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伊賀焼関係史料

(補注:毛利伊知郎)

史         料 補          注
1.「伊賀筒花生 銘生爪」添状(古田織部筆・上田宗箇宛)
    以上
  花筒つめを
  はかし侯やうに存侯
  宗是ことつて
  進入侯茶入宗是ニ
  可被遣侯来
  春万々可得
  貴意候間不
  能詳侯 恐惶

     古織部
  大晦日重然(花押)
    宗ケ老
       人々御中

2.「伊賀筒花生 銘生爪」箱書(伊丹屋宗不筆)
  覚永九年二月朔日 道朴ヨリ来
    古田織部殿秘蔵に所持侯を
    上田主水駿無理ニ御所望侯
    筒也 主水殿より道朴被申請候
  いかやき花筒 道朴ヨリ形見ニ来ル
         古織部殿そへ状有之
            宗不(不)〔印〕

 史料1と2は,「生爪」の銘を持つ,伊賀筒花生に添えられた古田織部の書状と箱書。「生爪」の銘は,この織部の書状の内容に由来し,それによると,この花生は,かつて織部の愛蔵品であったが,懇望によって上田宗箇に譲られたものであるという。この中で,織部は,「つめをはかし候やうに存侯」と愛惜の念を述べており,織部が,この花生を非常に好んでいたことが知られる。

 また,箱書には,宗箇以後の伝来の状況が小堀遠州の門人伊丹星宗不によって記され.それによると,織部から宗箇に譲られたこの花生は,道朴を経て,寛永9年(1632)に宗不の所有になったという。
3.「伊賀耳付水指 銘破袋」添状(古田織部筆・大野主馬宛)

     巳上
  内々御約束之伊賀
  焼ノ水指令進入候
  今後是程のもなく候間
  如此候 大ひゝきれ一種侯か
  かんにん可成と存候 猶様子
  御使に申渡供 恐惶謹言
     霜月二日   花押
           古織部
      大主馬様
        人々御中
 史料3は,本展にも出品の藤堂家伝来の「伊賀耳付水指 銘破袋」(No.1−7)にかつて添えられていた(大正12年の関東大震災で焼失),古田織部の大野主馬宛への書状。この水指も,古田織部から大野主馬へ譲られたこと,また「今後是程のもなく候」という記述から,本品を織部が非常に出来の良い作品と考えていたことが知られる。

 なお,この水指は,もとは書状中の「大ひゝきれ」の語により,「大ひびきれ水指」と呼ばれていた。「破袋」という銘は,後年になってつけられた銘で,本品本来の銘ではない。
4.『草人木』(寛永3年〔1626刊〕)
   (茶道古典全集 第3巻〔昭和31年刊〕所収)

一古織公の厳を見,手前の時の置合を見侍に,伊賀焼の中をしめき りて,肩のさし渡し八寸四五分,上への高さ八寸計の水さしを, 地敷居のきハより十一目と,茶入と水指との間五目半,茶椀と茶入其間五目也,茶立給ひし時,茶入と茶筌との間も,水指と茶入との間も初と同事也,茶椀は年々に瀬戸よりのほりたる今焼のひつミたる也,別の茶椀も出候へ共,多分其年の今焼也,茶入は秘蔵のせい高,水翻ハたふん(多分)めんつう,引切ハ生竹也,惣而),古織ハ釜の口のせハくつまりたるをすき給へる故,ふるき鑵子(かんす)のくちせまれは,一段と悦喜,又ひろき口の釜なれハ,喩(たとえ)名物にても気に入さる也,去によつて,引切の置所を心かけて見るに,三目にある時も有,四日或四目半・五目にもをかれし也,釜のふたによりて置所替り侍る也,又,一比(ひところ)芋頭とてやきたる水指あり,其時ハ地敷居より七目にをかれ,又一度ハしからき焼の鬼桶といふ水さしの時ハ,九日にも置れし也,如此の事を始として,度々の事を云ハ,書に筆のいとまもなし,なつめと伊賀焼の茶椀の時ハ,初ハ六目に置て,後にハ茶筌となつめの時ハ,其問四目にも置れし也,か様に道具の勿躰によりて,置合を分別し給ひし,時の上手を愚案にかきなす事,憚有へし,いつにても,今焼の竹の筒のことくなる茶入をハ,事によりて十度に七八度ハ茶椀と又茶筌との間四目にて,其外ハ置合替りたる也,(後略)

