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織部

織部焼という呼称は,古田織部正重然(1544−1615)にちなんでのもので,千利休の没後天下第一の茶人として活躍した織部の好みといういい伝えにかかわっている。しかし,織部焼が実際には古田織部とどのような関係をもっているか,あるいは彼が作風を指導したとすれば具体的にどのように行なわれたのか,その間の事実関係を明らかにする確かな資料の存在は現在のところ知られていない

織部が“数寄者の随一”として時代の好みに大きな影響を与えるようになるのは,千利休没後の文禄・慶長のころからであったとみられる。後世,織部焼と呼ばれるようになる茶陶のほとんどは慶長年間(1596−1615)に入ってから焼成された作であり,織部好みを象徴する織部黒や黒織部の沓茶碗も,慶長年間に入って流行するようになったことが,茶会記や古窯跡から出土する陶片からも明かになる。

慶長4年(1599)2月28日に織部が織部自会に用いた茶碗は織部好みの沓茶碗を語る時欠かせないが,その会に招かれた神谷宗湛は『宗湛日記』に次のように記している。「モト茶碗ヒツミ候也 ヘウケモノ也」。歪みのあるひょうげものの茶碗つまり面白いかっこうに歪んだ織部好みの茶碗は,その後に前述の元屋敷窯などで量産される沓茶碗と軌を一にするものと考えられる。

織部焼もその当初は固有の呼称をもたずひろく瀬戸焼と称されたり,あるいは今焼と呼ばれていた。覚永3年(1626)に著わされた『草人木』に「茶碗ハ年々に瀬戸よりのぼりたる今焼のひつミたる也」と記されているのはその証左であるが,この歪みをもった独特の器形の沓茶碗が上々のものとして数寄者にすでに認められていたことがわかる。

古田織部の茶人として活躍期間は天正年間(1573-92)後期から没する元和元年(1615)までのおよそ30年間と考えられるが,しかし,織部在世当時の主要な茶会記に“織部焼”ということばをみつけることは難しい。しかしたとえば,片桐石州が「おりへ(ママ)」と箱書した香合,あるいは「織部焼 手鉢貞享伍戊辰九月」の書付をもつ箱を付属した手鉢などが残っているので,延宝元年(1673)に石州が没するころにはすでに“織部焼”の呼称が数奇者の間で用いられるようになっていたこととみられる。おそらく,その呼称があたえられるのは,江戸時代に入ってのちのことで, “織部殿の好み”という口伝がこの独特の様式をもつやきものの呼称としてやがて一般化していったものともみられる。

慶長年間から元和年間(1596−1624)にかけて美濃で焼成された織部焼は莫大な数量にのぼるとみられる。その多くは加藤景延が唐津から導入した連房式登窯の久尻元屋敷窯で焼かれていた。織部好みの茶陶は,美濃だけではなく,伊賀や信楽,備前,唐津,高取,萩などでも焼かれていたが,それにもかかわらず美濃で焼成されたものだけが織部と呼ばれるようになった理由は明確ではない。

織部には量産に適合した型物が多いが,緑釉や白土や黄土あるいは鉄絵具などを素材にして,誰ケ釉,扇面,州浜,分銅,胴締,その他さまざまに凝らされた織部の意匠は,伝統的な日本趣味の大胆な転用によって,規矩にとらわれない創造性豊かな造形という点で織部を特徴あるものにしている。

一口に織部といっても装飾技法の違いによって,緑釉のみによる総織部,黒釉をかけた織部黒,黒織部などいくつかの様式に分かれる。花入,茶入,香合,茶碗,燭台,大小の皿,鉢,向付など器形も多種にわたるが,なかでも茶碗,向付,皿鉢類に優れた作行のものが多い。

織部焼は,このような沓形あるいは型作りという画期的な造形法がとられ,さらに絵付による意匠の技法を駆使し,日本の陶器にそれまでなかった新しい様式の陶器として登場した。

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