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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1997 > 柳宗悦の「美の思想」について 酒井哲朗 柳宗悦展図録

柳宗悦の「美の思想」について

三重県立美術館長
酒 井 哲 朗

1、はじめに

柳宗悦の父楢悦は、幕末に津藩から長崎の海軍伝習所に派遣されて、勝海舟や榎本武揚らとともに、造船学、航海術、砲術、測量術、数学などを学び、維新後は新政府で近代海軍の基礎づくりにあたった明治国家の功労者である。とくに水路調査や治岸測量、水産資源の研究に功績があったが、一方、和算の大家であり、書画、歌、茶、料理など豊かな趣味人でもあった(鶴見俊輔『柳宗悦』平凡社、昭和51年)。柳楢悦は、宗悦が数え年三才の時病没したが、宗悦は楢悦を誇りとし、青年期に父の伝記を書いた。宗悦もまた西洋学の基礎の上に東洋の思想や藝術を研究して、独自の「美の思想」を築いた。

柳楢悦が津藩士であったという地縁を理由に、「柳宗悦」展を三重県立美術館の15周年記念とするが、それは美術館が全力をあげて取り組むに値する企画を実行するための口実にすぎない。柳宗悦の「美の思想」は、近代日本で生まれた思想のなかで、きわめて独創性に富み、いまなお魅力を失わないもののひとつである。柳は、民衆的工藝というものに着目し、藝術と宗教と哲学が一致する美の世界を構想して、大胆な価値転倒を行った。柳の思想の特色は、物や人など具体的な事物に基づき、きわめて実践的な性格をもつことである。

柳宗悦の思想は「民藝」に集約され、この理念に基づいて展開された民藝運動は大きな広がりをもった。しかし「思想」と「現実」は必ずしも一致しない。民藝運動は、ある時期から柳の「民藝」の思想を逸脱したとさえいえる。まずはじめにいっておきたいのは、この展覧会のテーマは、「民藝」ではなく「柳宗悦」そのものであるという点である。そのため、柳宗悦の行実を、物の側から構成してみたいというのがその意図である。

2、生命論

柳宗悦は、思索とその実践を、主として生涯の前半は『白樺』、後半は『工藝』や『民藝』に拠って展開した。このように同志的結合に基づいた、自ら創設にかかわった、主義主張や立場の明らかなメディアの中で、啓蒙的立場から終始論説を繰り広げた点は、柳の行動様式の特色である。

 『白樺』は、明治43年に学習院出身者によって創刊された。武者小路実篤、志賀直哉、正親町公和、木下利玄らの学年の『望野』、その下の里見弴、園池公致、田中純らの『麦』、さらにその下の高等科三年だった柳、郡虎彦らの回覧雑誌『桃園』が合流し、有島武郎、生馬、児島喜久雄らが加わって『白樺』が生まれた。『白樺』同人たちは、当時支配的だった日露戦争の戦勝ムードのなかから台頭した国家主義の風潮に批判均で、学習院というエリート集団のなかの異端児であった。彼らは個の確立とコスモポリタニズム、人道主義を主張して、西洋の文学や藝術の新思潮を紹介した。美術の分野では、ロダンや後期印象派の紹介などの功績がよく知られている。

『白樺』同人のなかで、柳の役割は、年齢も違い、それぞれに個性的な同人たちのなかで、年少ながら調停役を果たしていたことが、同人たちの回想のなかから窺われる。また、雑誌『白樺』を通じて、柳がすぐれた編集者であり、展覧会の企画者であったことが知られる。さらに、海外の思想や藝術の動向の紹介には、柳のすぐれた語学力と学者としての能力が大きかったことは重要な事実である。

柳は『白樺』誌上で科学、宗教、哲学、藝術などについて精力的に論じたが、柳の思想は、その初期からユニークである。柳は、『白樺』創刊の明治43年から翌44年にかけて、心霊現象に関心をもち、「新しき科学」「メチニコフの科学的人生観」などの一連の論文を書き、それらを『科学と人生』(籾山書店、明治44年)と名づけて単行本にまとめた。

柳は、「人間とは何か」という問題は生物学によって、「物質とは何か」という問題は物理学によって、「心霊とは何か」という問題は心理学によって、それぞれに解答が碍られると考え、新しい科学に期待を寄せた。この試みはその後断念されるが、柳は、ロシア生まれの生理学者エリ・メチニコフの著作を紹介した「メチニコフの科学的人生観」に、彼自身の注目すべき論評を加えた。

「今の世に於ては老人は寧ろ社会の重荷を増すが如き観がある。然しこの人性の研究に従へば順生涯を送る人は死に至る迄健全なる肉体と精神とを保持するのである」(『白樺』明治44年9月号)。

柳のいう「順生涯」、すなわち「自然なる充実の生涯を経て死の本能に至る」この「順生涯」において、人生の意義は充たされるのであり、その基礎となるのが「健康」である。「健康」を害する一切の障害は、「順生涯即ち個性の充実」に対する「不倫」の行為だという。この「順生涯」すなわち「自然なる充実」と「健康」は、柳の思想の根底をなす概念である。

