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森芳雄──人間像による重奏──

中谷伸生

昭和の洋画史上における記念碑的な作品といってもよい森芳雄の「二人」(1950年)[Cat.no.12]は,あたかも,戦後まもない日本の社会を映し出す象徴とでもいうべき,印象深い作品である。その調和のとれた色彩が奏でるスケールの大きい絵画世界は,力強い造形と抑制された哀感の表明とによって,日本の具象絵画の歴史に,忘れ難い足跡を残した。岩山と見まがう男女二人の重厚で精神性あふれる表現からは,やりきれない時代を告発するかの悲痛な呟きが聞こえてくる。第二次大戦後の日本の美術界では,山口薫,海老原喜之助,麻生三郎ら,才能ある多くの画家たちが,さまざまな人間像を絵画化したが,森芳雄もまた,一貫して人間像を追求してきた画家である。

森芳雄が制作した戦前の「イタリアの想い出」(1935年)[Cat.no.3]は,矩形の枠の中に,、二人の女性像を配置した,画家27歳頃の作品であるが,同時代にパリで活躍したイタリア出身の画家マッシモ・カンピーリ(1895−1971)の「ベランダ」≪La Veranda≫(1931年)などと共通する作風を示している。その当時,森芳雄は,カンピーリと知り合っており,1931年にパリのジャンヌ・ビュシェ≪Jeanne Bucher≫画廊が500部限定で出版したカンピーリの画集“MASSIMO CAMPIGLI”を,画家自身から献呈されている(註 1)。この小型の画集を,森家で拝見させていただいたところ,500部中の174番のスタンプが押してあり,表紙の裏に,“au Peintre Mori tres cordialement Campgili Paris,13−12−32”とサインと年記などがカンピリ自身によって記されてあった。1932年というのは,森芳雄がフランスに渡って2年目にあたり,秋のサロン・ドートンヌで,「黄色のカーディガンの女」が入選した年であった。この年に,森芳雄は,海老原喜之助の紹介で,カンピーリを訪れている。

註1 MASSIMO CAMPIGLI,Editions Jeanne, Bucher,Paris,1931.なお,森芳碓とカンピーリなどの作品を比較した次の論文がある。真室佳武「森芳雑作『画家と家族』について」,『東京都美術館紀要』14号,1990年3月,p.1−12。

さて,以上の時代状況を背景にして描かれた「肱つく女」(1936年)[Cat.no.4]では,濃い茶系統の色彩の塊が,明るい黄土色の背景声)ら浮かび出て,まるでエジプトのビラミッドかスフィンクスのような堂々たるモニュメンタリティーを主張している。こうした作風は,「母と子」(1936年頃)[Cat.no.6],「少年」(1938年)[Cat.no.7],「手を洗う女」(1939年),そして,1945年 4月の空襲によって,恵比寿の家で焼失した「呼ぶ声」(1942年)および「父と子」(1943年)に共通し,人間を建築物のように堅固な立体として把握する,迫力ある造形力を見せつけている。要するに,戦前の人間像の表現においては,構築的性格の強い,形態重視の描写が基本となっていて,登場人物の感情の表現といったものは,あまり強調されていないことが分かるであろう。 こうした戦前の作風は,戦後にも引き継がれて,「窓」(1949年)[Cat.no.11],そして本稿の冒頭で採り上げた代表作「二人」(1950年)に結実した。この時期,森芳雄は,制作と生活の両面で苦しい状況下にあったようである。後年,画家は次のように回想している。

1950年代に入って美術界は展覧会活動が活発になった。フランスをはじめ外国の作品がどんどん紹介され,非具象の流れ が入ってくる。ちょうど日本は朝鮮戦争特需等で国民総生産が上昇していく時代だ。
 私は抽象に興味があった。が,割り切れなくて苛立っていた。経済的にもギリギリの所へ来ていた。(中略)戦争で私は無一物になり,戦後はまず生きるこ と,生活の問題が前面に出てきた。『二人』を描いた年の暮れに,私は経済的に行き詰まった(註2)

