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柳宗悦における「眼」と「物」の位置

土田真紀

1、序

柳宗悦の生涯にわたる、あまりにも多彩で、しかもその1つ1つがはかり知れない広がりと深みを有する活動、および思想のなかで、1つ1つを区別し、どの1つが最も独自であったかと問うことは恐らく無意味であろう。それらは互いに密接に絡み合う連鎖をなしており、1つだけを切り放して取り出すことはできないし、その絡み合った全体を通じてこそ、柳宗悦はきわめて独自の思想家として日本の近代に足跡を残すことになったのである。

しかし、矛盾するようであるが、あえて何が柳宗悦の思想を最も独自のものにしたかと問えば、それは柳の「物」=「民藝」=「工藝」に対する視線と思考であったのではないだろうか。柳はある時点から「工藝」を思想の核とし、またそれが単なる「工藝思想」の枠内にとどまらず、宗教、倫理、社会等を包含した思想全体のなかに見事にはめ込まれているが、これに比べられる思想を展開したのは、確かにしばしば柳と比較されるウィリアム・モリスをおいてないであろう。

柳は、従来精神的価値とは最も遠いと考えられてきた「物」、すなわち日常的な、人々が必要最低限の道具として作り続けてきた「物」、柳自身の言葉でいえば、「民藝」、「下手もの」、「雑器」に、最も高い美と宗教的真理の内在を認めたのである。雑器には何か思想が盛られているわけでもなければ、それによって特別な感情や感覚を喚起しようと企図されてもいない。いわば人間の精神からは最も遠いところにあるものである。この価値の逆転こそは、柳ならではなし得ないことだったのではなかろうか。柳は「物=工藝」をめぐるこの価値の逆転をなぜ行うに至ったのか。また柳にとって「物=工藝」とは何であったのか。またその「物」を捉える「直観」の働きを柳は非常に重視し、知識や論理的思考の上位にすら位置づけたが、この「直観」、すなわち「眼の働き」は思想家としての柳宗悦のなかでどのような位置を有していたのだろうか。

「工藝」のなかに、柳宗悦は様々な真理を発見していった。そこに柳は美と宗教的真理はひとつであることを見出し、また「工藝」に対して「日本の眼」が優れた能力をもつことに気付いた。逆にいえば、仰が後の思想を展開する中で、まさに「工藝」なるものを発見していったのだともいえよう。つまり、西洋近代が「美術」を発見したように、日本近代が柳という存在を通して最も純粋な形で発見したものこそ「民藝」=「工藝」であり、その意味で柳が見出した「工藝」もまた「美術」と同じく近代の産物にはちがいないように思われる。また柳本人にとっては両者は表裏一体を成していたであろう。それは過去への視点を通じて、伝統(権威化された伝統ではなかったが)のうちに発見された点が前衛性の中に神話を創り出した「美術」とはまさに対照的であった。この「美術」との対照性のなかに「工藝」を見出した点で柳は完全な確信犯であったように思われる。「工藝」はそれ自体近代の産物でありながら、同時に近代批判を含んだ概念であった。そして「美術」の自律性に対し、「工藝」を徹底して社会性や宗教性、倫理性の中に位置づけようとしたのである。

2、西洋美術から工藝へ

柳宗悦における「物」との出会いを探っていけば、ごく早い時期から様々な萌芽が見て取れる。たとえば、柳は学習院在学中にすでに李朝の染付牡丹壺をある骨董屋で買ったと回想している。また伊万里の藍絵の猪口との出会いも早く、それを通じて器物の美に関心を持ち、それらを用いる生活に喜びを感じるきっかけになったという。また、こうした後の李朝陶磁器や「下手もの」に直接つながる「物」との出会いばかりでなく、種村季弘氏が柳宗悦全集の月報九に書いた「ものの手触りについて」で指摘するような、フォーゲラーとのやり取りに見られる「ものの手触り」への愛着が早くから柳にあったことも事実であろう。さらには、柳の蒐集への情熱が書物に傾けられたことは言うまでもない。それも洋書は当然のことながら、鈴木大拙の影響などから、学生時代から禅籍に関心を持ち、蒐集を始めていたことは興味深い事実である。柳の旧蔵書のうち洋書にはバーナード・リーチの木版によるたんぽぽの図案の蔵書票の貼られたものがみられ、現在松が丘文庫に所蔵される禅籍類には、二種類の「宗悦」の朱印が捺されている。明らかに柳は、書物の中身だけでなく、「物」としての書物にも深い愛着を抱いていたのである。『白樺』で紹介された西洋美術の数々の作品も、複製や画集という「物」の色や形、手触りとともに柳の精神に入り込んだものであっただろう。

