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〈一〉『白樺』の時代

(一)革命の画家

学習院初等科、中等科を経て高等科に進んだ柳宗悦は、在学中に郡虎彦らと回覧雑誌『桃園』を出し、西洋の文学、藝術への関心を抱き始めていた。上級生の志賀直哉、武者小路実篤らが中心になってが1910(明治43)年に『白樺』が創刊されると、郡とともに最年少の同人として参加、英語力を生かして外国語の美術文献を渉猟し、 ビアズリー、フォーゲラー、後期印象派らの紹介を熱心に担当した。『白樺』は誌上にとどまらず、丸善や外国の書店から版画や複製を取り寄せ、1911(明治44)年の泰西版画展覧会ほか、たびたび展覧会を開催したが、なかで特筆されるのは、ロダン、フォーゲラーとの書簡による直接の交流であり、1911(明治44)年12月にフォーゲラーから77点のエッチングが、続いてロダンの彫刻3点が届いたことは、同人たちを驚喜させた。柳は、『白樺』第2巻第12号にじ「フォーゲラーの藝術」を執筆するとともに、フォーゲラーとの直線の交渉を担当している。また、ロダンの彫刻3点が横浜港に届いたとき、引き取りに行ったのはほかならぬ柳であった。

続いて1912(明治45)年1月号の『白樺』に発表した「革命の画家」は、「後印象派」のセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マティスら、「革命の画家」の紹介を通じて、当時、木下杢太郎との論争において武者小路実篤、山脇信徳らが主張した「生の藝術」の側に立ち、「げに藝術は人格の反映である。そは表現せられたる個性の謂に外ならない」という。『白樺』の代表的な近代均藝術観を表明している。この時点では柳もまた、偉大な天才の全存在の充実が反映された「生命の藝術」こそ真の藝術であると考えていたのである。

(二)ブレイクとホイットマン

柳宗悦の二冊目の著書『ヰリアム・ブレーク』には、’to Bernard Leach'という献辞がある。その冒頭で柳宗悦はブレイクとの出会いの過程を語っているが、すでに中学生の頃からブレイクの詩に接し、『ヨブ記』の挿絵も見ていたという。しかし1909(明治42)年に来日したリーチとの出会いを通じて、ブレイクへの柳の関心は飛躍的に高まり、その結果生み出されたのがこの大著であった。ブレイクを通じて柳の前に開けたのは次のような世界であった。「世界は彼の前にありのままな神の姿を現してゐる。自然の聲は凡ての存在の讃美を語つてゐる。彼にとつて此世には一つとして棄てられるべきものがなかつた。彼の鋭い叡智は此理を直觀して一切のものに存在の肯定を是認した。離反する二個の世界すら彼の心に於て手を握つてゐる」。

柳宗悦にとってブレイクは何よりも「肯定の詩人」であったが、ブレイクと並んで同じ資質をもつ・告lとして柳を引き付けたのが『草の葉』の詩人ウォルト・ホイットマンである。『白樺』第5巻第5号で柳は「肯定の二詩人」として両者を並べて論じているが、この中で「自分には肯定の思想に対する強い愛着がある」と述べ、二人を一切の存在を肯定する思想の代表者として取り上げている。とりわけホイットマンの魅力は、柳自身の言葉によれば、「宇宙的な所」「友愛の福音」「肯定的な見方」にあった。「叡智の深いブレークに対比して、ホイットマンは本能の人である。」柳は『ブレーク』 の続編として『ホヰットマン』を書きたいという希望を抱いていたが、これは実現しなかった。しかしこの二人に出会うことによって、自らの資質のあり方に気付き、進むべき方向を見定めていったのである。

(三)陶磁器の美

『ヰリアム・ブレーク』を書き上げた翌年、我孫子に移ったばかりの柳を朝鮮在住の浅川伯教が訪ねてきた。彫刻家志望で、柳が預かっていたロダンの彫刻を見るためであったが、すでに季朝陶磁器の蒐集を始めていた伯教は、手土産に数点の陶磁器を持参した。そのひとつが「染付秋草文面取壺」であり、数カ月後の『白樺』第5巻第11号に柳は陶磁器についての初めての感想を記している。2年後の1916(大正5)年、初めて朝鮮を訪れたのを機に、李朝の工藝品の蒐集を始め、同時に浅川伯教、巧兄弟との交流を通じて朝鮮の文化への関心を深めていった。

一方、『白樺』第10巻第7号には初めて挿絵に東洋美術が登場したが、担当したのは柳で、法隆寺金堂壁画や正倉院のものが選ばれた。西洋美術を見た目で新たに東洋美術を見直していきたいというのが彼の抱負であった。後の柳の回想によれば、この頃すでに伊万里の猪口や大津絵など、後に「民藝」と呼ばれるものへの関心も始まっていたという。また陶藝家として活躍を始めていたバーナード・リーチや富本憲吉との交流を通じて、工藝、特に陶磁器への関心を深め、1921(大正10)年には初めての工藝論である「陶磁器の美」を発表、さらには野島康三の撮影による中国、朝鮮、日本の陶磁器を挿絵とした私家版を出版している。

(四)宗教とその真理

1910(明治43)年、学習院から東京帝国大学哲学科に進学した柳は心理学を専攻した。当初柳が関心を抱いたのは当確一種の流行となっていた心霊現象で、これをテーマに『白樺』第1巻第6号と第7号に柳は「新らしき科學」を発表し、翌1911(明治44)年にはメチニコフの紹介と併せて最初の著書『科學と人生』を刊行している。しかし卒業論文の「心理學は純粋科學たり得るや」をもって心理学から離れ、ブレイク、ホイットマンを通じて神秘思想に引かれていく。

1919(大正8)年に刊行された『宗教とその真理』は、宗教哲学における柳宗悦の初めての独創的な思索の跡を示す著書であった。収められた論文は、数年のうちに『白樺』などに書かれたもので、キリスト教における神秘思想の系譜、およびそれと相通じる泉洋の老荘思想や仏教思想に共通する「即如」や「中」という観念、あるいは否定的表現の中に、西洋の二元論を乗り越える思想の系譜を様々な観点から探ったものであった。後年にまで通じる柳の宗教思想の骨格がここに形成されたのである。

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