註2 前田敬子編「森芳雄 自らを語る」,塩田佳弘編『森芳雄素描集』,彌生画廊,所収。

この回想の中で,森芳雄が,「私は抽象に興味があった。が,割り切れなくて苛立っていた」と述べているが,まさしく,こ の具象と非具象の狭間で心を動揺させる画家の状況は,「二人」という絵画の特質と,大局的に見て,繋がっているように思われる。しかし結局,森芳雄は非具 象絵画に深い疑問を抱いていたようである。新聞記者のインタビューに答えて,画家はこう語っている。

 

たとえば,五十年代は怒とうのように非具象の隆盛があった。しかし,それがこの民族,国土からクリエートされたものであったかどうか。三十年をへたいま,非具象がこの国に根を下ろすまでの歴史をつくったかというと,私はさしはさみたい疑問をもっています(註3)

註3 「戦後美術と私の五十年代・森芳雄さんに聞く」(きき手・中西英治記者),『赤旗』,1981年9月27日(日曜版)。

ところで,「二人」の画面では,身体に沿って,切れぎれに続く輪郭線と,その内側の黄土の色面とが,きわめて大きな塊量を形成しており,その力強い形態把握は,戦前のこの画家が獲得した造形原理に立脚している。例えば,向かって右の人物の上半身などは,高く挙げられた手と頭部のモティーフ,簡潔に抽象化されたフォルム,そして平塗に近い色面の処理,さらに,立体感を増す明快な陰影法など,既述の「肱つく女」(1937年)と同様の描写法を示している。注目すべきは,この二人の男女の表現に見られる「哀感」の雰囲気であろう。確かに,二人は何事かに苦悩している。打ちひしがれている。後方の体を閉じてうずくまる人物の形態は,手前の手足を伸ばして体を広げる人物の形態に,木霊のように呼応する。いうまでもなく,一方の哀しみは,他方の哀しみと重なって,数倍の哀しみを湧き起こす。このような深い内面の表白は,「二人」以前には,ほとんど見られなかったものである。ここに見られる形態と感情との結びつきは,以後,森芳雄の作品において,両者の比重をさまざまに変えつつも,一貫して持続されることになった。時には形態の力が優位に立つ作品となって,また時には感情の吐露が激しく表現される作品となってである。例えば,翌年制作の「母と娘」(1951年)では,親子の気持ちの交流が,周辺部の緑青色と相俟って,いうにいわれぬ憂愁の雰囲気を醸し出す。

続いて数年後の「母子像」(1953年),「うずくまる女」(1953年),「煙突と人」(1953年)においては,どちらかといえば,形態の比重が大きくなっている。こうした作風は,「人物−母子」(1956年)や「画家と家族」(1954−56年)[Cat.no.22],「くつみがきの女」(1957年)でも確認できるが,まったく否定できないにしても,少なくとも作品を観察する限り,感情の表現は抑制され,非常に構築的な作風が,再び甦っているというべきであろう。

この構築的な特質は,1960年代に入って,東京国立近代美術館が人−母と子」(1961年)[Cat.no.40]へと繋がっていき,そこでは,幾何学的な構築物として,二人の人物像が表現された。赤味がかった茶系統の色彩が,画面全体を美しく調和させるこの絵画においては,細かな顔の表情や身体の細部が,すべて省略され,彫塑的な形態にされた対角線状の形態を中心に,母と子が,大きな菱形を形成している。背後にもう一人子どもが配置されているが,ほとんど脚の部分と頭部しか目立たず,画面を支配する幾何学的な形態に奉仕させられている。基本的な形態のみを,大まかに捉えた描写法は,筆で描いたというよりも,あたかも,温もりのある石の塊を,丹念に彫りすすんだ堅牢な作品という印象を与えている。限られた色数のみで,形態を省略し,骨格を浮き彫りにして,具像と抽象との狭間を狙った表現は,まったく無駄がなく,いかなる感傷の甘さをも排除していて,われわれの胸に,実に心地よい感銘を刻み込む。誤解を恐れずにいえば,画面に描かれたすべてのものは,暖かみのある乾いた絵の具のマチエールに,すっかり変貌させられているといってよい。「人−母と子」では,形態の力が画面全体を圧倒的に支配しているのである。