恐らく柳には「物」に対する先天的といってもいい感覚が早くから働いていたにちがいない。その柳が「物」と決定的に出会ったのが浅川伯教がもたらした「李朝染付秋草文面取壺」である。折しもそれは柳自身が最初の仕事らしい仕事と感じていた大著『ヰリアム・ブレーク』を書き上げて間もない頃のことであった。「我孫子から 通信一」で柳はその出会いを語っているが、この随想風の一文は、柳にとって、ブレイクの世界が李朝の陶磁器へ、さらには台湾や南洋の工藝や光悦の蒔絵箱へとごく自然につながっていったあたりの事情を伝えてくれる点で非常に興味深い。柳は『ヰリアム・ブレーク』を書き終えた感想を記した後、

  彼から受けた精神的刺激を別にしても、自分には様々な美の世界、眞の世界が彼を通
  して現はれてきた。微細なものに對する自分の一々の驚愕は彼の精緻な精神によつて
  表現された様々な装飾的圖案を通して自分に輿へられた。技に沿う線條、花葉の形態   又はその多様な旋律的運動は人間の無邊な情趣をさへ自分に暗示してきた。
  自然に顕はれる線(ライン)と形(フォーム)とには限りない愛の恋情がある。(然
  し自分は畫家に生れてはこなかつた。然し此の喜びをいつか自分の思想に畫き出し得
  ると思つてゐる。何故に哲学者は自然に現はれたラインの美、フォームの優をその思
  索的字句に表現し得ないのであらう。自分にとつては之は少しの不可能をも不自然を
  も意味してゐない。未来の哲學者は凡ての美に對する驚愕を以て彼の筆を起さねばな
  らない。

と述べ、すぐに朝鮮の陶器に話が移っていく。

  自分にとつて新しく見出された喜びの他の1つを慈に書き添えよう。それは磁器に現
  はれた型状美(Shape)だ。之は全く朝鮮の陶器から暗示を得た新しい驚愕だ。甞て何等
  の注意をも払はず且つ些細事と見做して寧ろ軽んじた陶器等の型状が、自分が自然を
  見る大きな端緒になろうとは思ひだにしなかつた。「事物の型状は焦限だ」と云ふ一
  個の命題が明瞭に自分に意識された時此の単純な眞理は自分にとつて新しい神秘にな
  つた。その冷な土器に、人間の温み、高貴、壮厳を讀み得ようとは昨日迄夢みだにし
  なかつた。

さらに柳はこの頃博覧会の会場で見た台湾と南洋の染織品、土器、武器こそ、なかで最高の藝術的賞揚を受けるべきものであることを付け加えている。明らかに後の民藝への視点の芽生えをここに見ることができる。次に柳の話は光悦に及んでいる。

  然し古日本の藝術家が此型状美に對して持つてゐた感覺の鋭さは、かの光悦等の作品   によつて證明されてゐる。此秋上野に催された数多い展覧曾のうち只1つ自分を驚か   せたのは日本美術院の主催にかゝる光悦、乾山、光琳、雪舟、若冲等の作品展覧曾だ   つた。中でも自分の新しい注意を引いたのは光悦作蒔繪の硯箱だつた。その盛れ上つ   た殆ど圓球に近い大膽な硯蓋の型状には、甞て何人も試みなかつた充實がある。一言   Richnessだと云ふより外はない。彼等の作品はどんな西洋の巨匠の作品の前に出して   も優に彼等自身の位置を保有する事が出來る。

後に柳が光悦を枇判することになることを附記しておく。

ここで柳の視野に自然における「ラインの美」、「フォームの美」、そして陶磁器の「型状美」が入ってきたのである。これ以前に柳は『白樺』でビアズリー、ロダン、セザンヌ、フォーゲラーらについて語ってきた。しかしそれはデカデンスの画家としてのビアズリーや「宗教家としてのロダン」、あるいは「愛の画家フォーゲラー」としてであった。ところがここに、ブレイクの影響と李朝の陶磁器との出合いから、そうした人格の表現としての藝術、天才による藝術とは別個の、自然や陶磁器における純粋な視覚的世界が柳の前に姿を現してきたのである。柳が「民藝」を発見するために、これは欠かせない視点であったにちがいない。

李朝の陶磁器の美は柳宗悦を決定的に捉えたが、柳宗悦はここからストレートに「下手もの」 の美へ向かってはいかなかった。李朝の美はむしろ柳宗悦に内在する倫理均な態度と結びつき、朝鮮そのものへの発言、それと結び付いた朝鮮民族美術館の設立へと向かうのである。その途上に登場してきたのが、朝鮮の美の特質を淋しく流れる線のなかに見出し、民族の歴史と結びつけたいわゆる「悲哀の美」論であった。