柳は、同じ頃、ロダンについて諭じ、「自然は常に完全である」と考えるロダンの自然に対する「崇仰」の念は宗教家のものであり、ロダンにとって、自然は抽象的実在の具体化であり、彼の彫刻は、「高遠なる万有神教(Pantheism)」の思想の具現であるという見解をのべている (「宗教家としてのロダン」『白樺』明治43年11月号)。

明治44年4月に高村光太郎の経営する画廊琅かん洞で開かれた山脇信徳の個展の作品を有島生馬が賞賛したのをきっかけに、これを批判Lた木下杢太郎と山脇、武者小路らとの間に「生の藝術」論争がおこったが、柳は、明治45年1月号の『白樺』に、ルイス・ハインドの『後期印象派』を底本にした「革命の画家」を発表し、武者小路への献辞をつけて加勢した。セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マティスらを「革命の画家」とLて紹介し、彼らは「常に生ける生命の画家」であり、彼らこそ真の藝術家、大なる天才であるという。

柳は、「美とは藝術の目標に非ずして、自己の表現こそは其目的である」と、当時流布したハインドの言葉を援用するが、「然も藝術が人生の厳粛なる全存在の表現たる限り、そは常に真にして美である」と解説する。人格の全存在が充実するのは、「実在経験」においてである、と彼は続ける。「実在経験」とは、「物象が吾に於て活き、吾は物象の裡に感じ、両者主客没したる知情意合一の意識状態である」という。自然と自己がひとつの韻律のなかに漂う時、彼は具象約実在そのものとなり、それは「神に於て活きる人」であり、「物如を捕らえ人」でもあり、偉大な藝術はここに生まれるというのだ。

永井潜の『生命論』(洛陽堂、大正2年)の対論として著した「生命の問題」(『白樺』大正2年9月号)は、ベルグソンの生命論などの影響下に書かれた論文(熊倉功夫「解題『全集』第1巻)であるが、機械論の主張者シェーファーが「生」と「死」を対立的にとらえる点を批判し、「死」は「生」の一変化に過ぎず、「生」の対辞は「物資」であると指摘する。生命と物質の二元は排除しあう関係ではなく、相互依據して、「一個の価値的存在即ち意味の存在である実在の世界を求める、「二元的一元論」を主張するのである。自然界や生命現象は、機械論の分析的方法によっては決してとらえられないとし、もっとも深い生命の表象、すなわち実在の世界の例証として、ブレークの詩句やゴッホの糸杉の絵をあげる。

3、エマソン・ホイットマン・ブレーク

柳宗悦の思想形成の過程で、深い影響を受けたのは、ラルフ・ウォルド・エマソン、ウォルト・ホイットマン、そしてウイリアム・ブレークである。柳は、中学時代の教師服部他之助から多大の感化を受けたという(「恩師服部先生」『全集』第一巻)。服部は敬虔なクリスチャンで、柳に「神のことや自然のことに就いて、色々不思議な真理」を語り、柳に「浄いもの尊さ」を最初に教えてくれた人で、彼が宗教に心を傾けるようになったのは、服部の薫陶によるものだといっている。服部の愛読書がエマソンの『自然論』で、柳もこの書に親しんだ。柳の初期の論文にはエマソンの言葉がしばしば引用され、エマソンの直観の詩と哲学をもち、直観によって神と交わるべきだという考えは、確実に柳に継承されている。

ホイットマンを知ったのも中学時代で、「晴れた晩に大空を眺め天体に見入る時、私達は何か大きな存在を感じる。それと同じ様な感じがホイットマンにあった」と回想している(「ホイットマンに就いて」『全集』第五巻)。柳の思想のキーワードとなる「健康」「自然」「平凡」「日常」などに、ホイットマンの「神聖なる尋常」の思想が先行している。阿満利麿は『柳宗悦 美の菩薩』のなかで、柳がホイットマンから得たものは、「友愛」と「人間と地上的なるものに対する絶対的肯定」であった、と指摘している。柳は、エマソンやホイットマンから、人間や自然に対するオプティミズムを学んだようである。

柳は、明治39年17歳の頃、郡虎彦のすすめによってブレークの『無垢の歌』を読んでいる(由良君美「柳思想の始発駅『ヰリアム・ブレーク』」『全集』第四巻)。明治42年に来日したバーナード・リーチがイエーツ編『ブレーク詩集』を読ませことによって、柳はブレークに夢中になる。「天国と地獄の結婚」に感動し、『「ヨブ」記挿画集』を手に入れて、画家としてのブレークを知るに及んで、柳はブレークに熱中し、大正3年に大著『ヰリアム・ブレーク』(洛陽堂)として結実した。

同年暮れ、柳は、「我孫子から 通信一」(『白樺』大正3年12月号)のなかで、「自分は始めて仕事らしい仕事をしたと云ふ感じがした」と書き、「ブレークに接してから自分には1つの広汎な生命の領野が開展された、之は過去に受けた自分の最も厚い恩寵の一つだ」と語っている。

