込んだ論争へと発展した。

この時期、柳の視野はアイヌ、台湾、中国へも広がり、日本民藝協会発行の『月刊民藝』では、戦時下の新体制と民藝、地方文化、民俗学と民藝などをめぐる議論が様々に繰り広げられた。

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