3、1910年代の工藝

柳の最初の工藝論である『陶磁器の美』の私家版には次のようなリーチと富本への献辞が付され、挿絵には古陶磁とともにリーチと富本の作品が取り上げられている。

此書を余の友として又陶工として敬愛する富本憲吉、バーナード・リーチ両兄に贈る。
 言葉なき兄等の器から、是等の言葉の多くを學び得たことを、こゝに紀念したい。

1914年には柳は早くもリーチ論を書いており、1920年のリーチの帰英に際しては私家版の本を出版し、リーチに捧げている。周知のように、リーチが陶藝家となる以前からこ人の間には親交があり、柳の誘いで我孫子に築窯したリーチと柳は、相互に深い影響を与え合いながら自己の確立を諮っていった。もう一人、リーチと同様の関係にあったのが富本憲吉である。

柳宗悦が認めているように、リーチと富本が柳の「陶磁器の美」の成立に大きく寄与したことは、決して偶然ではなかった。二人は1910年代の「工藝」をめぐる新しい動きの中できわめて重要な役割を演じているからである。1910年にイギリス留学から戻った富本と1909年に来日下リーチとは、全く新しいタイプの工藝家として、旧態依然とした当時の日本の工藝界とは全く別の次元で、個人主義に立脚しながら、東西の区別を越えた新しい工藝のあり方を探ろうとした。やがて二人はともに陶藝に着手し、六世尾形乾山に手ほどきを受けているが、まず二人が手がけたのが楽焼であった。二人は中国や日本の陶磁器だけでなく、1912年の拓殖博覧会で見た李朝の陶磁器、さらにはスリップウェアやデルフトやペルシャのものに影響を受けている。次にみるように、柳は『陶磁器の美』のなかで、宋窯およびそれと同じ性質をもつ高麗や三島手、スリップウェアやデルフトやペルシャなど、楽焼の系統を最も好むと述べている。柳宗悦にもリーチや富本と通底する感性が作用していることは明白である。また柳宗悦の陶磁器への関心、さらには下手ものの美から工藝論へという展開そのものも、リーチと富本に始まる、1910年代から20年代にかけての日本の近代工藝の大さな転換期の流れのなかで捉えることができよう。

なかでもリーチや富本との直接の交流のなかで生み出された柳の仕事が『陶機器の美』であった。「陶磁器の美」において柳は陶磁器全般に共通するの美の性質を「親しさの美」と呼んでいる。なかでも柳の心を捉えたのは宋窯の品である。

  宋窯は實際私には無限の美を示すが故に、同時に無限の眞理の贈り手であつた。何が
  故に宋窯はしかく貴い気品と深い美とを示すのであるか。私は其の美がいつも「一」
  としての世界を示してゐるが故であらうと思ふ。「一」とはあの温かい思索者であつ
  たプロティヌスも解したやうに、美の相ではないか。私は宋窯に於て裂かれた二元の
  對峙を見る場合がない。そこにはいつも強さと柔さとの結合がある。動と静の交はり
  がある。あの唐宋の時代に於て深く味はれた「中観」や「圓融」や「相即」の究竟な
  佛教思想が、其のまゝに示し出されてゐる。

柳は「此の世での最も美しい作は皆之に類似した性質を有つ」として高麗期の作、三島手、ペルシャ、マジョリカ、デルフト、スリップ・ウェア、日本では古唐津や古瀬戸を挙げている。これらはすべて挿絵に取り上げられているが、挿絵は当時の柳の陶磁器の見方をはっきりと伝えているように思われる。選ばれた柳宗悦自身の蒐集品は、すでにはっきりと民藝を予告している。柔らかな宋の白磁、のびのびとした絵付けの磁州窯の陶枕、李朝辰砂の壺、彫三島の扁壺、これらはすでに価値はある程度認められていたものの、いわゆる隙のない、いわゆる名品とは異なっている。また柳は、西洋やペルシャ、現代までを一貫した「l一つの眼」でみていることである。そしてその眼は、既成の陶磁器への価値評価とは全く異なるひとつの基準が柳個人の眼のなかにすでに含まれていることを示している。だからこそ唐の博山炉からリーチや富本までを全く同列に扱うことができるのである。そしてそれら誕生の地も時代もばらばらのものに共通するものを見ているのである。これは、「下手もの」の発見につながるきわめて重要な視点なのである。またこの中で、陶磁器に模様が描かれている場合、たいてい裏の模様の方が美しいとしているのも、柳ならではの同様の見方として興味深い。

中国、朝鮮、日本の陶磁器を比較し、「其の國の歴史や自然が何時も陶磁器の美の方向を定めている」という。柳はやや遅れて書かれた「ゴシックの藝術」においても最後にそれが「共通の思想と意志とから生み出された民族の藝術」であると述べていることが想起される。陶磁器論として読むとき、「陶磁器の美」はやや観念的な捉え方に傾いているという感を免れ得ない。後にみるように、恐らくこの時期、朝鮮の問題があまりにも強く柳を捉えていたからではないだろうか。『朝鮮とその藝術』の序に柳はきっぱりとこう述べている。