ブレークは、天国とともに地獄を認め、精神とともに肉体の価値を是認し、善とともに悪の行為も許容し、あらゆる対立が意味をもつと考える、二元的一元論の立場をとる。柳によれば、ブレークの哲学の核心は「想像」の概念である。「想像」は空漠とした夢想や未和の世界、未来の現象を推察する心理状態のようなものではなく、ブレークの認識論の根底であり、「想像の世界とは彼にとって、神の世界又は事物の根本実在を意味していた。自然の奥底にひそむ真の生命即ち物如の世界に外ならなかった」(『白樺』大正3年 4月号)と柳はいう。

「想像」の世界とは、自我と自然、心と物が互いに触れ合って渾然としてひとつになった時、そこに出現する純粋な生命の価値的世界、即ち実在の世界、言い換えれば神の世界である。あらゆる存在が神聖であり、人間のなかに神性があり、その神性の故に人は神と合一できる。したがって人間にとってもっとも大切なことは、自己の生命の実現である。人は自己を完全に拡充させる時、神人合一の世界が出現する。

また、直観の重視は、柳がブレークから学んだ重要な点である。ブレークは、近代の知性偏重の思想によって「有機的全人」という人間本来のあり方が損なわれ、「生命の完全な調和」が失われたと考える。そのため知性によらない直観による認識を主張する。直観とは、主観と客観、自我と自然、心と物、神と人など二元的対立をこえた純粋な意味の世界、即ち「実在の直接経験」である。

また、柳は、ブレークの絵画から受けた影響について、次のようにいう。

「微細なものに対する自分の一々の驚愕は彼の精緻な精神によって表現された様々な装飾図案を通して自分に与えられた。枝に沿う線条、花葉の形態又はその多様な旋律的連動は人間の無辺な情趣さえ自分に暗示してきた」(「我孫子から 通信一」『白樺』大正3年12月号)。

柳は、ブレークの絵画の線と形(フォルム)の深い情感について、自分は画家に生まれてこなかったけれども、この喜びをいつか自分の思想に表したいという。同じ文中で、彼が新たに見いだしたもうひとつの喜びは、磁器に現れた形状美(shape)だと語り、「之は全く朝鮮の陶器から得た新しい驚愕だ」と書いているのは、注目に値する。この「微細なもの」に対する感動が、朝鮮陶器の美の発見につながりさらに民藝美に発展していくことになる。

4、哲学的思索

翌大正4年に、柳は、彼の「哲学的信仰を披瀝する最初の論文」と位置づけた「哲学的至上要求としての実在」を発表した(『白樺』大正4年2月、3月号)。柳は、その序において、究理の衝動を殆ど全く藝術及び宗教から得ており、人々が傍系として顧みることのない神秘思想家に限りない真理を発見したことをのべ、自由な思考を可能にした哲学者としての異端的経歴を名誉として、哲学と藝術と宗教を三位一体とする理想を語る。そして「実在」即ち「神」こそが「哲学的至上要求」であるという。生命の本質は、向日性であり、向日葵が太陽に向かうように、実在への思慕が哲学の世界であることを主張する。

柳によれば、神は透明であり、実在の世界は透明の世界である。思慕の喜びは、この透明の喜びである。愛は最も純一な感情であり、透明な愛において我々は透明な神に一致する。柳はエマソンを引用して、自然の美に至悦を感じる時、「余は透明な眼球となり、余は無有になり、万有を見、普遍的実体の大流は余の裡を貫流し、余は神の一部またはその一分子となる」という。

「実在」の問題は、必然的に「神」の問題を招く。柳の「神」は、特定の神ではない。柳は、既成宗教の宗派や教義の独善を否定して、多くの宗教はそれぞれの色調において美しさがあり、世界を単調から複合の美に彩っているといい、それぞれの存在を認める。しかし、神と人が直接交わることを第一義とし、このような信仰のあり方を西洋中世の神秘主義思想に見いだす。柳は、歴史的宗教から個人的宗教への転換が、現代の要求であり、未来への発展であるという(「個人的宗教について」『帝国文学』大正6年(11月号)。

柳が「無」の再認識を論じた「宗教的『無』」は、彼の宗教観をよく示している。「無」は言葉によって表せない絶対的真理、真偽の言葉すらない未生未成の世界、あれでもななくこれでもないという否定の形式でしかいい表せない、わずかにいい得る最後の言葉だという。柳は、この文字をこえた真理の深さを、禅の教外別伝、聖女ラピアのnon-such、老子の無名または無為、ディオニシウスの暗黒、聖フランチェスコの聖貧、十字の聖ヨハネの暗夜などの言葉が、それぞれに「無」の心を伝えているという。

柳によれば、「無に於ては何ものの人為もない。凡てが自然のままである。ありのままにして完璧である。自然さの極みである。交へ得る作為がない。何事も為さずして凡てがなされてある。『無』は至上である。即如と一乗不二であるものが『無』である」。

「実在」「神」「無」などと形容した絶対者を、柳は「宗教的究竟語」(『白樺』大正6年4月号)において、「即如」という。「即如」は、一切の対辞を許さない自由自律、いかなる立場による理解を許さず、ただ直観や啓示によるしかないもの、論理的をこえた主客未分の真理、いかなる範疇にも容れざる無限であり、遂に言い得べき言葉をもたず、沈黙がもっともふさわしい。「即如」を、光として示し得るのは宗教の信と藝術の美のみであり、藝術は、直下に「即如」を暗示するというのである。