ところで,1960年代には,・齔lの人物をモティーフにした作品が見受けられる。「静」(1960年)[Cat.no.35],「ギリシアの想い出」(1963年),「砂と人」(1963年)[Cat.no.47]などであるが,いずれの作品も,人物のそばに動物や小物類が配置されている場合が多く,画面に人物のみを大きく描いた作品は,あまりみられない。画家自身から直接聞いたところでは,画面いっぱいに,独りの裸婦などを描いた絵画は,日本の風土には似合わないので,なるべく避けるようにしている,とのことであった。いずれにせよ,1950年代,、 60年代の森芳雄は,きわめて充実した内容を誇る絵画を,続々と世に問うたのである。

1970年代に入ると,森芳雄は,再び観者の胸に染みる情感の表現を露にした作品を描くようになる。「巴里の夕暮」(1970年)[Cat.no.62]では,パスでも待つ人々の姿であろうか,ともかくも,ベンチに腰掛けたそれぞれの人物は,彼らの頭部の動きと表情の描写が見られることから,いわくいい難い心の動きを表しており,われわれは,何かを待つ彼らの気持ちを読み取ることができそうに思えるのである。さらに,「ある瞬間」(1970年代)[Cat.no.66]においては,何者かに不意を突かれた格好の二人の夫婦が,思わず手を挙げて,前方を見つめている。あたかも,イギリスのポップ・アーティストのリチャード・ハミルトンが制作した「釈放」(1972年)などを想起させる人物の動きであるが,子供を抱く妻と夫の驚きと緊張感とが,われわれに伝わってくる。この人間の心理描写は,「ある知らせ」(1971年)[Cat.no.68]において頂点に達している。悪いニュースが伝えられた。夫妻はテーブルに顔を埋めて悲嘆の淵にある。いいようのない重苦しさが,飾り気のない部屋に充満する。かつて,森芳雄がこれほどの感情を吐露したことがあっただろうか。「ある知らせ」では,形態の堅牢さよりも,悲しみと絶望の想いが,形態の力を上回るほどの迫力をもって,ある種の表現主義的な絵画へと近づいている。その点からいって,この作品は,「二人」以上に,登場人物の感情を生々しく表現していて,丁度,森芳雄の作品群の中にあっては,「人−母と子」と,いわば対照的な位置を占めている。悲嘆にくれる人物たちの身体は,明確な輪郭線で描かれてはおらず,切れぎれの線描によって,やわらかくて素早い筆運びの痕跡を示すのみである。厳しい情感の表現を行うために,画家は,素描に近い動きのある筆触を縦横に駆使して,表現性に富む悲痛な主題の絵画を描いたのだ。つまり,この油絵には,構想のための素描「(ある知らせ)の下絵」(1971年)[Cat.no.D−31]の原初のイメージが,そのまま踏襲されているのである。加えて,これらの絵画には,しばしば森芳雄の人生が投影されていることを見逃してはならない。今泉篤男はこの作品について,「彼が絵画という表現に托そうとする思念の深さ,重さとでもいうべきものが出ている作品である」(註4)と記しながら,次のように語っている。

註4 今泉篤男「森芳雄の人と作品」,『森芳雄作品集』,日本経済新聞社,1975年9月,p.18。今泉篤男『今泉篤男著作集1 洋画論現代日本』,求龍堂,1979年,p.174。

この画家は,どういう場合でも自分の生活に深くかかわりあることを制作発想の引きがねとしています。(中略)「ある知らせ」にはその愛児の一人がアルプスの険しい崖を登ろうとして墜落して亡くなった報せを受けた時の夫妻の深い悲しみが描いてあります。──描いてある,などとは簡単に言えないような鎮魂の思いがこの絵の底に潜んでいるのでありましょう(註5)