  私にとつては現はされた作品の客観的攻究が主題ではない。その作品を通じて民族の
  心理に触れようとしたのである。私は目下の所朝鮮民族の運命と直接交渉を持たぬ
  「ものの見方」に興味を持たぬ。

当時の柳のこの断固とした態度は、朝鮮の美術のみにかぎらず、陶磁器の美やゴシック藝術への柳の見方にも決定的な影響を及ぼしていると思われる。

しかしながら、柳が国によって陶磁器が帯びる固有の特質やそれぞれの違いに触れながら、同じ一文でそれらに共通する「親しさの美」に言及していることは、単なる矛盾と片付けることのできない柳のむしろ積極的な態度と見るべきである。

4、東洋と西洋

柳が朝鮮民族美術館の準備のために京城を訪れるたびに、柳がブレークの複製版画展や西洋複製名画展覧会、あるいはゴシック彫刻の写真展、木喰仏の写真展等を開催しているのは興味深い事実である。そのひとつ「西欧複製名画展覧会」の開催について柳は『東亜日報』に次のように書いている。展覧会にはロダン、ゴッホ、セザンヌはもちろん、ミケランジェロやレンブラントが出品されていた。柳はまず『白樺』におけるそれらの紹介の意味を述べている。

  我々はほとんどなんらの偏見にもとらわれたことはなかった。率直に表現された美の
  内面の意味を求めた。それを一枚の画布、一個の彫刻と見るよりは、むしろ真理の生
  きた表彰として玩味した。……我々はこのようにして、単に美そのものに触れたばか
  りでなく、その美を通して表現された生命の深さと力を明白に目撃することができた。

ここに『白樺』が捉えた西洋美術の「意味」が明確に語られている。それをいま朝鮮で紹介する意味についてさらにこう述べる。

  しかし、真に偉大な藝術は普遍的である。美には東西の別がなく、空間を超え、地方
  を超える。美に対して、我々は国境のない、共有の世界で楽しむ。

それは「生気を失った伝統的思想」に対して新しい刺激となる。

  我々はもう一度、正統に自らを批判するために西欧文化に接触するのである。我々は
  こうすることによって、再び伝統的見解にとらわれることなく、東洋の偉大な思想を
  新しい刺激によって理解することができるのである。

柳の考え方は次の一文に尽きる。

  西洋の美を真に知る者が、同時に東洋の美も真に知ることができる人であろう。

柳にとって西洋は、模倣の対象でないばかりでなく、西洋の見方を通して伝統を見直すための装置でもなく、その異質な文化の刺激によって、東洋の伝統を別の視点で見るための触媒である。

ちょうどこの頃『白樺』において柳は初めて東洋美術を挿絵に取り上げ、「今号の挿絵について」に執筆している。ここで先の展覧会についてと同様、『白樺』の挿絵がこれまでも単なる西洋の作品の紹介ではなく、同人にとっての「生長への必要な糧」であり、「吾々自身の心を表現しようとした」ものであったとし、その点で東洋美術の紹介も同じ意味をもつという。

  今迄何人も見なかった東洋の美と真とを新しい目によって共に見る喜びを味わい始め
  た。吾々は全然新な要求からして西洋を見たのと同じ様に、今迄何人も持たなかつた
  目によつて泉洋を見る事を始め出した。眠つていると思はれる過去が、再び現在の生
  長に甦る時期が到来した。そうして吾々は新しく東洋を理解し始めた。然しそれは在
  来の人々がなした様に固定した伝習的な見方によるのではない。それは普遍的な意味
  に於ける東洋の理解、云い換えれば東洋であり乍ら、然も普遍な価値に於て東西の差
  別をすら越える真理の理解である。

西洋を「見る」ことを通じて、固有と思われたもののなかに普遍的な価値が見えてくるというのが柳の確信である。柳は 1910年代のこの東洋対西洋という捉え方から1920年代には民族と藝術の関係へ、さらに1930年代には各地才の固有の文化へと視点を少しづつスライドさせているが、昭和18年正月中浣の日付のある『手仕事の日本』の「後記」には次の言葉が見て取れる。