史料4『草人木』は,筆者は明らかでないが,寛永3年(1626),京都誓願寺前の源太郎という版元から刊行された,茶の湯の手引き,入門書として編集された茶書で.「草人木」の書名は「茶」という文字を分解したもの。上巻には,主客の作法を,中巻には座敷と点前,下巻には台子荘厳について述べる。伊賀焼のことは,古田織部による茶室における諸道具の配置を述べる段で記され,伊賀の水指と茶碗が登場する。
5.『古田織部正殿聞書』
     (古田織部茶書1 茶湯古典叢書2〔昭和51年刊〕所収)

一瀬戸,伊賀焼之花入。古ハ出也。新敷も様子能候は一辺ハ可出,水二差入,取上さのミ雫下落程こて濡色之儘花を生ル也。


6.『宗甫公古織へ御尋書』
    (古田織部茶書1 茶湯古典叢書2〔昭和51年刊〕所収)

◎慶長十三年正月九日

是は慶長十三〔年〕正月九日ノ昼織部殿へ数寄ニ参尋ル,又後こ尋侯へハ,トチへ掛候ても苦ケ間敷由御中候。

一茶入見侯て置所相尋侯へは,亭主の取よき所ニと被申候。

一是同日ニ尋ル,同九日の昼,盆ニテ御たてゝ覚,水サシ伊勢(いか)焼,(へうたんなりの)せい高トンス

◎慶長十三年六月

慶長十三六月六日朝 織部般風炉数寄盆ニて御立候覚(相客 多久八 了和 道也加る)

一水指伊賀やき(焼)いつものことく,釜のクワンノとをりニ置合,茶入フンリン,トンスノ袋に入,内朱外青染のちいさき盆ニノせ,水サシノ前に置合,但茶入,水サシノマン中ニ者。


7.『古織会附』
     (古田織部茶書2 茶湯古典叢書3〔昭和51年刊〕所収)

◎慶長十五年十一月

霜月十八日朝(慶長十五年)
小兵部殿 鳥左京(鳥居左京亮忠政)殿 酒左衛門尉(酒井左衛門尉)殿青伯耆(青山伯耆守忠政)殿 権小三殿 岡太郎左衛門殿

一床に布袋,棚に茶入せい高,広東の袋に入,環と置合,手水の内に備前の花入に水仙・梅入同間にいかやきの花瓶口の水指,右之茶入置合,茶碗瀬戸,水翻めんつう,薄茶■(さ)之間,茶入中次,水こほし瀬戸。

◎慶長十五年十一月

霜月廿七日昼(慶長十五年)
道恵(塗師近藤道恵) 藤元(塗師藤重藤元) 宗喝 等円 大工与左衛門 かまや弥五郎

一床に南浦,棚に引切,くわん,手水の内に備前の筒に梅・水仙入,同間にいかやきの花瓶口の水指,茶入せい高,かんたうの袋ニ入,柄杓・引切と竹,かうしの窓の下に置合,茶碗せと,水建めんつう。

 史料5から7は,古田織部関係の茶書である。こうした,古田織部関係の史料には,伊賀焼のことが各所に言及されており,織部が伊賀の花生,水指などを好んで使っていたことが知られる。史料5の『古田織部正殿聞書』10巻は,『古織公聞書』,『古織伝』などとも呼ばれる,織部の茶の湯の伝書。そこには,伊賀焼きの花生について,一度水中に入れ,濡色のまま花を生けるのが良い旨が記されている。東京国立博物館所蔵の5冊本には,寛文9年(1669)の9月12日の奥書があり,織部以降の伝承の系譜も見ることができる。

 史料6『宗甫公舌織へ御尋書』は,慶長9年(1604)から17年(1612)に至る間,小掘遠州が,織部に茶の湯について尋ねた事柄,あるいは茶会の様子などを記録したもの。慶長13年(1608)正月と6月の織部の茶会に伊賀の水指が使用された記事を見ることができる。

 史料7は,織部閑係の茶会記録をまとめたもの。『古織会附』は,慶長15年(1610)11月16日から翌慶長16年(1611)2月11日までの織部主催の茶会49回について記録する。

この間,慶長15年霜月18日朝の茶会と同年霜月27日昼の茶会において伊賀の花瓶口の水指が使用されている。
8.『紀州徳川家旧蔵利休自筆御茶会席』

天正十五年閏正月廿四日

一,伊賀焼,水指置合。一,瀬戸くろちやわん。一,姥口のあられ釜,のかつぎ。
一,青螺の台に新瀬戸天目。
一,下の棚に,瀬戸の新しき円壺今織袋。

 史料8は,桂又三郎氏が紹介する紀州徳川家旧蔵の『利休自筆御茶会席』で,天正15年(1587)閏正月24日,利久が徳川家康をまねいた茶の席で,伊賀の水指が使われたという。この史料はいわゆる利久百会記の原本と紹介されるが,利久の茶会記録である『利久百会記』は,利久の流れを汲む人たちによって編纂されたもので,異本が多く,各本が伝える年代も様々で,史料としての信頼度が低い。桂氏が紹介する本史料も,原本が確認出来ない現在,年代などについては保留すべきと考えられる。
9.『天王寺屋曾記 宗及茶湯日記 自台記』
         (茶道古典全集 第8巻〔昭和31年刊〕所収)