註5 今泉篤男「森芳雄さんの絵」,『白と黒の会』,世田谷美術館,1987年5月,p.113。

「ある知らせ」の作風は,翌年の「空しき祈願」(1972年)[Cat.no.70]において,幾分抑制を利かしながらも引き継がれた。

1970年代後半の森芳雄は,71年の大作「群像」[Cat.no.69]の成果を大きく飛躍発展させながら,「女性たち」(1975年)[Cat.no.75],「姉妹」(1975年)[Cat.no.74]「壺」(1979年)[Cat.no.78],「母子像」(1979年)[Cat.no.79]など,スケールの大きな二人あるいは数人の群像表現へと向かうことになる。

さらに,そうした人物構成は,円熟味を増して,1980年代の「若者」(1981年)[Cat.no.85〕,「母と子」(1981年)[Cat.no.86],そして,画家が愛した古代,中世,ルネサンスのイタリアのフレスコ壁画あるいは,あたかも演劇の舞台を想起させる「とび去る」(1985年)[Cat.no.87]へと進展するのである。

今回の展覧会準備のために,各地の美術館や画廊を駆け回っていたとき,画家と懇意の小川貞夫氏ら幾人かの画廊関係者から,森芳雄の制作のやり方などを聞く機会があった。それらの話をまとめると,森芳雄は,イーゼルに立てられたキャンバスを眺めている時間が大変長いということである。この点に触れて,今泉篤男も,次のように記している。

この画家は筆をおいて進行中の自分の画布を眺めながら,次に着手する操作について,さまざまな過去の記憶,いろいろな絵 画制作以外の経験のきしみを胸中に往来させ,その思いの中で画布の前で過ごしている時間が異常に長いのであろう。そういう制作体験は,どんな画家にも多か れ少なかれあるだろうが,森芳雄の場合はその時間が特に長いということだ。その痕跡がどことなく彼の画布の上に出ていると私は思う(註6)

註6 今泉篤男「森芳雄の作品」,『森芳雄展』(展覧会=渋谷東急百貨店・大阪梅田近代美術館),日本経済新聞,1975年9 月。

極端な説明の仕方をすれば,要するに,森芳雄は,一種のオートマティスムとでもいうべき制作方法を取る場合がしばしばあったようである。某画廊に勤める人のエピソードによれば,アトリエを訪問したときに,画家が静物画を制作しているのを見た。しばらくして,再度訪問すると,その作品が,いつの間にか,人物画に変わってしまっていた,ということである。こういうことが,頻繁にあったと聞く。このことを,画家一般の制作姿勢と同一視してはならない。というのも,小品の「母と子」(1978年)[Cat.no.76],あるいは「無題」(1988年)[Cat.no.91]などの作品に見てとれるように,絵具の塗り重ねを繰り返しているときに,半ば意識的に,そして半ば偶然に,画面の中から,ある画像が,自然に生み出されるのを画家は待っているのである。しかし,こういう制作姿勢は,実のところ,相当に早い時期からしばしば見られたはずである。すくなくとも,そうした痕跡を止どめている作品が幾つもある。 一人,二人,三人,そして複数の人物像。森芳雄の描く人間像は,実に多様である。しかし,いずれの人物像も,あたかも二重奏,三重奏といった重奏の響きを表明する。画家は,一人の像を描くのはなるべく避けようとしている,と語ったことがある。つまり,この画家にとっては,画中の人物たちが,お互いに関連し合って,複数の形態あるいは感情を響かせることが問題なのだ。群像の表現においては,複数の空間の重なりが,単調になりがちな画面に,変化に富んだ豊かなリズムを生じさせる。また,それぞれの登場人物の感情が,幾重にも木霊して,見る者の心にヒューマンな暖かさを浸透させる。いつの時代でも,画家にとって困難な課題であった形態と内容との豊かな一致。時には形態の力が勝り,時には内容の雰囲気が優位に立つ。決して極端に走ることはなく,その両極をうまく操りながら制作し続けてきたのが森芳雄である。自己の作品に対して,いつも不満であった,あの知的で気難しいエドガー・ドガを髣髴とさせる森芳雄は,八十歳を越えた今なお,繰り返し品格のある人間像を描き続けているのである。

(三重県立美術館学芸課長)

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