  吾々はもつと日本を見直さねばなりません。それも具体的な形のあるものを通して、
  日本の姿を見守らねばなりません。さうしてこのことはやがて吾々に正しい自身を呼
  び醒まさせてくれるでありませう。只一つここで注意したいのは、吾々が固有のもの
  を尊ぶといふことは、他の國のものを誇るとか侮るとかいふ意味が伴つてはなりませ
  ん。若し桜が梅を謗つたら愚かだと誰からもいはれるでせう。國々はお互の固有のも
  のを尊び合はねはなりません。それに興味ふかいことには、真に国民的な郷土的な性
  質を持つものは、お互に形こそ違へ、その内側には一つに触れ合うもののあるのを感
  じます、この意味で真に民族的なものは、お互に近い兄弟だともいへるでありませう。
  世界は一つに結ばれているものだといふことを、却つて固有のものから学びます。

この言葉は現在、どのように受け取られるだろうか。

5、眼=直観のはたらき

大正の半ばから昭和の初めにかけて、柳宗悦は、朝鮮の工藝との出会い、陶磁器の蒐集から、木喰仏との出会い、さらには「下手もの」との決定的な出会いへと向かっていく。そのたびごとに、柳の眼は新しい美と出会いっていったが、柳の眼を捉えたのはいかなるものだっただろうか。

朝鮮の工藝に関心を持ち始めたとき、すでに価値が定まった高麗よりも李朝のものに強い愛着を抱いた柳の眼は、たとえば日本の陶磁器に向かったとき、江戸時代のものに関心を向けた。その中でも茶器として注文され作られたのではない志野や信楽、磁器では鍋島ではなく伊万里、なかでも藍絵の猪口を初めとする染付の食器類といった具合である。また時代的にはさらに新しい肥前の方の朝鮮系の窯で作られた大ぶりの捏鉢なども特に柳宗悦の好んだものであった。漆器でいえば精巧な蒔絵よりも漆絵。染織品では丹波布や裂織。以上のものは典型的な下手ものと呼ぶことのできるものであるが、一方ですでに茶人や他の蒐集家が注眼していた秀衡碗や中国の呉須赤絵や古染付、井戸茶碗なども収集品には含まれている。またヨーロッパの中世や中国の漠、唐、宋代のものは積極的に蒐集はあまりしていないが、書かれたもののなかでは、時代全体が醜いものを生みようのなかった時代として高く評価されているの。決して柳は「下手もの」に執したわけでもなく、ときには上手ものを取り上げることもしばしばあった。たとえば沖縄の紅型が王族の衣裳であることは柳も充分承知していたし、そうした例はそれだけに限らない。

むしろ柳が重視したのは「下手もの」かどうかということではなく、ものが何であれ、眼が一貫した眼でものを見ているかどうかということであろう。柳の場合、確かに新しいひとつの価値体系の創造と言っていいほど眼の働きが独自でかつ一貫している。相手が作家の場合でも、柳が特に信頼を寄せたのはそうした眼の持ち主である。それが結果として柳の場合には既存の価値とは相容れない場合が多いのも事実である。古い時代のものほどよしとされる風潮の中で、むしろ江戸期の雑器のなかに美を見出し、そこにこそ日本固有の工藝があるとみたのもそのひとつであるし、陶磁器では「官窯」よりも「民窯」、どこから見ても完璧なものよりもどこか不完全なもの、あるいはきずのあるものにも美を認めた。しかしあくまでそれは結果である。

陶磁器の美ですでに指摘したように、いずれにしても柳宗悦の眼の働きとして著しいのはすべてを同じ地平でみるということである。一例を挙げれば、工藝的な文字として、一方で六朝の文字の拓本を取り上げるかと思えば、他方で将棋の駒の文字を取り上げるというような眼のあり方である。当然それはその背後にある一切の情報をいったん脳離から取り除くという事を意味する。

「物」は「物」であるがゆえに、その背景をいったん払拭してすべてを等しい眼でみることができるとはいえないだろうか。そしてその際既存の価値の体系を一挙に転換することが可能になる。そこに「物」とその「物」を見る「眼」の可能性も限界もある。「眼」(触覚も加えることができる)ももちろん制度化された存在である、しかし、「眼」は「物」を見るとき、そのものにまつわる情報をすべて捨象することができるからこそ、概念に頼らざるを得ない思考、思想の枠組みを一挙に飛び越えて、「曇りのない」眼で見ることもできるのである。「曇りのない」眼など存在しないという意見もあるだろう。柳自身はそうした「眼」を信じていたし、「曇りがない」かどうかはともかく、朝鮮の工藝品や「下手もの」に向けられた柳の「眼」が少なくとも既成の価値観を逆転させるだけの自由さを持ち得たことは少なくとも認めてもいのではないだろうか。

柳はものを見る力において「直観」を「知」よりも上位におく。

  多くの人は見方に純度が乏しい。即ち見るのではなく、考へに支配されて見る場合が
  多い。「見る」ほかに「知る」力が加はつて見るのである。
  純に「見る」事を「直観する」といふが、直観はその文字が示す通り、見る眼と見ら
  れる物との間に仲介物を置かず、ぢかに見る事、直かに見る事であるが、この簡単な
  ことがなかなか出来ぬ。(「日本の眼」全17・434)