◎天正九年十月廿七日

同十月廿七日朝  徳雲(誉田屋) 卜意(高石屋) 締九(馬場)
床 蜜(密)庵ノ墨跡 前ニ伊賀壺,(菓子遇テ),蓋しテ,(壺見セ申候),但,手水間ニ,墨跡・壺のけ侯,
床 手水間ニかふらなし,薄板ニ,水仙花,生而,


◎天正九年十一月

同十一月五日朝  (山上) 宗二 (ヤフ)道和
一床ニ伊賀壺,一ツ,手水間ニのけ申候,
一炉 フトン,ツリテ,後ニ手桶 備前水下
一手水間ニ台天目(カスハイカツキ),染茶巾入テ,折ためノ茶杓,台ノゑんニ置,薄茶 大坂茶碗
同十一月七日朝   (平野)道是 宗訊
一床 伊賀壺,一ツ,但,手水之間ニ内へ入申侯,
一炉ニフトン 後ニ手桶 ハウノサキ
一床 手水之間ニかふらなし,薄坂ニ,薄色椿,生而少キ只天目,貝台ニ,道巴天目,台なし,
同十月九日朝   倹斎(長慶寺) 永臨 宗瀝(関本)
一床 伊賀壺,手水之前ニ落シテ見せ申候,(薄茶之時),即,(了雲来儀)内へ入候,


◎天正九年十二月十八日

同十二月十入日朝   (奥村)平六左 (水落)宗恵
一床ニ(伊賀)大壷  手水間こかふらなし,紅梅,生而


◎天正十年正月

午正月十一日朝   了雲(天王寺屋) 道叟(笠原)
一茶過テ,伊賀壺,所望ニ而見せ申候,


◎天正十年

同三月九日朝   久掃部(久方) 舜盛坊
一床ニ墨跡,西岩,前ニ伊賀壺,手水間ニのけ候,壺ヲのこして,おろして置中浜,
午十一月十一日朝 口切 了雲(天王寺屋) 道叱(天王寺屋) 宗訥(銭屋) 茶過テ,伊賀壺,持出テ,床へ及(宗及)上申候,
同十一月十七日朝   道拙(関本) 宗瀝(関本) 宗是(油屋)
一床ニ伊賀壺,但,茶ノ前ニ内ニイレ申候血
同十二月五日朝     徳雲(誉田屋) 紹可(油屋) 卜意
茶過テ,所望にて,伊賀壺見セ申候,
薄茶モ過テ,床へ及(宗及)上申候,
同十二月十二日朝   (松)隆仙 (千)宗易 (草)道教
一薄茶 赤茶碗 被立之時,伊賀壺所望せられて,見セ申,即,取入侯,


◎大正十一年

同二月廿二日朝     宗於 宗壽(やくら下,江藤すたれや)
床ニ伊賀壺,始ニ置, 茶前ニおろしミセ申侯,
同二月廿六日朝     (わかさや)宗啓 一人
床 伊賀壺,一ツ,始ニ置,手水之間ニのけ侯,

 史料9は,堺の豪商天王寺屋津田氏の宗達・宗及・完凡三代にわたる16巻からなる茶会記。記録される茶会の年代は,宗達の天文17年(1548)から宗凡の天正18年(1590)にわたる。そのうち,『宗及自会記』には,天正9年(1581)10月27日を初めとして天正11年(1582)に至るまでの間に,伊賀壺に関する記事が頻出する。
10.『松星曾記 久好茶曾記』
         (茶道古典全集 第9巻〔昭和31年刊〕所収)

◎慶長十六年

(九月九日朝)一舟越五郎右衛門殿へ  (ナマナリ)竹中伊豆守殿 覚甫 久好三人 カラツヤキツ、ニツハキ  ノカツキ釜  イカヤキ水指 驢蹄(ろてい),シマ袋,大キニコシ立,見事也,クロメ也,ヤキ茶ワン、メンツ 引切


11.『松屋曾記 久重茶曾記』
         (茶道古典全集 第9巻〔昭和31年刊〕所収)

