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志野

16世紀の中葉から17世紀の初頭にかけて美濃では,戦乱を避けて瀬戸から移入した陶工たちによって“瀬戸”焼が盛んに焼かれた。桃山時代の代表的な茶陶である瀬戸黒・織部・黄瀬戸そして志野はそのほとんどが美濃で製作されたものである。瀬戸黒は,瀬戸窯で14世紀以来焼成されていた鉄釉を用いた瀬戸天目の伝統から生まれた黒釉で,ごく小量の水指や茶入などが伝世しているが,ほぼ茶碗が主体を占め,その流れは織部黒や黒織部に受け継がれた。黄瀬戸も鎌倉時代以来の古瀬戸の灰釉の流れのなかから生まれ,室町時代末期から桃山時代にかけて新しい黄釉として開発されたもので,やはり小量の茶器と大量の食器が伝世している。これらが,瀬戸・美濃の鎌倉室町からの伝統のなかから育ってきたやきものであるのに対して志野は,伝統的な瀬戸の釉技のなかにその祖形をもたず,16世紀半ば以降にいたって美濃地方で開花した従来にない新しいやきものであった。

志野の著しい特徴は,長石釉がかけられ白く焼き上げられた膚にある。それまで灰釉の黄釉と黒い鉄釉にたよっていた瀬戸あるいは美濃の窯業地で,この白い釉がいつ頃からもちいられるようになったかは現在のところわからない。

鎌倉時代以来の瀬戸系のやきものは素材の点からみると,灰釉のかかった黄瀬戸と,瀬戸釉と呼ばれる鉄釉のかかった茶褐色のものが主流で,志野の長石釉はそれらに比べるとはるかに後発であることはあきらかである。古来白天目と称されるものでかつて堺の茶人武野紹鴎(1502−55)が所持していたと伝えられる二口の茶碗は,現存する白釉のやきもののなかで最古のものといわれる。桃山期に入って焼成された志野と比較すると,灰釉を基調にしてそこに長石を混入させたもので,純然たる白釉とはいえないにしても,たしかにそれは志野の先駆をなす釉調をもつものであった。したがって今では,紹鴎在世の室町時代の後期16世紀の前半には桃山時代に完成する志野のごく初歩的な段階の作品が焼成されていたことが認められている。

ところで,桃山時代に美濃で焼かれた白い長石釉のかかったやきものを一般的に“志野”と呼んでいる。しかし,“志野”という呼杯がその固有の様式と結びつくようになったのがいつのことからかは明かではない。記録のうえでは江戸時代中期,享保・元文頃にはこの呼杯が用いられるようになっている。たとえば,近衛予楽院の『槐記』や尾形乾山の陶法伝書『陶工必用』には“志野”あるいは“篠”というふうに記されている。

桃山時代の志野はながらく尾張の瀬戸で焼かれていたと考えられていた。たとえば,天明5年(1785)に著わされた『志野焼由来書』には瀬戸の産と記されている。そ・黷ェ実は美濃で焼かれていたということが一般に知られるようになったのは,昭和5年(1930)のことで,陶芸家荒川豊蔵氏が美濃の古窯跡から陶片を採取して紹介したことにはじまる。荒川氏の古窯発見以来積極的に行なわれるようになった発掘調査などによって,桃山時代,志野は美濃とりわけ可児・土岐の二郡に散在する窯で焼かれたことが,判明している。同じ窯では,志野だけではなく,黄瀬戸・瀬戸黒あるいは織部もともに焼かれていた。

桃山の志野の主体をなすのはやはり茶陶であるが,なかでも茶碗にもっとも優れた品が多い。志野茶碗よりも早く焼かれるようになった瀬戸黒にもすでにみられたが,志野においても陶工たちは轆轤成形したのち指で意識的に歪みをつけ,さらに木箆で作為的な削ぎを加えるという,作行きに力感やリズミカルな調子をあたえる作為を加えることをさかんに行なっている。器形をこのように完好な状態から不成形なものにくずす造形意識は,中国陶磁や朝鮮陶磁がシンメトリックな轆轤成形を基本としているのに対して,日本人独特の美意識を感じさせる。

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