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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1997 > 木喰研究の背景-柳宗悦の日本東洋美術観 毛利伊知郎 柳宗悦展図録

木喰研究の背景-柳宗悦の日本東洋美術観

毛利伊知郎

大正後半から昭和初期にかけて、1910年代半ばから1920年代後半に至る時期は、柳の美術に関する様々な活動の上で重要な転換期であったと考えられる。この頃の主な活動を見ていくと、再来日したバーナード・リーチとの交遊、浅川伯教・巧兄弟らとの朝鮮民族美術館設立、木喰仏研究、民藝研究等々、後になっても大きな意義を持つ重要な活動がこの時期に行われていたことを知ることができる。

特に注目されるのは、大学卒業直後から精力的に行われたウィリアム・ブレイク研究や、『白樺』誌上でのロダン、ゴッホらの西洋美術紹介など西洋文化への傾倒が終わりを告げて、日本東洋美術やそれまで全く知られていなかった木喰仏などに対する強い関心が柳に起こってきたことである。しかも、こうした日本東洋の美術への関心は、後の柳の活動とも強く関係しているのである。ここでは、柳宗悦三十代に見られる日本東洋への傾斜、民藝以前の柳と日本東洋美術との関わりについて検討を加えることとしたい。

柳宗悦がいつ頃から日本東洋を意識するようになったのか。確実なことは明らかでないが、大正5年(1916)に、初めて行った朝鮮中国旅行が大きな契機となったことは間違いない。また、こうした東洋へ眼を向け始めた背景には、大正3年(1914)に浅川伯教と知り合っていたことも影響していると考えるのが自然だろう。

大正5年3月24日、リーチに宛てた手紙の中で柳は次のように記している。

「僕自身はますます藝術に表われたる東洋精神に心惹かれています。……(中略)……
 僕の現在の最大の抱負は、東洋と西洋の一般思想及び特に両者の遭遇の問題に解釈を施
 すことです」

北京に滞在していたリーチと会うことも大きな目的にして、柳は8月に日本を発ち、朝鮮に1ヵ月ほど滞在した後、北京にリーチを訪ね、南京、上海を経て2ヵ月ほどの旅行から帰った柳は、『白樺』11月号に次のような文章を記した。

「此旅行は期待よりも遥かに感銘が深かった。いつかそれ等を記念するものを雑誌に書きたいと思ってゐる。又特に古朝鮮の美術で吾々の驚嘆と注意とに価するものを写真と共に雑誌で紹介したいと思ってゐる。……(中略)……その精神に於いても驚く可き吾々固有の藝術を、吾々が再び新しい心で省みる事は非常に意味深いことと信じてゐる。……(中略)……吾々は既に汲み得るものを異郷に汲んできた、之から吾々自身の國土に泉を掘らねばならない」

このように、自身が旅行中に得た感興を雑誌で紹介したいと念じていた柳であったが、他の『白樺』同人への遠慮や、それまで西洋美術を紹介してきた『白樺』のイメージとの整合性を図るために、彼の希望が実現するのは2年以上後のことであった。
 大正8年(1919)の『白樺』7月号は、挿絵として初めて日本東洋の古美術品を掲載した。挿絵として柳が選んだのは、法隆寺金堂壁画の一部、正倉院御物中の菩薩像(いわゆる麻布菩薩)、樹下美人の屏風、﨟纈屏風、それと鳥羽僧正の絵巻(鳥獣戯画)であった。作品個々の解説は橋本基によるものだが、この企画について柳は次のように記している。

「嘗て吾々は思想に於ても藝術に於ても在来の伝習から先づ離脱する必要があった。自由な新な出発に対しては反抗がとるべき態度であった。かゝる反抗によって甦ろうとした者には必然西洋の宗教、藝術、思想は新しい刺激であり糧であった。……(中略)……然し今日充分に伝習を破り得た吾々は再び余裕を以て東洋を省る機会に逢った。……(中略)……吾々は今外来の思想に育ち、再び自己の故郷に活きる必然な運命の歓喜を得た。否、吾々東西とすら分ち得ない永遠の真理の発見者である自覚をひそかに感じてきた」。
 柳は、彼らが自分自身の生き方に活力を与える源として西洋の藝術作品を見出したように、かつての考古学的、歴史的あるいは骨董的な見方ではない、人生に於ける普遍的な価値観を尊重する新しい東洋藝術の見方を提唱しているのである。

柳によれば、初めて『白樺』に紹介された作品の選択に特別の意味があるわけではないが、「素描に近いもののみを選んだ」という。そして、その理由は「概して素描に於て吾々は最もぢかにその藝術に触れ得るのである」と柳は記す。作者の生命感、内面が素描にこそ最も現れるといった意味であろうが、作品それぞれの歴史的な位置づけに柳の関心がないことは明らかである。

この最初の企画から半年あまり後の『白樺』大正9年2月号には、二回目の東洋美術紹介として、朝鮮半島三国時代の弥勒菩薩像二体と、統一新羅時代の慶州石窟庵の石仏4点が掲載された。