◎寛永六年

(十二日朝)一京都上五郎右衛門へ 辻七右衛門殿 井川実右衛門 水五郎右衛門 久重四人
床ニ江月横文字
棚ニ,ツルノアル茶入ト羽箒ト,
胡銅四方花入ニカンキク・梅入, 白高ライ,中ヲシメタル茶ワンイカヤキ水指  メンツ 引切

◎寛永九年

(壬申九月九日晩)一藤堂大学様,勢сm津御城ニテ御茶湯
一嶋主殿介(三)京三宅壽斎(四)京丹斎(二)久重四人 
トモフタ イカヤキ(水楷)

◎寛永十六年三月

一堺南ノ材木町ツホヤ道味 是ハ宗無(住吉屋)ムスメノ子也,亦鈴木道久ハマ丶テ丶也,
一九日朝御茶湯
一中井五郎介 一宗源 一柳生九左衛門
一久重 以上五人
イカヤキ(伊賀焼)水指 宗源茶入 残リハ昨日如也,

◎正保五年十一月

(十一月廿日朝)一藤林助之烝殿へ 中沼左京殿 久重 横井治右衛門 (大コク)長二郎四人
棚ニフクへ,炭組テ,伊賀焼花入ニ赤ツハキ・梅,薄板十,七目ニ,

 史料10・11は,奈良の漆屋・松島源三郎,久政・久好・久重三代の茶会記。松屋は,東大寺八幡の神人の身分を持ち,松屋三名物と呼ばれる松屋肩衝茶入・徐照筆鷺絵・存星盆を所持した家で,村田珠光の茶の湯の伝統を受け継ぐ名家として世に知られた。この『松屋会記』は,天文2年(1533)から慶安3年(1650)までの120年程の記録であるが,伊賀は,「久好茶会記」の慶長16年(1611)と,「久重茶会記」の寛永6年(1629),同9年(1632),同16年(1639),正保5年(1648)に,花生や水指の記事が見られる。
12.『三国地誌』巻六十七(藤堂 元甫筆)
        (大日本地誌大系 第33巻〔昭和45年刊〕所収)

○瓷器義豪丸柱村製,伊賀焼と云是なり。古本邑と槇山村より出す,茶壺・水指・茶入・茶碗・花瓶・酒瓶の類なり,茶道を嗜む者愛翫す。又槇 山釜と称する老あり,筒井定次の時焼又山道手と云ものあり,又あした焼と云ものあり,是等を皆古伊賀と称す,大抵江州信楽焼に類す。

 先君 大通廟の時,命じて水指を造らしむ,其製間雅なるを以,柳営の御物となる,自余皆 君家の宝薄に蔵む,是を御家竈とも亦手入徳利とも云。

 史料12の『三国地誌』は,上野城代職も勤めた藤堂藩の重臣であった藤堂元甫(1677−1762,生年については異説あり)が編纂し,伊勢・志摩・伊賀三国の城邑・村里・故蹟・神祠・山川・土産などの事項を郡ごとに調査し編集した地誌。全112巻からなり,宝暦13年(1763)に刊行されたが,史料としての信頼度は高い。巻67の阿拝郡の「製造附」として,伊賀焼のことが記され,領主筒井定次の時に,丸柱村・槇山村で焼かれたのが伊賀焼であるとの記述から,伊賀焼の初期のものが「筒井伊賀」と呼ばれるようになった。
13.『藤堂家旧蔵記録』(川崎克『伊賀及信楽』〔大正15年刊〕所収)

大通院様御代寛永十二年乙刻(亥)の春
伊州丸柱村之水指御物好に而焼せられ京三条の陶工
                        孫  兵  衛
                        伝     蔵
両人雇ひ呼寄所之事欠加減を晋ひ候由其節凡,
百三十三出来して東府へ送る由
右之者永蔵の古書之内に在之
一,翌寛永十三子年正月
大通院様伊州被遊御越候節右丸柱村之焼物之仕様被遊御覧候義有
之,此一条は加納義左衛門延宝之由緒書ニ在之
                        喜田村道蔵より之書

寛文九己酉年
伊賀国丸柱白土山
七月十二日,右上包に
御武具方より之書付と有之
御状致拝見候処,丸柱古窯之土を以て水指等
為御焼被遊御蔵に右之土をも御貯蔵被成侯
而右之山 留山に被仰付候
大通院様
了義院様御代之内と思召候得共,区々に而右御両院様の内どなた様の御代に候哉旧記等相調可申旨尤水指等為御焼被成候は大通院様の御代に御留山に被仰付候は了義院様御代杯と申儀に而も可有之哉右等之趣 相調可申旨被仰出候委奉敬取即御永蔵に有之候古書共早々吟味に取懸り候得共数多く古書共愈々lとは難相知候与得相考重々致吟味以上可申上侯
                        右に而
                       喜田村道蔵