5、朝鮮の美術

柳の「美の思想」は、朝鮮の美術との出会いによって 回心ともいうべき劇的な進展をみせる。大正3年9月、『白樺』の愛読者であり、彫刻を学んでいた浅川伯教が、ロダンを見るため、《李朝秋草面取壺》など数個の朝鮮陶器を持参して柳を訪ねた。二か月後『白樺』に掲載された「我孫子から 通信一」には、先述のような朝鮮の美術に対する感動が語られている。大正5年夏、柳は朝鮮に旅行して浅川伯教、巧兄弟と二週間ともに過ごした。この時柳は、仏教美術の遺跡や美術工藝品を見て、深い感銘を受けた。柳と朝鮮美術の出会いは、この浅川兄弟を抜きに語ることはできない。 兄伯教は、教員として朝鮮に住み、朝鮮の工藝を研究するかたわら、彫刻家を志していた。大正8年に伯教は東京に出て新海竹太郎に師事し、《木履の人》(大正9年)が帝展に入選するが、三年後体力の限界を理由に彫刻家を断念して朝鮮に帰り、朝鮮陶機器の研究家となり自らも制作した。弟巧は林業試験所(現韓国林業研究院)の技師であり、この分野の篤実な功績が評価されている。巧は朝鮮の自然や人々の生活や文化を愛し、朝鮮語を学び朝鮮人と同じ生活をしようとしていた。自然との交歓のうちに労働を楽しむ巧の人がらと暮らしぶりに、柳は心を打たれたようである(高崎宗司「朝鮮の土になった人-浅川巧評伝」『思想の科学』昭和54年9月~同55年1月)。

「何よりも朝鮮のものを知る機会を得たのは、浅川伯教、巧の兄弟を知ってからだった。京城の阿ひょん里(あひょんり)にあった巧さんの家に泊めてもらった時から朝鮮の民藝の美へ大きく目を開いた」(『親和』昭和29年3月)と、後年柳が回想している。この帰塗、柳は北京にバーナード・リーチを訪ねた。リーチは、大正元年秋の柘殖博覧会で朝鮮陶機器に心を奪われ、宮本憲吉にその感動を語っており(『美術新報』1912年12 月号)、親交のあった柳にもその情熱は伝わったと思われるが、この時点では、柳自身はまだ朝鮮陶磁器に十分心を開いていなかったいえよう。

大正8年3月、朝鮮で独立運動がおこり、日本政府の弾圧に心を痛めた柳は、同年5月20日から24日まで、読売新聞に「朝鮮人を想ふ」を連載する。朝鮮の人々とその美に対する敬愛をのべ、日本政府を批判したもので、彼の朝鮮についての最初の言及であった。翌大正9年の「朝鮮の友に贈る書」(『改造』6月号)では、「私は此頃殆ど朝鮮の事のみに心を奪われている」と書き、五月には声楽家の兼子夫人とリーチを伴って朝鮮に渡航し、音楽会や講演会を開いて 彼らの朝鮮の人々や文化に対する思いを伝え、激励した。この頃から、柳の朝鮮に関する著述が多くなる。また、朝鮮総督府の光化門の取毀しに反対して、「失はれんとする一朝鮮建築の為に」(『改造』大正11年9月号)という文章を発表して世論を喚起し、移転にとどめたことはよく知られている。

柳は浅川らと図り、朝鮮の人々の尊厳を具体的事実として表明するため、朝鮮民族美術館建設を構想し、柳は大正10年1月号の『白樺』に、「朝鮮民族美術館の設立に就いて」を掲載した。

「如何なる意味に於ても、私はこの美術館に於て、人々に朝鮮の美を伝へたい。さうしてここに現れる民族の人情を目前に呼び起こしたい。それのみならず、私は之が消えようとする民族美術の消えない持続と新たな復活との動因になる事を希ふ」と言明する。

柳らは朝鮮民族美術館実現に向かって積極的な活動をはじめた。同年五月に神由の流逸荘で朝鮮民族美術館展、翌大正11年『白樺』9月号別冊を李朝陶磁特輯とし、10月に京城で李朝陶磁器展を開いた。彼らは身銭を切り、活発な募金活動を行い、こうして大正13年4月、京福宮内の緝敬堂に朝鮮民族美術館が開設された。  柳は朝鮮の美術工藝を高く評価し、深く愛して、それらについて多くを語った。そのなかで、大正11年の『新潮』に掲載された「朝鮮の美術」における柳の論述が、しばしば批判の対象となった。朝鮮の美の特質を、線描における曲線と色彩における白という形式に求め、そこに「悲哀の美」「哀傷の美」をみるという見解である。実際、朝鮮の美を一義的に「悲哀」や「哀傷」によって規定するには無理があるし、柳自身修正している。