柳の眼=直観は何が美しく何が美しくないかを判断する能力であり、対象を見分け、認識する「眼」の通常の働きをむしろ否定したところに成立するいわば「もうひとつの眼」である。

柳が物と出会った瞬間を自身でどのように表現しているか、『蒐集物語』からみてみよう。信楽の流し釉の茶壺の例である。それは近江八幡の道具屋の片隅で、ある秋の夕暮れに柳の眼に入った。

  その時である、店の暗い奥の棚の一隅に、僅か一寸ほどの幅を見せて、黒い壺の胴が
  射るように私の眼に映つた。棚は天井に近いほど高かつたし、物が重なり合つて殆ど
  それを塞いでいたが、私は私の眼を信じた。素敵な品だとすぐ直観した。
  有難いことに、物を見極めるのは瞬時でよい。早い方が寧ろ確かだと云へる。直観は
  直ちに観るの謂ではないか、この力が純であれば間違ひはない。この壺の場合のやう
  に、時としては僅かの片鱗でも、直観を迷はせることはない。別に之とて秘訣はない。
  いつも空手で見ればよいのである。(全16−588)

柳が一方で西洋的な論理を積み書ねた文章を書きながら、理知の働きや分析的な思考の限界を意識し、宗教の真理のうちに二元論的思考の限界を乗り越えようとしたとき、究境語として「即如」を取り上げた。このうち「即」は「すなはち」であって「直下」ということ、「二個のものに間隔の介在を許さない」ということであると柳はいう(2−157)。この「即如を光で示しうるのは宗教の真と藝術の美」のみで言葉では積極的に語り得ない(2−160)。この藝術の美を捉えるのが直観=眼である。確かに眼はときに「直下」な働きをすることがある。眼は一瞬で全体を把握することができるからであろう。柳はそれを直観と呼んだ。眼がときにきわめて自由な働きをするということを、柳は様々な美的経験を積み重ねるなかで、実感していたはずである。また柳に限らず、先入見なしにあるものを真に美しいと感じる瞬間、誰もがそうした眼の働きを感じないだろうか。柳にとっては朝鮮の工藝品や木喰仏との出会いがそうであり、「下手もの」の発見がそうであったはずである。このことを思うとき、柳が宗教哲学の延長上に民藝運動を実践した必然性が浮かび上がってくるのではなかろうか。

この眼の自由さ、直下な眼の働きという点で柳は「初期の茶人たち」を自らの先駆者と位置づけた。柳にはるかに先立ち、「井戸茶碗」の発見によって、それ以前の唐物崇拝からの眼による価値の転換を行ったのが初期の茶人たちであった。「眼」は確かに即時にものを捉える。そこには思想が入り込む余地がない。言葉が常に分別し、分析する手続きから逃れられないのに対し、眼は一挙に全体を捉える。「眼」が「知」の限界を超えて自由に働く、その眼の働きの自由さ、確かさを柳は信じたのである。しかも日本がこの眼の働きにおいて独自の伝統を持つことを柳は最晩年の「日本の眼」という文章で書いている。「完全の美」を指向する「西洋の眼」に対し

  「日本の眼」が深く追つたものは「不完全の美」なのである。之を私は「奇数の美」
  と名附けたい。この美の認識を日本人ほど深く追求した國民はない。

さらに「不完全の美」を柳はこう説明している。

  完全とか不完全とかの二元から寧ろ離脱した様の美こそ、「茶美」であつて、私は寧
  ろ「茶美」の禅語を借りて、「無事の美」と呼びたい。即ち「平常底の美」、「無碍の
  美」と解すべきで、完全にも不完全にも執せぬ「自在美」こそ「茶美」なのである。

それは室町以来の能楽や茶道の発展に由来する「背後に充分な伝統をもった鋭利な眼力」であるが、こうした眼力は美の基準における一種の価値の逆転、さらにいえば新たな価値の創造を本質としているといえよう。かつて柳は、青山二郎が朝鮮で買い集めてきた工藝品で構成された朝鮮工藝展覧会について「青山の創作として一番面白い」と書いたことがある。このいわば「眼による創作」ということについて井戸茶碗を「発見」するというよりも「創作」した初期の茶人のうちに、日本の文化の底に流れる非常に重要な一面を見て取っている。