 史料13の『藤堂家旧蔵記録』は,伊賀焼研究の最も早い時期の成果である川崎克著の『伊賀及信楽』(大正15年刊)に紹介される史料。現在では,原本の確認は不可能である。そこには,藤堂藩二代藩主高次の時,寛永12年(1635)に京の陶工孫兵衛・伝蔵の2名を丸柱に呼び寄せ,土地の者に火加減を習わせて水指を製造したこと,また翌寛永13年には,藩主高次自ら丸柱で,焼物を視察したことなどが記される。さらに,寛文9年(1669)には,陶土を採集していた白土山がいわゆる御留山となって,以後採集禁止となった記事なども見ることができる。
14.『森田九右衛門日記』(延宝6−7年〔1678−79〕)

 ◎延宝六年九月一日

 一,同日,伊賀やきの事尋申候へば,信楽長野より三里南,伊賀の内丸娃と申所にてやき申由,四十ケ年以前迄やき申侯,此頃はやき不申由,長野庄屋善兵衛申候

 史料14は,現在では一般に『森田久右衛門日記』の名で呼ばれるが,この名称は後世になって便宜的につけられたもの。土佐尾戸焼の陶工森田久右衛門(1641−1715)が延宝5年(1678)7月10日から翌年10月13日までおこなった江戸への旗日記。この旅行中,久右衛門は各地の窯場を訪れて,その記録を書き留めている。延宝6年(1679)9月1日の条には,伊賀丸柱の焼物は,それより「四十ケ年以前迄やき申侯」との長野庄屋善兵衝からの聞き書きが記されていて,寛永15年(1638)頃には丸柱が廃窯となったことが知られる。
15.『隔■(みょう)記』(鳳林承章筆)(寛永12年−寛文8年〔1635−1688〕)

 寛永十五年九月小六日
 自北野,徒歩,而町中之樹木見物,町買三色。花入壱ケ,伊賀焼也。
 寛永十六年六月廿六日
 招竹由宗以,催非時,占小団。……花入古伊賀焼蕣二色入。
 寛永二十年五月廿三日
 茶道一通遣千若林小作也。……今伊賀之水指……。
 正保四年九月晦日
 西川忠味為遺物,伊賀焼水指
 寛文七年閏二月朔日
 水指新敷伊賀焼

 史料15の『隔■(みょう)記』は,寛永12年(1638)から寛文8年(1668)の30年余りにわたり,鹿苑寺二世鳳林承章(1592−1668)が記した全30冊の日記。鳳林承章は当時の茶人や公家,画家,陶工らの文化人たちとの交渉を頻繁に行っており,茶会や道具商関係の記事の中に陶器に関する記述も各所に現れる。寛永15年(1638)から寛文7年(1667)頃にかけては,伊賀の花生・水指などが使用された記事を見ることができる。
16.『槐記』(山科道安筆)(古道古典全集 第5巻〔昭和31年刊〕所収)

 享保十一年二月十一日
   進藤一葉へ御成 深諦院殿 拙
  水指 伊賀,打込ミ塗蓋 半分ハコケ,半分ハ白薬
 享保十一年十一月十一日
   進藤一葉へ御成 深諦院殿 拙
  水指 伊賀,塗蓋 口前へ傾テ面白シ
 享保十二年正月二十三日
   御茶 深諦院殿 拙
  御水指 伊賀
 享保十二年四月三日
   午後ヨリ,左典厩ガ宅へ茶ニ御成,即チ御供
  床置花生 伊賀,丸薄板黒塗,杉ノ花台ニ薊 川骨,紫蘭,小刀,永次,払中
 享保十三年十一月三日 左馬頭へ渡御 石見守
                     拙
  水指 伊賀
 享保十四年五月四日 御茶 内府公  石見守
                   拙
  御水指 伊賀,共蓋
 享保十六年二月二十七日 恕軒御茶献上
  水指 伊賀

 史料16の『槐記』は,予楽院近帝家熙(1667−1736)の待医山科道安が,家照に伺候して聞いた事柄を書き記したもの。享保9年(1724)正月から同20年正月までの記録を収める。家熙は,当時第一級の文化人であり,書画の他,茶・華・香なども良くし,学者・文人・茶人たちと幅広い交遊を保っていた。享保10年代の茶会の記録には,伊賀水指・花生などの使用例を見ることができる。
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