その解説記事の中で柳は、「或批評家は支那の藝術に対比して朝鮮藝術の独立を疑う様であるが、然し之は美に対する洞察の無い批評であらう。よし深い歴史的関係がその間にあるにしても、余は却て明確な差違が彼等の美の表現に於て存すると思ふ。支那の力強い形Formの美は朝鮮に於て見る事は出来ぬ。然るに朝鮮の流れる如き線Lineの美は、只朝鮮人のみの所有である」と述べ、朝鮮美術独自の美の存在を主張している。

もちろん、この柳の朝鮮美術論は、明治43年(1910)の韓国併合以来の軍国主義と拡大主義に基づく日本の朝鮮政策に対する批判と、三・一運動に代表される朝鮮半島での独立運動への深い共感と軌を一にし、後に浅川伯教・巧兄弟らとの朝鮮民族美術館設立、朝鮮美術に関する著作刊行へと展開していくことになる。

その後の朝鮮美術以外の日本東洋美術に対する柳の関心をたどってみると、『白樺』大正11年(1922)12月号には池大雅と与謝蕪村合作の十便十宜帖についての所感が掲載されている。その中で柳は、大雅の方により強く感心したと述べ、次のように記している。

「日本にかゝる人がゐたと云ふ事を実に感謝する。達してゐる領域は深く深い。是程禅境の真意を画面に出し得たものは、此世にそう多くはないであらう。……(中略)……色を見よ、それは淡く静だ、併しその効果に於て是程の深さの力が出てゐるものは、此世にそう沢山はないのだ。筆は粗く自由だ。併し実に細かな心がすみゞ迄行き渡ってゐるではないか」。

柳は南画に対する関心を少なからず持っていたようで、『白樺』大正12年(1923)7月号には、明末清初の画家八大山人の作品(岸田劉生と竹添履信所蔵品)が挿絵として登場するが、これらの作品についての柳の所感は記されていない。1910年代以降の日本画界には、南画に表現主義的傾向を認めて画家の内面表現を重視して新しい日本画を創造しようとする動きがあったが、柳にもそうした写意と精神性とを重視した南画の表現主義的傾向への共感があったことは十分に推測される。

『白樺』に見られる柳の日本東洋美術への関心を示す記事は、全体量が多くない上に、必ずしも系統立ったものではない。また、柳自身の美術観が直接記述いる部分も少ないので、そこから彼の日本東洋美術観の全体像を窺うことには無理があるが、『白樺』にも紹介された朝鮮半島三国時代の作品、それらとも密接な関係がある日本の飛鳥奈良時代の作品は、朝鮮に傾倒した柳の美意識が形成されていく基層を形づくったものとして興味深い。そして、『白樺』での最初の日本東洋美術紹介記事や南画に対する所感からも窺えるうに、作者の生命感、内面の表出ということが柳にとっては重要な価値基準であり、そこには東洋と西洋の区別なく、藝術作品に普遍的な真理を見出して行こうとする柳の立場を認めることができる。

ところで、大正11年(1922)5月に『朝鮮の美術』(私家版)を、続く9月に『朝鮮とその藝術』を柳は刊行している。『朝鮮の美術』には、挿絵として10点の写真が収められたが、そのうち3点は法隆寺の「百済観音」と通称される観音像、玉蟲厨子に描かれた捨身飼虎図、橘夫人厨子の後屏である。また、本文中で、柳は広隆寺や中宮寺の弥勒像、中宮寺の天壽國曼荼羅にも言及し、こうした日本古代の仏教美術作品を朝鮮半島から伝来したものと見なして、「日本は朝鮮の美に飾られた日本である」と述べ、朝鮮美術の独自性を高く評価するのである。

中国、朝鮮、日本の美術を比較し、それぞれを代表する藝術要素について、中国は「形」、日本は「色」、朝鮮は「線」と断定し、朝鮮美術に「悲哀の美」を見た柳であったが、朝鮮と日本とが渾然一体となり、あるいは日本が朝鮮から圧倒的な影響を受けていた古代美術の世界をより深く研究することはなかった。百済観音や中宮寺弥勒像、あるいは玉蟲厨子が、中国、朝鮮、日本の複雑な交渉の中で、何時どこで誰によってつくられたのかという実証的な研究に柳は関心がなかった。
 蒐集とういう行為と切り離すことが出きない柳の美術研究は、朝鮮美術においては李朝の工藝品に、日本美術ではそれまで誰も知らなかった木喰仏へと向かうことになる。

「二体の佛像は暗い庫の前に置かれてありました。(それらは地蔵菩薩と無量寿如来とでした。)そうしてその前を通った時、私の視線は思はずもそれ等のものに触れたのです。私は即座に心を奪はれました。その口許に漂ふ微笑は私を限りなく引きつけました。尋常な作者ではない。異数な宗教的体験がなくば、かゝるものは刻み得ない-私の直覚はそう断定せざるを得ませんでした」(「上人発見の縁起に就て」『木喰五行上人略傳』所収 大正14年)。

