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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1997 > 〈二〉朝鮮民族美術館と木喰仏 毛利伊知郎 柳宗悦展図録

〈二〉朝鮮民族美術館と木喰仏

(一)朝鮮とその藝術

柳宗悦が初めて朝鮮を訪れた1916(大正5)年の3年後、1919(大正8)年3月1日に朝鮮では三・一独立運動が起こり、日本政府は直ちに弾圧を行ったが、これに対して柳は「朝鮮人を思ふ」を『読売新聞』に発表し、抗議を表明した。この一文の中で柳は朝鮮の美術を特徴づける「線の美」についても初めて言及し、朝鮮の歴史が辿った運命と結びつけている。この後柳は、光化門の取り壊し計画に反対の意を述べた「失はれんとする一朝鮮建築の為に」など、次々と朝鮮に関する文章を発表しているが、そのひとつ、1920(大正9)年5月の朝鮮旅行の直後に書かれた「彼の朝鮮旅行」のなかで、柳はまず、この時京城(現在のソウル)での音楽会を企てた経緯や滞在の様子について詳しく語っている。また、滞在中に見た染付辰砂蓮華文大壺について、自身の日記を引用しつつ触れたのに続いて、次のように書いている。「且つ彼は残された作品の無益な散逸を惜しんで、朝鮮民族美術館を設置したい願望をも記した。彼は前から此企てを實行しようとして、彼の所持金の許す限りをその為に費し始めた」。

これに続いて、1921(大正10)年1月号の『白樺』に「『朝鮮瓶族美術館』の設立に就て」を発表し、朝鮮の優れた藝術への理解がそれを生み出した民族への理解につながるという信念を述べている。『白樺』には次々と関連の記事が発表され、また準備段階として東京と京城で展覧会も開催され、柳はそれまで蒐集してきた品を朝鮮へ送り出した。

最近発見された浅川巧の日記は、1922(大正11)年から翌年にかけて書かれたもので、美術館の設立準備の頃の様子を生き生きと伝えている。美術館は資金集めや建物の確保などに手間取ったが、最終的に朝鮮総督府から景福宮内の緝敬堂の提供を受け、1924(大正13)年 4月9日に朝鮮民族美術館は開館した。

後の柳宗悦の回想によれば、美術館の所蔵品の蒐集には主として浅川巧と柳があたったという。蒐集は染付、辰砂、鉄砂、白磁などの李朝の陶磁器、膳などの木工品を中心に、工藝の各分野にわたり、絵画も含まれている。

朝鮮民族美術館の設立にあたっては、朝鮮在住の浅川兄弟、なかでも浅川巧の存在が大であったと思われる。しかし 1931(昭和6)年に『朝鮮の膳』と『朝鮮陶磁名考』の二冊を遺して浅川巧が急逝し、柳を深く落胆させた。朝鮮民族美術館はその後も存続したが、当時周辺にいた人々の話によれば、たまの来訪者のある時以外は閉鎖されたままだったという。そしてそのまま終戦を迎えたが、3000点を超えたといわれるコレクションはそのまま宋錫夏が設立した国立民族博物館に吸収されることになった。この時、アメリカ占領軍は、朝鮮民族美術館のコレクションの価値を認め、この措置をとったという。その後、国立民族博物館は国立中央博物館南山分館に吸収され、博物館の収蔵品として現在に至っている。今回はその中から朝鮮民族美術館の旧蔵品と確認された10点が出品されている。またそのコレクションの一部は、日本民藝館にも収蔵されている。

(二)木喰上人の研究

1924年(大正13)から2年あまりの間、30代半ばに柳宗悦が集中的に行った木喰研究は、東洋美術への関心を抱いていた柳が朝鮮美術の調査や、後に「民藝」と呼ばれる「下手物」への傾倒とほぼ同時期に行われており、柳の美術や宗教に関する意識の展開を探る上で重要なものであった。

木喰仏と出会う数年前から、柳は東洋美術への関心を深め、浅川伯教・巧兄弟と朝鮮美術の研究・蒐集に続く集中的な調査研究の発端は、表面的にはこの朝鮮美術調査の副産物とでもいうべきものであった。

『木喰五行上人畧伝』(1925年5月刊行)所収の「上人発見の縁起に就て」に詳述されているように、柳が初めて木喰仏を目にしたのは、1924根(大正13)1月9日のことであった。

小宮山清三蒐集の朝鮮陶磁器を調査すること、八ケ岳周辺の冬景色を見ること、さらにはこの地方特有の作品を購入することを目的に甲州に出かけた柳は、池田村の小宮山宅を訪れて二体の木喰仏を目にし、即座に心を奪われてしまったという。その一週間後、小宮山から贈られた地蔵菩薩像を入手したのを皮切りに、柳は木喰仏の調査と蒐集、研究に没頭していくことになった。

柳が伝える木喰仏との出会いは、このような偶然の産物であったが、一目で木喰仏の虜になったことにつていは、三つの準備があったといえると柳は記している。その第一は、柳が自分の美的直感力に自信を持てるようになってきたこと、第二は彼が民衆的な作品に強く心をひかれていたこと、第三は宗教的世界にも柳が深い関心を持っていたことである。

確かに小宮山清三宅での偶然の出会いは木喰仏発見の大きな要素ではあったが、柳があげるこの三つの準備は、柳の内面に木喰仏を受け入れる素地が整えられていたことを示している。

後年(1956年)、名古屋市の鉈薬師堂を訪れた柳は円空の十二神将像に接し、「この稀有の彫像に全く驚愕し、圧倒される程の感銘を受けた」と記して、円空仏を高く評価することになる(「円空仏との因縁」、「『柳宗悦全集』第7巻575-578頁)。

既に健康を害していた柳には円空仏の本格的な調査研究を行う余力はなかったが、柳の円空論は第二次大戦後に発表された円空関係の論文の中で最も初期のものであった。

柳による円空仏の発見と評価は、時期こそ隔たっているものの、宗教世界における民族学的な立場の研究者からディレッタンティズムとの批判を受けることになるが、このことは柳の新しい美の発見が直観から出発していたことを如実に示しているといえるだろう。

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