この見解は、この時期の柳の心情の投影としてみられるべきであろう。柳は、「死と悲しみに就いて」(『女性改造』大正 12年11月号)という文章のなかで、こどもを抱いた母親が、追手を逃れて素足のまま必死に逃げまどい、観音の衣にすがって救いを求めた時、観音は自らの涙でこの母子をくるんでやったという話を紹介し、追手を「死」になぞらへて悲しみの涙を聖化している。幼年期からしばしば肉親の死を経験した柳にとって、死とのその悲しみは親しい感情であった。「悲哀」や「哀傷」は、柳にとってもっとも深い感情であり、柳の目には、朝鮮の美術は、日本の軍国主義という追手に追われた母子にみえたのであろう、と推測する。

柳は、政治というものを信じなかった。柳が信じたのは、美とそれを生みだした人間である。だが、日本の朝鮮併合と同化政策は、ひとつの民族を消滅させる企てであり、あのファシズムの圧制下における朝鮮民族とその文化の擁護は、極めて危険なラディカルな政治的行為である。大部分の日本人が沈黙を守るなかで、このような希有の現象が生じたのは、柳の「美の思想」というものが、非政治的であるが故の逆説であろう。柳は、政治的国家としての朝鮮が存続しなくなった後も、そこに独自の民族と文化があると考えた。

昭和15年の沖縄における標準語問題の場合も同じである。柳は、画一的な標準語教育によって、方言とそれをささえる豊かな固有文化が衰弱することを警告したのであって、政治問題化したのは、行政当局であった(『全集』第十五巻)。

鶴見俊輔は、「近代ヨーロッパを主に見つめていたこの『白樺』に創刊十年目の1919年に入って一つの転機があった。その転機が、朝鮮美術への関心だったということは、注目にあたいする」(「失われ転機」『全集』第六巻)と指摘する。この年七月号の挿絵に法隆寺金堂壁画などの東洋美術がはじめて登場し、やがて朝鮮の美術も紹介されるようになる。鶴見は、そこに『白樺』の運動のひとつの転機をみとめ、日本の近代思想における転機をみる。それはつまり、もっぱら西洋を見つめ、泉洋の伝統として中国文化しか見てこなかった日本文化の主流に対する転機である。

平凡な工人がつくった日常の雑器が何故美しいのか。朝鮮の美術が柳に与えた命題は、彼の思想に転換をせまるものであった。柳は、「天才崇拝とは自己の裡に潜む天才の追求である。種子には花に対する渇仰がある。彼自らの裡に既に花が宿るからである」(「我孫子から通信二」『白樺』大正4年9月号)といったが、朝鮮の美術は、天才とは無縁の人々が日常的にただ使うためにつくった器物である。柳は、ホイットマンの「神聖なる尋常」、ブレークの「無垢Innocence、西洋中世の隠者たちの行実などに啓示を受け、禅や浄土教の思想に自らの根源を求めて思索を重ね、柳は、朝鮮の工人たちがつくる日常生活の器物のなかにこそ、美と生活が一致した真の美があることを確信したのであった。

6、木喰仏・民藝・民藝運動

大正13年1月、柳は浅川巧とともに山梨県池田村に朝鮮陶磁のコレクションを見学に行き、そこで木喰仏に出会う。彫刻の法や格にとらわれない大胆で自由な、信仰がじかに表現されたような微笑仏に、柳は瞬時に魅了された。以来約二年半、生地の山梨県からはじまる本州全域にわたる集中的な木喰上人研究によって、その事蹟やおびただしい仏像の所在が明らかになった。木喰五行上人は、僧名行道といい、享保13年甲斐国に生まれ、 45才の時常陸国木喰観海上人より木喰戒(肉食、火を通したもの摂らない)を受け、56才にして全国行脚を発心した。真言僧でああった木喰は、昼は医療を施して人々を助け、夜は千体をこえる仏像を刻んで供養し、93才(柳は83才説)で示寂したと伝えられる。

柳は、木喰仏は、無学なものにも貧しいものにも、仏のよき友達であり、ただ親しげに交わり、「上人は民衆に仏教を贈った」と表現している。この素朴で健康な、そして濃密な宗教性をもつ仏像に、李朝陶磁や「下手物の美」に通じる美を発見した。

「民藝」という用語は、柳が河井寛次郎、濱由庄司と紀州へ木喰調査の旅に出かけ、津への車中で、彼らの間で使っていた「下手物」に代わる言葉として、「民衆的工藝」を略した「民藝」の語をつくったいう。翌大正15年1月に「日本民藝館美術館設立趣意書」を起草し、四月に富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司との連名で、「日本民藝館美術館設立趣意書」を発表した。

柳は、以前リーチや富本を通じて陶藝に親しんだ。河井は東京高等工業窯業科で濱田の先輩であり、学枚時代からの親友だった。河井は京都市立陶藝試験所に入り、濱田もその後を追い、ともに陶藝研究に励んだ。大正6年に河井は清水六兵衛の釉薬顧問になり、その後五条坂の清水六兵衛の窯を譲り受け、鐘渓窯と名づけ意欲的な制作をはじめたが、大正10年に柳らが開いた朝鮮民族美術展を見て、李朝陶磁の美と柳の眼識に衝撃を受けた。濱田は大正7年に神田流逸荘の個展でリーチを知り、翌年我孫子にリーチの窯を訪ねて柳に会っている。濱由はリーチのセント・アイヴス窯を手伝い、英国で古くから一般家庭で使われていたスリップウェアや日用の各種ピッチャーに関心をもった。大正13年に帰国した濱田は、河井と京都で古道具屋や窯跡を回り、日本の雑器に注目していた。