これほど「眼=直観」の働きを重視した柳であるが、しかし同時に柳は「眼」が「眼」として自足することを最も嫌っている。何ものにも拘束されない「眼」が「眼」として自足するとき、柳が繰り返し批判した、ものを単に弄び、それ以外の何ものにも眼を向けない骨董趣味が誕生する。確かに日本には「高麗茶碗」を発見した初期の茶人たちの眼の伝統というべきものがあり、「物」に対してある種の洗練された眼を有してきたが、それが一方で極端な「物」への耽溺を生み、箱書きを生み、また茶道を堕落させる要因にもなったと柳はみていた。眼が真の自由を獲得することの難しさを柳は知っていたはずである。

それゆえに「眼」を通して美を捉えることだけで決して柳は満足することはなかった。つまり直観を通して捉えられた「美」は常に柳の思想の中で、居場所を獲得されねばならなかった。朝鮮に関しては、朝鮮民族美術館の設立という具体的な事業へ展開すると同時に、朝鮮の美術や工藝品に共通して見て取れる線の美を民族に固有のものと捉え、その歴史と関連づけて「寂しみ」と意味づけたのはもう一つの方向である。このいわゆる「悲哀の美」論がその後批判されたのは周知のとおりである。

いま、朝鮮民族美術館のために柳が蒐果した李朝陶磁器や工藝品を見るとき、それらに示された柳の見方そのものが「悲哀の美」とはむしろ結び付かないことに気付く。柳がこのことに触れてしばしば引き合いに出す高麗の陶磁器は彼の収集品にはほとんどない。李朝の陶磁器の蒐集をみても、柳が好んだと思われるのは鉄砂や辰砂で、全体の印象はむしろ力強い。『白樺』の李朝陶磁特輯の別冊で「私は此壺が好きだ」と述べている蔦模様の壺の線を柳自身「単純な自由な筆致」と呼んでいる。陶磁器以外で柳が高く評価した木工品や石工品も「悲哀の美」とはむしろ遠い特質を有している。またたとえば、李朝特有の壺の形について、「朝鮮の美術」では、安定度が失われ、「地上に置かれるが為の形では」く、「それが朝鮮の婆」としているが、時をおかずに書かれた『白樺』の「李朝窯慢録」では「長い淋しい線」を繰り返しっつも、一斉で「形は高麗のものに比すれば総じてはるかに単純になり力強くなる」としている。柳が「朝鮮の美術」ほかの文章で繰り返し語っている内容とは裏腹に、当時、柳の蒐集がしていた李朝の工藝品は「長い寂しい線」を彼自身が言うほどには特徴としていないように思われる。

鶴見俊輔氏は著書『柳宗悦』のなかで、柳の直観はそれほど誤らないものであったのだろうかという問いを発しているが、実は柳を誤まらせたのは直観ではなかったのではないか。直観が捉えた美を悲哀の観念と結びつけたのは、むしろ柳の当時の朝鮮の置かれた位置に対する現実認識、知識であり、倫理観であろう。柳の直観が捉えたのはあくまで朝鮮の美術の有する美、中国とも日本とも異なる性質を有した独自の美である。美は美にすぎない。誤りが生じたのは、直観が捉えたものを、思想のなかに位置づけるその手続きにおいてではなかったのか。その際には柳の有する様々な「知識」や「感情」が総動員されたであろう。柳の姿勢は常にきわめて倫理的であり、「直観」が捉えた美をよしとするだけの世界では決して生きることはできなかったにちがいない。戦後出版された『今も続く朝鮮の工藝』の冒頭でも「あれほど多くの人々が朝鮮の古作物を愛しているのに、なぜその民族に敬念を抱くことが薄いのであらうか。之が第一に不思議である。心とその暮らしとこそは、どんな場合でもその作物の泉ではないか。物を通して人をも視ることなくば、充分に物をも視てはいないのだと云へるである」と柳は嘆いている。柳にとって物を見ることはそれだけでは終わらず、常にその背後にある何ものかへとつながっていく。

近代藝術の洗礼を受けた柳にとって美は自律した価値であった。しかし美も工藝も、近代絵画や彫刻のように他の何ものからも独立して存在するとは柳は考えていない。柳の非常に倫理的な姿勢と相俟って、直観が捉えたいわば白紙の美を思想や現実の社会の中に位置づけようとする力が柳にはいつも強く働いている。柳にとって美は動かしがたい事実であるが、その美の存在理由を柳はどこまでも問い続けるのである。「民藝」が見出されたとき、美術館の設立や工藝の協団の組職を通して、柳は一方で工藝を社会性のなかで捉え、民藝運動として展開していったが、きらに他力という宗教の鐘と結びついたとき、「下手もの=工藝」の美は、にわかに決定的な存在意味を有し始めたのではなかろうか。

