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向井良吉展によせて──彫刻的出発点について──

陰里鉄郎

1960年代前半のころの約3年間,私は毎日のように向井良吉の作品をみていたようにおもう。すくなくとも通りすがりには必ずのように一瞥していたはずだ。その作品は,当時私が勤務していた神奈川県立(鎌倉)近代美術館の1階のどこかに置かれていた『アフリカの木』か,『勝利者の椅子』かのいずれかであった。そのころ,これらの作品に格別の興味や関心をおぼえていたというわけではなかったが,しだいにある種の思いがふくらんでいくのを感じていた。それは,いったい日本の現代彫刻というのは,いつ,どういうところから出発したのだろうか,戦前・戦中・戦後をつうじてどうだったのだろう,戦後の日本彫刻はどういう出発をしたのか,といった漠然とした疑問の思いであった。もちろん美術界の戦後の動き,画壇における美術家集団の動向についてはそれなりに多少の知識はもっていたつもりではあるが,そうしたことではなくて,創作者としての彫刻家の内部の意識として,どこで,なにを意識し,出発の自覚をもったのだろうか。こうした思いを誘発させてくれたのが向井良吉の作品であった。

絵画の分野でいえば,戦前にすでにある程度の形成をおえていた作家たちの作品は別として,戦後の混乱と荒廃のなかではじめて造型世界に関心をもちはじめた世代のものにとって大きな共感をいだいた作品のいくつかを直ぐにも想い出すことができた。誰でもがそうであったのかどうかは分らないが,私には仮に作品の良し悪しを別にしても森芳雄の『二人』や岡本太郎の『森の掟』や松本竣介や麻生三郎らの作品のいくつか,日本画では加山又造の鹿や馬のシリーズが映像としてうかんでくるのであった。これに対して彫刻の場合はなんだろう。たしかに本郷新の『わだつみのこえ』(1950),菊池一雄『平和の群像』(1951)などがあり,また佐藤忠良の『群馬の人』(1952),柳原義達『犬の唄』(1950)といった作品,なかでも後の二者にはある種の共感をおぼえたことを忘れないが,前の二者には,どこかちがう,という思いが残り,消しがたい不満が彫刻全体に対してもあった。もっとも,私自身が彫刻の熱心な良き観者ではなかったことでもあったであろうか。

1960年代前半のある座談会で,向井さんはつぎのように発言している。それはイギリスの無名政治犯のための彫刻コソクールにまつわる話題のなかで

──あれは戦前の古い日本の彫刻界の動きが頭をもたげてきて──向うは直接呼びかけたにもかかわらず,日本のコミッティのような形になろうとしたのです。朝倉文夫さんあたりがその時担ぎ出されるかっこうになったので,ずいぶん反対したりしました。それが始めて彫刻家としての自覚が生まれるきっかけになったような気がするのです。──結局,我われで反対してコミッティも潰してしまったのです。それが初めて私など彫刻家が,何か意識をもたねばならぬと自覚し始めたきつかけになったのじゃないでしょうか。(1963.5)

この場合には,官展と在野の対立ではなく,ゼネレーショソの断層という形で出てきたものであったと向井さんは指摘している。ゼネレーションの断層,つまりここでは戦中派世代の彫刻家の意識の覚醒が指摘されているのである。イギリスの無名政治犯のための彫刻コソクールといえば,寡聞の私にはリン・チャドウィックの名などしか浮んでこないが,1952年(昭和27)のことである。向井さんの年譜をみれば明らかなように,この年に向井さんは作家活動に集中するために京都から東京へ居を移している。向井さんの新しい出発は,多分,このときにあったことになろう。復員してきてから京都で設立したマネキン会社七彩工芸の経営をも半ば放棄しての上京であり,新しい出発であったとおもわれる。彫刻家としての自覚の意識。それがイギリス無名政治犯彫刻コンクール日本展に参加した彫刻家たち,毛利武士郎,建畠覚造,小野忠弘に共通したものであったかどうかは確めてはいないがそれぞれの年譜にも記されているところをみれば,ほぼ彼らはこうした意識を共有していたのであろう。

向井さんの場合,それ以前に戦争体験という決定的に重い事実のあることが,自覚と意識の内実をつくっているはずである。しかしここで,戦争を体験するまでの向井さんについてすこしだけ触れておきたい。

向井さんの年譜にはどれにも京都の屏風・額縁製造の家の生まれと記されているが,お父さんはこの職業のまえには宮大工(伊勢・宇治山田出身)であったということである。向井さんの回想によればお父さんは東本顧寺の造営に参加していたことがあるという。向井さんはきわめて知的で冷徹な仕事ぶりの作品をわれわれにみせてくれるが,それと表裏をなすかたちできわめて職人的な面をもそなえているように私にはおもわれる。それはたとえば作品の制作には工場への発注をできるだけ斥け,制作の過程を楽しみながら自分でおこなおうとする制作態度や,いささかこじつけに近いかもしれないが,建築への関心なども,このお父さんの本来の職業と仕事に無関係ではないのかもしれないともおもわれる。

そして向井さんは中等教育課程を京都市立美術工芸学校彫刻科ですごしている。「この5年間の至純の歳月は,私にとって悩みなき最も幸せな時代だったといえる。しかし,無垢の身につけた職人業の癖は消しがたく,続いて進学した東京美術学校(現芸大)在籍の7年間は,かたちの表面を無意識のうちに造りあげてしまうという悪癖から抜け出すことに終始する」と向井さん自身は回想している。そして「手先だけの習熟だけが悲しかった」(『文化庁月報』,152)とも書いているがこうした悪癖としての職人業からの脱却,さらにより重く,苦渋にみちた,いや言語を絶した体験が向井さんの戦争体験であったにちがいない。南太平洋のニューブリテン島ラバウルで敗戦を迎えている。ラバウルは戦争中の少年たちにとっては一種あこがれの地であったのであるが事実はまったく異り,それは逆に煉獄と地獄の境界点のような地であったのだ。