これは、柳自身が記す木喰仏との出会いの瞬間の様子だが、柳と木喰仏との出会いが偶然の産物であったことは広く知られている。この文にもあるように、大正13年(1924)1月に甲州へ小宮山清三蒐集の陶磁器を見に出かけた柳は、小宮山宅で偶然眼にした二体の木喰仏に直ちに心惹かれ、蒐集と全国各地に及ぶ精神的な調査研究を開始することになった。しかし、この偶然の陰には、柳自身の内面にも木喰仏を受け入れるだけの準備が整いつつあったことを彼自身記している。

「併し私自ら顧みて云えば、上人に心を引かれる迄に、三つの準備があったと云ひ得るかも知れません。……(中略)……私は長い間の教養によって、真の美を認識する力を得ようと努めてきました。私は漸く私の直覚を信じていゝ様になったのです。……(中略)……第二に私は民衆的な作品に、近頃いたく心を引かれてゐました。……(中略)……かゝる私にとって、彫刻に於て民衆的特色の著しい上人の作が、異常な魅力を以て私に迫ったのは云ふ迄もありません。第三に私の専攻する学問は宗教の領域に関するものです。……(中略)……そうして私が求めた宗教的本質が、上人の作に活々と具体化されてゐるのを目前に見たのです」。

こうした柳の回想を信じるならば、柳と木喰との曲会いは、表面的には偶然であったとはいえ、柳の内面においては必然的であったといえなくもない。

木喰仏と出会った三ケ月後の四月、以前から準備を進めていた朝鮮民族美術館を当時の京城に開館して帰国した柳は、京都へ転居し木喰研究に専念していった。

木喰の出身地甲州丸畑に始まった柳の木喰研究と現存作品の調査は佐渡、越後地方、栃木県、静岡県、中国地方、四国 九州など全国各地に及んだ。こうした木喰研究の成果を柳は最初は雑誌『女性』に、後には柳の木喰研究を援助することを目的に設立された木喰五行研究会発行の『木喰上人之研究』に発表し、同時に各地で木喰仏展を開催して行った。

では、そうした柳の木喰研究の成果に接した人々はどのように感じたのだろうか。その一つは、彫刻家新海竹蔵が記した「木喰五行上人の彫刻を見て」という文章である (『アトリエ』大正14年6月号)。新海は本郷の帝大仏教会館で開催された木喰仏展を見た上でこの記事を書いているのだが、この中で新海は木喰仏を日本古代の推古仏と比較対照し、「事実あの会場に列んだ多くの木佛の中で推古や白鳳などの如く形から話しかけるものは唯の一つも見当たらない」と述べて木喰仏の藝術性を否定的に扱い、木喰仏の藝術性を高く評価する柳の研究にも疑問を投げかけている。

また、この新海の木喰論を受けて彫刻家の石井鶴三は、『アトリエ』大正14年8月号に「木喰上人の彫刻」を発表、新海の意見に同感である旨を述べた上で、「上人のお作は気待ちのいいものです。ちっともいやなところのない、素朴で純真でいつまで見て居いても気持ちのいいものです。……(中略)……だが、どこまでも惜しまれるのは、そうした良い感じを見る人々に与える上人の作も、立体の力がどうも薄弱な事です」と記している。しかし、同時に石井は「(木喰仏は)わが彫刻史上に於て決して疎略には出来ないものと思います。江戸末期を代表するものとして、最も重視されなければならぬものと思います」と木喰仏の歴史的な評価を認めた上で、木喰を広く紹介した柳の功績を高く評価している。

新海の論では、木喰仏を否定する面だけが目立つが、日本彫刻史の広い見識、そして彫刻家としての直感に裏付けられた石井の木喰論は、きわめて的確かつ冷静に木喰仏の本質と柳による木喰研究の意義を指摘しているということができよう。

柳の木喰研究は、それまで全く知られていなかった木喰の伝記を文猷史料によって明らかにし、全国各地の木喰仏を実地調査していった。自らの直感によって木喰を発見した柳にとって、木喰仏の彫刻史上の位置づけ、あるいは仏教史上における木喰の実像を明らかにすることは必ずしも重要なことではなかった。柳にとっては、誰にも知られていなかった木喰仏の藝術性と仏道修行者としての木喰の徳行を多くの人々に知らしめること、そして木喰を高く評価する自身の美の思想を深めること、これが木喰研究の主眼であった。こうした仰の木喰観が、後年、仏教民俗学者からディレッタンティズムとの批判を受けたのはある意味では当然のことであった。

大正15年(1926)に入ると柳は木喰研究から急速に離れて行く。木喰に関しては所期の目的を一応果たしたということと、木喰研究とほぼ並行して高まっていったいわゆる「下手物」に対する関心が柳の中で重要な位置を占めるようになったことが大きな要因であった。以後、柳の活動はいわゆる民藝を中心に展開されていくことになるが、その民藝は、彼が日本東洋美術や木喰仏の研究を通じて磨き上げた自己の美に対する直覚を縦横に働かすことができる世界であった。

(三重県立美術館学芸課長)

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