こんな時、京都に移住した柳と濱田、河井の親交がはじまり、これに奈良県安堵村に住んでいた富本が加わった。彼らは木喰仏の蹟を訪ね、京都の古物商や朝市を渉猟した。柳は、「下手物」という言葉をこの朝市で知り、「上車」に対し「下手」という、ありふれた安物の民器や雑器をさすこの俗語を好んで使った。無学で貧しいが、信仰の神髄を握った篤信の平信徒のような一枚の皿、それを「下手」に喩える。しかし柳は、民衆的工藝を正しい工藝美として啓蒙活動を展開していく上で、新しい定義が必要と考え、「民藝」と呼ぶことに決めた。

柳は、「日本民藝美術館」を設立し、民藝の「正しき美の標準」を実物によって示そうとした。あわせて工藝美の理想を追求するため、ギルド組織による新しい制作集団の結成を構想し、翌昭和2年に「工藝の協団に関する一提案」という自筆の小冊子を知友に配布した。「修行  Discipline 自力道」「帰依 Surrender 他力道」「協団 Communion 相愛道」の三段階を経て、真の「工藝道」をめざすという、理解と相愛に基づいた民主的な工人の共同体のイメージであり、ジョン・ラスキンの「聖ジョージ組合」やウイリアム・モリスの「モリス商会」をさらに発展させたものを考えた。この構想は、翌年、青田五良や黒田辰秋らによって「上加茂民藝協団」として実現するが、組織内郎のトラブルによって、2年ほどで解散した。

柳は、昭和2年4月、武者小路実篤が編集する雑誌『大調和』創刊号に「工藝の道」の連載をはじめた。昭和3年正月号まで 9回にわたったこの著作は、「雑器の美」や「下手物の美」などで主張してきた、無名の工人による日常の雑器に美を見いだす、彼の工藝理論を総合的に論じたもので、同年12月に手を加えて、単行本として刊行された。柳は工藝を論じるに当って、自らの立場を、科学的とか、歴史的とかの立場によらない、立場なき立場、いわば「無」のごとき絶対的立場、すなわち「直観」によることを前提とした上で、従来「美術」Fine Art によっておとしめられていた「工藝」Craftにこそ「美」にいたる真実の道があり、まことの工藝の道は「民藝」にあることを論じている。

「用」と「美」が結ばれる工藝は、日常の実用に耐える謙遜、誠実、着実、堅固な性質をもたなければならない。したがって、工藝の美は「奉仕の美」「健康の美」である。また、工藝は人々の生活を暖める伴侶であり、「親しさの美」をもつ。工藝は、凡夫さえも美に携わることができる他力道である。小さな自我を棄て自然の大我に活きる時、自然は彼らを救う。工藝の美は、自然の与える資材にしたがう「材料の美」であり、長年培われた伝統の驚くべき業が生みだす「伝統の美」である。そこには手仕事が生みだす豊かな地方色があり、多くの器物をつくる単調な反復がもたらす「多の美」、人々の共同作業による「協働の美」があるという(「工藝の道」『全集』第八巻)。

無名の工人がつくる平凡な器物が何故美しいか。その根拠を「凡夫成仏」という仏教思想に求めたのは、柳の創見である。彼は、親鸞の『歎異抄』にその着想を見いだしたという。念仏を唱えればだれでも阿弥陀仏に救われるという法然の思想を、親鸞は、たとえ悪人といえどもそのままで救われるというふうに深めた。凡夫を工人に置き換え、救いを美の実現とみなせば、民藝の美が説明できる。柳は、「工藝の道」において、地上に咲く浄き蓮華を浄土の花と呼び、地に咲けよと天から贈られたその花の一つが「工藝」であるといい、「民藝」の目的は、何でもない日常の器物がそのまま美となり、それらの美が人々の日常の生活に活きて、「美が厚く此世に交る」、他力道による「美の浄土」の実現であるというのだ。

柳は、「私の念願」(『工藝』昭和8年2、3月号)のなかで、宗教的原理をもっとつきつめて美の問題に当てはめたい。第一に、美しさとは何かを考えぬきたい。第二に、どんなものが美しいか、「物」に即して指摘したい。そして、美しさの法則、すなわち美の標準を立てたい。美について、理論的に語るだけでなく、それを具体化したい。そのために、まず、美と生活を一つに結ぶこと。実際に器物を生活のなかで使うことによって活かすこと(例として、初期の茶人をあげる)。正しい器物を生みだす道を見つけること。それには、第一に、正しい作家を見いだすこと。第二は、地方の伝統民藝を紹介し、それを守ること。第三に、新しい民藝運動を興すこと、をあげている。