向井さんは敗戦後のラバウルでの俘虜生活のなかで一体の観音木像を刻んだという。のちに向井さんは「私の彫刻人生の中で最高だったのはその時だったと思ってます」と語っているが,それは日常の幸福感からは無限に遠く離れている苛酷な状況での,緊張感に満ちた至福の時の経験とでもいおうか。向井さんは「彫刻だけでなくて,私の思想体系までも戦争の経験によって,大きく変化してしまったようである。戦場の体験を持つ人ならだれもが知っている“徒労の感覚”。非常な空虚感の中で突発現象にさらされているアナキーな運命論。」(『藝術新潮』10−7,1959)とも書いている。美術の作家たちのこの種の言葉や文章をそのまま信じてよいものかどうか,決して嘘つきというつもりはないが,ときに迷うことがある。だが向井さんの場合は,向井さんのその後の作品をみているとこうしたやけっぱちでペシミスティックな響きをもつ言葉が,彫刻作品の内容,内実と一致していることに気づかされるのである。

自己の生命が危磯にさらされている状況のなかで一体の小さな仏像を刻んだとき,向井さんは「仕事というのは唯テクニックじゃないし人間の魂から出るものだ」ということをふかく感じたという。生の証しの創造と多くの死者(戦友たちの)への鎮魂の作業,このことによって向井さんの彫刻家としての人間的な思想の根底がかたちづくられたのであろうと私は想像している。

体験が重ければ重いほど,深ければ深いほどに,人によって多少の差はあってもそれが形象化されるには時間が必要であるにちがいない。向井さんの彫刻家としての出発は戦争時の体験に根ざした思想が戦後の社会のなかで鍛練され,前記のイギリスの国際彫刻コンクールのときに自覚的になされるといった展開をとったと推測されるが,向井さんの造型が自己の思想の発現として開花した彫刻的出発を,1958年(昭和33)の『発掘した言葉』に見出すことができよう。この作品についての向井さん自身の発表当時の発言にはつぎのようにある。

「発掘した声」は副題として「記録されざる声」ともいいたい。この題名は,新しい造形に対する私自身の願望をこめた期待でもある。記録されなかった声のなかにある人間の意志を感応し,消えてゆくもののなかに,人間の行為としての価値を発見しようとした私の現在のものの考え方が,この彫刻を作る動機でもあり,根本をなしているといっていい。また,音響感を造形としてとりあげたこともこの彫刻のひとつのねらいであった。そしてそれは,従来となえられた彫刻のモニュメンタル性を否定することによって,新しい造形の世界を具現する足がかりにしようと念じたまでである。(1958 年,『美術手帖』199号)

この「記録されざる声」とは青春を戦場の穴倉の中で沈黙と無為のうちにおくらねばならなかった経験と無言のままに消え去らねばならなかった戦友たちの聞くことのできなかった声への感応を意味しているのであろう。土方定一氏はこの作品について,「向井良書が自己のなかで集積した,そして埋没されていた内部の深い経験とつながりながら,形と単純な構築へと実現したこと」として,向井さんの彫刻的出発の作品と評価している。『発掘した言葉(声)』の形のイメージを向井さんはデカルコマニーの方法で自己の意識下のイメージのなかから呼びおこしたのではないかと私は想像するが,そこには上昇感と,同時に下降感とが一体となった運動感と,開放感を感じさせる横への広がりをもち,これ以後に展開される向井さんの作品にみられる繊細な幻想を秘めている。のちに向井さん自身も「あの作品で初めて自分のものをつかめたような気がしました。──私にとっては記念碑的な作品」と語っている。

彫刻のモニュメンタリティを否定することを意図したことによってかえってモニュメンタリティを獲得したかの感のある『発掘した言葉』につづくのが『蟻の城』シリーズであり,その間に『勝利者の椅子』がある。

『蟻の城』シリーズもまたラバウル時代の映像とつながりをもったところから発しているが,向井さんのラディカルな思考の底辺には,絶えず過去の“徒労の感覚”の体験につながった人間存在の悲しみの想いがひそんでいるようである。『蟻の城』が,人間のあるいは生物の営みのはかなさへの向井さんの人間的な感情と思想の表現であり,『勝利者の椅子』にも栄光があわせ持つであろう悲哀への共感にも似た愛情によって成立している諷刺がある。この愛情のあるペシミズムの感情こそが向井良吉の彫刻の根底に流れているもののように私にはおもわれる。

以降,『楽器』シリーズ,『都市』シリーズ,そして『虫』シリーズと展開している。いずれもがすこしだけ具象的形態が顔をのぞかせているが,私には『楽器』シリーズが向井さんの曲線を主とした造形であれば,『都市』シリーズは直線の造形となっているようにおもわれる。

向井さんは,「彫刻は,思想と素材の結びつきから誕生する。そこにギリギリのフォルムが決定づけられる」という。向井さんにとって内部に堆積された思考が発酵すると映像化され,素材が選択され,その素材のもつ宿命との対決のなかで技法が駆使される。そしていま,向井さんの造形は成熟期を迎えているようだ。

(三重県立美術館長)

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