6、下手ものと他力道

柳は「下手ものの美」を次の文章で書き始めている。

  無學ではあるけれども、彼は篤信な平信徒だ。なぜ信じ何を信ずるかさへ、充分に言
  ひ現はせない。併しその貧しい朴訥な言葉の中に驚くべき彼の体験が閃いている。手
  には之とて待ち物はない。だが信仰の真髄だけは握り得ているのだ。彼が捕へずとも、
  神が彼に握らせている。それ故彼には動かない力がある。
  私は同じ様な事を、今眺めている一枚の皿に就ても云ふ事が出来る。それは貧しい
  「下手」のものに過ぎない。奢る風情もなく、華やかな化装もない。作る者も何を作
  るか、どうして出来るか、詳しくは知らないのだ。信徒が名号を口ぐせに何度も何度
  も唱へる様に、彼は何度も何度も同じ轆轤の上で、同じ形を廻しているのだ。……無
  心な帰依から信仰が出てくる様に、自から器には美が湧いてくるのだ。

ここで信仰の徒と下手ものは完全にパラレルな関係に置かれている。

 『工藝の道』の序では次のように述べている。

  想へばここに現れた一つの思想に到達する為に、十有余年の歳月が其観察と内省との
  為に流れた。そうして過去一カ年の間休む折りもなく筆を続けた。私には眞に追ふに足
  りる意味深き問題であると考へられた。だが或友達はなぜ私が宗教への思索を離れて、
  かかる奇異な問題に外れたかを嘆いてくれた。昔に帰る様にと同じく忠告してくれる
  人々が他にもあるであらう。私は其志を嬉しくは受けるが、此書を読まれるならば大
  方の誤解は解け去るであらう。私は宗教の真理に懶惰であつたのではない。工藝と云
  ふ媒介を通して、私の前著「神に就て」に於て漸く模索し得た最後の道、「他力道」
  の深さと美しさとをまともに見つめたのである。従つて工藝を物語つてはいるが、私
  としてみればやはり「信」の世界を求める心の記録である。

その『神に就て』の「第七信 神の愛と救ひとに就て」で「神の救い」について柳はこう語っている。

  私たちは啻に自らに於て救ふ力がないと云ふ事を自覚すべきのみならず、更に救はれ
  る資格があるから救はれるのではないと云ふ事を内省せねばなりません。

『工藝の道』は昭和2年4月号の『大調和』から連載が始まっている。柳はここに到達するまでに「十有余年」を要したと述べているが、確かに「我孫子から 通信一」に記された陶磁器の「型状美」への注目から数えれば10年余りが過ぎたことになる。この「下手もの」と「他力」の関係に至ってようやく柳の直観=眼は自身の思想と最終的な結合を果たし得たようである。工藝のなかに見出された「他力の道」がすなわち「工藝の道」である。そして宗教的真理が見出されたとき、初めて柳の蒐集してきた「物」は明確に「下手もの」あるいは「民藝」と名付けられたのである。その意味において「下手もの」の発見は柳にとって同時に宗教的真理の発見であり、思索を越えた宗教的経験であり、美の側からいえば、柳を引き付けてきた美を支える根本原理の発見であった。「民藝」の発見は柳にとってはまさに奇蹟の経験にも準ずる、ひとつの宗教体験であり、超越的なもの、この世に潜む不可思議の決定的な「味識」というべきものであっただろう。確かに柳の精神には、漠然とした永遠なものへの憧れ、「晴れた晩に大空を眺め天体に見入る時、私達は何か大きな存在を感じる。それと同じ様な感じがホヰットマンにあつた」と述べているような感情が早くから芽生えていたにしても、それは「感じ」にすぎなかった。柳の宗教哲学は、手続きとしてあくまでも言語による論理的は手続きを踏んでいた。しかし「民藝」の発見は「感じ」ではなく、「体験」であり、このとき柳宗悦の宗教哲学はひとつの闇を越えたのだといえよう。柳が工藝研究と宗教哲学の研究が一つであると述べた真の理由はここにあると思われる。柳宗悦の宗教的体験は、「物」を通して、「即」にはたらく「眼」のはたらきによって成就された。片隅で埃をかぶった「物」がその「あるがまま」の存在において内側から光を得て輝き出す瞬間に柳は立ち会ったのである。柳にとってはこの「あるがまま」の「物」こそ初まりであり終わりであった。


柳が「民藝」を発見する過程を柳自身のうちに辿っていくと、確かに「民藝」は柳の創り出した「神話」だったのではないかという言い方もできるだろう。近代を経、さらに近代をも超えようとする知性にとって「神話」ほど胡散臭く、解体すべきものもないのである。しかしかつて「神話」の中にこそ豊穣な創造の物語は包まれていた。神話の解体を行う前にいったん立ち止まり、柳の「神話」が創造の物語を真に紡ぎ得たのかどうか柳はなぜ「神話」を創造するに至ったのかを徹底して問うこともできるのではないだろうか。

(三重県立美術館学芸員)

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