後述するが、美について、柳は考えぬいた。後者については、昭和6年に雑誌『工藝』を創刊し、昭和9年に日本民藝協会(会長柳宗悦)設立、『工藝』を協会の発行とし、昭和11年には、東京駒場に待望の「日本民藝館」が設立された。昭和14年から『月刊民藝』(昭和17年に『民藝』に改題)が刊行され、「日本民藝館」はおびただしい民藝品を集積し、民藝運動の拠点となり、北海道、東北、九州、沖縄など全国各地の民藝をくまなく発掘し、海外と交流した。『工藝』や『民藝』には、民藝理論や各地のすぐれた民藝や民藝に関する情報が豊富に掲載された。出版活動も活発で、芹澤銈介の装本による美しい 『工藝』のようなものも生みだされた。

柳は、民藝における個人作家のあり方を僧侶と信徒の関係に喩える。リーチ、富本憲吉(のち離反した)、河井寛次郎、濱田庄司ら創立以来の工藝作家に、黒田辰秋、青田五良、芹澤銈介、棟方志功、外村吉之助、船木道忠、及川金三、柳悦孝らが続いたが、「民藝」の作家が大作家として、日本の美術の制度のなかに取り込まれていくことになった。「僧侶」が栄光に包まれ、「信徒」と乖離するという現象が生じた。一方、民藝運動の広がりによって、柳本来の意図と異なった、民藝趣味といわれるような「民藝」の大衆化がおこり、「下手物」のアウラ化という逆転した事態が生じた。

柳の協団の構想は、上加茂民藝協団によって早々に挫折した。しかし、柳は、協団は理念であり、ここにはあるべき正しい生活があり、協団自体は「無謬」であるという(「工藝と協団」『全集』第八巻)。同じ文章で、柳は「工藝の無謬」を説いている。分別心に迷う「誤謬の私」を放棄して他力に委ねれば、「美の浄土」に運んでくれるというのである。

7、美の法門

戦後間もなくの頃、柳はすぐれた民藝品を「妙好品」と呼びはじめた。彼は、昭和20年に学習院時代の恩師鈴木大拙から贈られた『日本的霊性』(1944)のなかで、「妙好人」の存在を知り興味をもった。「妙好人」とは、無学だが透徹した信心に生きた民間の篤信者のことで、江戸末期に浄土真宗で『妙好人伝』が編まれたために、主として浄土真宗の篤信者をさす。柳は、富山の城端の本願寺別院で、妙好人赤尾の道宗に蓮如上人が与えた与えた手紙とともに見せられた「色紙和讃」(親鸞による信徒のための易しい経文)の古版本に感動し、翌年京都で偶然同種の「色紙和讃」を入手し、その信と美が融合した深い美を「妙好品」と名づけたのである。

昭和23年8月、城端別院で「大無量寿経」を読んでいた柳は、阿弥陀如来四十八願中の第四願「無有好醜(むゆうこうじゅう)の願」にいたって、活然と新しい視野が開かれた。11月京都相国寺で開かれた第二回日本民藝協会全国協議会で、「美の法門」という講演を行い、翌年還暦記念としてそのままの題名で公刊した。

阿弥陀仏は、四十八の願がことごとく成就するまでは仏にならないという誓いを立てたが、その第四の「無有好醜の願」とは、「設我得仏 国中人天 形色不同 有好醜者 不取正覚」。「若し私が仏になる時、私の国の人達の形や色が同じでなく、好(みよ)き者と醜き者とがあるなら、私は仏にならぬ」(柳訳)というものである。私とは、阿弥陀如来となる前の法蔵菩薩をさす。柳は「好醜」を「美醜」と置き換え、仏国土では美醜の区別がないというという点が、第四願の主旨であるという。第四願の主語は「人天(にんでん)」であるが、柳はそれを物にまで拡大し、美の国土の実現を発願するのである。

阿弥陀如来のもとでは、「無有好醜の願」はすでに果たされている。つまり、時間をこえた真理の世界では、すでに美醜二のない世界に迎えらる誓約ができている。美醜は、人間の分別によって生じる迷いである。真に美しいもの、無上に美しいものとは、美醜二元から解放されたもので、それ故自由の美しさである。本来自由たることが美しいのである。美醜二元をこえるとは、本来美醜のない性質が備わっているのだから、美しく成ろうとあせるより、本来の性(さが)に居れば、何ものも醜さに落ちないはずだという。しかし、本来の性に在るということは、心弱い普通の人間にはなかなか困難である。そうした人々を救うのが仏であるように、美の世界にも、他力が用意されているという。

大茶人たちを讃えぬいた『井戸茶碗』は、だれがつくったかも分からない、一人や二人ではない貧乏な陶工の手になるというのが何よりの例証ではないか、と柳はいう。無名の職人たちの仕事を根本から支えるのが第四願である。念仏を唱えるものは、すべて阿弥陀仏の国に迎えられるという第十八願が人間を救うとすれば、第四願は、弥陀の救いは人間がつくる物にまで及ぶ、というのが柳の解釈である。

