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高取

高取焼は,慶長5年(1600),黒田長政が,豊前から筑前に国替えとなってから,朝鮮半島から渡来していた八山(やさん,和名・高取八蔵)が,領主の命によって鷹取山麓に永満寺宅間窯を築いたのが草創とされている。高取焼は,その後,窯場を転々と変えることになるが,そうした高取焼の変遷については高取清右衛門純方による『高取歴代記録』(文化13年・1816)によって知ることができる。

慶長19年(1614)には,窯は鞍手郡内の内ケ磯に移り,さらに寛永元年(1624)には内ケ磯窯も廃窯となり,八山らは嘉摩郡山田村に山田窯を築き,寛永7年(1630)には穂波郡の白旗山の北麓に三度窯を移し,この窯は,寛文5年(1665)まで存続した。その後も,高取焼の窯は移転を続け,小石原村鼓や東皿山,西皿山などの窯で命脈を保った。

最近の研究によると高取焼では,この内ケ磯窯と,それ以降の窯とでは,表現技法の面で,大きな変化が認められるという(尾崎直人「高取焼茶入編年試論──出土陶片を中心に」『美術史』125号1989年)。それによると,例えば,釉薬は,内ケ磯窯では,鉄釉系の釉薬を二重掛けとして多用しているが,それ以降の窯では,多彩な釉薬が使用されるようになり,また,器面に施された装飾文様にも,大きな差異が認められるという。

これら諸窯の中で,最も重要なのは,内ケ磯窯であり,この窯跡は,昭和56年に発掘調査が行われて,多くの陶片が発見された結果,それまで唐津,上野,萩などに比定されていた多くの作品が,高取焼と考えられるようになった。そして,この内ケ磯窯の時期に,八山とその息子八郎右衛門は,小堀遠州に出会って,遠州好みの茶器をつくるようになったと伝えられている。

一見,伊賀の花生や水指を連想させるような作品が,しばしば高取焼のなかに見いだされるが,No.2−84「高取耳付花生」は,そうした作例の一つ。叩き造りによる成形で,胴の部分に櫛目や押し型による文様が表され,全体に飴色の釉薬がかけられている。

No.2−83「高取耳付平水指」も,内ケ磯窯での製作と見られる作品。叩き造りによる成形で,歪みの強い器形を示し,表面に箆よる削りが多く施され,四個の脚が付けられている。釉薬は,飴色を呈する灰釉で,底面に「壬」の文字が箆書きされている。

No・2−86「高取面取茶碗」は,腰の部分に面取りを施した半筒形の茶碗で,いわゆる遠州高取を代表する茶碗の一つ。全体に黄褐色の釉をかけ,その上に片身香りのように濃い褐色の釉をかけ変化をつけている。内箱蓋裏に,「あき風のふくにつけてもとはぬかな萩の葉ならば音はたてまし」という和歌を記した懐紙が貼られている。

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