「美の法門」の思想は、「無有好醜の願」(『心』昭和31年1月号)において、「不二(ふに)美」として再論される。仏法の根本理念は「不二」に帰する。「不二」とは「一」であるが、「一」は「二」や「多」に対する意味をもつため、「一ならず」という方が適切である。「無有好醜」も「不二」の相をいうもので、浄土では美醜の二元対立は存在し得ず、究竟の「不二美」があるのみである。「不二美」は、「醜の反面をもたない美そのもの」「美醜相即」「不美不醜」の性にいたらざるを得ない。この「不二美」の世界では、だれが何をつくってもそのままで美しい、本然の世界である。美醜は現世から眺めた分別の妄想であり、そこから脱する道は、何かに執着することをやめ、「無難」「無事」の境地にいたることである。小我や分別を棄てて、本然の性に帰ることで、他力の摂理を信じ切って大いなる力に身を委ねることを説く。「衆有好醜の願」は、「どんな人に対しても、どんな作に対しても、無謬の道があること」を示しているという。

この「悉皆成美(しっかいじょうび)」の実例として、柳は、茶人が珍重した「刷毛目」あげる。「刷毛目」は朝鮮の雑器で、黒い土を化粧するため白い土を刷毛で塗ってある。その刷毛目が自由奔放である。安物の雑器で、美しくつくろうとしたわけではなく、ただ作り、安物故多く作った。茶人たちは、その無心の自在さに魅せられた。その美が、まさに「不二美」であり、このような美が「無事の美」「尋常の美」であるという。柳の美の宗教は、ここにいたって、柳自身によって仏教美学と定義される。

8、おわりに

柳の思想の揺籃は『白樺』である。『白樺』は、日本のモダニズムの前衛的役割を果たしたが、そのなかで、柳宗悦は、西洋世紀末藝術の洗礼を受け、1910年代の「生命主義」や1920年代の「藝術と社会」の問題など、彼の生きた時代の課題を誠実に担いつつ、思想を形成した。柳は理性よりも直観、科学よりも宗教、近代よりも中世を重視し、宗教と哲学と藝術が一致する美的唯心論を構想した。

用と美が相即する工藝に着目することによって、柳の思想は大きく展開した。彼が「民藝」を提唱した1920年代は、「美術工藝」「産業工藝」「生産工藝」「民衆的工藝」「平民工藝」などさまざまな造語が現れ、工藝概念が改めて問われていた。それらは帝展に結集した美術的工藝と産業デザイン、そして民衆的工藝に大別できる。都市化や産業化が急速にすすみ、生活様式が大きく変わりはじめるなかで、工藝の世界は、モダニズムと反モダニズムが交錯していた。また、山本鼎の農民藝術や宮沢賢治の羅須地人協会のような民衆と藝術を結ぶ試みもあった。柳の「民藝」は、このような時代の社会的、文化的文脈のなかで成立した。

しかし、これほどまでに美に執心し、美に徹底した思想は珍しい。柳の「民藝」における「他力」の概念は、きわめて独自である。「他力」という仏教における救いの思想は、日本人には親しい概念である。だが、美の思想として、「他力」を徹底したのは柳の独創である。柳は、仏教が万般に通じる理法であることを確信して、天才と凡人、賢愚、巧拙、貴賤、美と醜などの対立のない、「悉皆成美」の「美の浄土」が実現されるという仏教美学を樹立した。その美の世界は、観念としてではなく、具体的な器物に即しているのが柳の美の思想の特色である。

「美の浄土」は彼岸ではなく、現実の生活のなかに実現されるべきものである。美は本来人間の感覚に基づくものであり、「美の宗教」というべき柳の美の思想では、感覚が重視され、あるがままの人間性が肯定される。通常、美的感動と宗教的安心は異質なものであるが、「美の宗教」においては、美的感動は宗教の世界に人々を誘う。「美の宗教」は、宗教の代わりに美を宗教にするのではなく、宗教が美になる。茶道は禅という宗教が美になったものであり、「民藝」は、弥陀の本願によって美が成就する。

柳の「美の思想」は、理性に偏重する近代の知のあり方や生活から遊離した藝術に対する、近代における近代批判である。民藝における「他力」の思想は、自然に対する没我的随順を説き、柳が模範とする「妙好人」は、権力に対してきわめて従順な人々であった。だが、ファシズムに抗して朝鮮の民族文化を擁護したのをはじめ、アイヌや沖縄、さらに日本各地で近代化のなかで滅びようとしている伝統文化の価値を発見し、それらを守ってきたのもまた「民藝」の思想であった。

民藝運動に対して、これまでさまざまな批判が行われてきた。柳宗悦の思想についても、内外で論じられる。だが、「民藝」は「美の宗教」として信仰に深くかかわっているため、知による批判とはかみあいにくいように思われる。柳の「順生涯」や「健康」という言葉に、近年の高齢化社会が連想されるのであるが、柳宗悦の「民藝」という近代における反近代の美の規範学は、21世紀に向かっていかなる射程をもつのであろうか。

参考文献

『柳宗悦全集』全22巻 筑摩書房 昭和55年~平成4年

鶴見俊輔『柳宗悦』平凡社 昭和51年

水尾比呂志『評伝柳宗悦』筑摩書房 平成4年

阿満利麿『柳宗悦 美の菩薩』 リブロポート 昭和62年

出川直樹『民藝-理論の崩壊と様式の誕生』新潮社 昭和63年

稲賀繁美「前衛と藝道の隘路」『比較文学研究』54 東大出版会 昭和63年

菊池裕子「柳宗悦-独創の神話-」『あざみ』第4号 富本憲吉研究会 平成8年

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