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関係年表

(森本 孝・編)

1207 元久4 「丹波大甕」(「元久四年」銘)
1312 正和1 「瀬戸瓶子」(「正和元年)銘,岐阜県白山神社)
1342 康永1 「備前大甕」(「暦応伍」銘,和歌山県長寿寺)
1369 応安2

「信楽甕」(「応安己酉 中 延口」墨書銘)

1458 長禄2 「信楽甕」「摺鉢」(「長禄二年)銘」
1480 文明12 「備前四耳壺」(「備前國伊部村 小幡長法寺 谷之坊 教舜廴(造)也 文明十二年夘月廿四日」銘)
1502 分亀2 村田珠光没(1423−)。
1512 永正9 「瀬戸四耳壺」(「永正九甲壬」銘)
1516 永正13 能作者の金春禅鳳は「伊勢物,備前物なりとも,面白くたくみ僕べく侯」と記している。
1533 天文2 奈良の富商・松屋久政,『松屋会記』をはじめる。
1542 天文11 千利休(1522−91)の師・北向道陳が「信楽水指」を用いたことが記されている(『松屋会記』)。
1544 天文13 「土の水サシ」初出(『松屋会記』)。
1548 天文17 堺の豪商・津田宗達は『天王寺屋会記』をはじめる(1566年まで。1565年から,その子の浮田宗及がはじめる)。
1549 天文18 「しがらき(信楽水指)」(『天王寺屋会記』)。茶会記に「伊勢天目」初出(『天王寺屋会記』)。備前・信楽などでは天文年間から茶人の好みや注文によって,既に茶の湯に使用する目的のものが焼成されていたといわれている。
1553 天文22 「志野茶碗」初出(『天王寺屋会記』)。
1554 天文23 茶会記に「しからき茶壺」の記載初出(『天王寺屋会記』)。堺の今井宗久(1520−93)は『今井宗久茶湯日記書抜』をはじめる。『茶具備討集』編纂。
1555 天文24 武野紹鴎没(1502−)。「シノ茶ワン」(『今井宗久茶湯日記書抜』)
1557 弘治3 「備前花生」(「備州大瀧山 中道院 常住物 弘治三年三月廿一日」刻銘)。
1558 弘治4 この頃成立したといわれる『桂川地蔵記』に,備前や瀬戸とともに信楽の壺が茶の湯で用いられたことが記されている。
1558 永禄1 「信楽四耳壺」(「永禄元年九月吉日 信楽 勅旨 染師満介作」刻銘)
1563 永禄6 茶会記に「瀬戸茶ワン」初出(『今井宗久茶湯日記書抜』),「セト肩衝(茶入)」初出(『松屋会記』)。
1566 永禄9 『天王寺屋会記』に「備前物之かたつき」と記され,備前茶入の初出。
1567 永禄10 「備前ハウ之サキ(備前棒の先建水)始而 是ハ従濃州来ル焼 前ニ紹鴎所持也」(『天王寺屋会記』)。茶会記に「備前花入」が初出(『天王寺屋会記』)。この年廃城になった小牧城跡から瀬戸・美濃陶出土。
1569 永禄12 『今井宗久茶湯日記書抜』に「此茶碗 始而見也 瀬戸茶碗 キサミ(刻)アリ」の記載が見られる。
1570 永禄13 1570 永禄13「志野茶碗」(『天王寺屋会記』)
1572 元亀 『天王寺屋会記』正月九日の満田宗春の会に「シカラキ セイ高キヤウニ見へ侯 コシノヨレヤウアシク候歟 土白ケ色ヒヽワレノヤウニ惣ニ見へタリ 紹鴎之シカラキ也」とあり,武野紹鴎(1502−55)が信楽水指を所持していたことがわかる。
1573 天正1 越前の朝倉氏滅亡,朝倉遺跡から備前・信楽・瀬戸・美濃陶等が出土。
1574 天正2 「楽焼獅子瓦」(「天正二 春 依命 長次良 造之」銘)。織田信長は千利休らを招いて相国寺で茶会を開く。信長から陶工賀藤市左衛門に朱印状が与えられる。
1576 天正4 安土城完成。
1578 天正6 「備前鐘形水指」(「天正六年」銘,林原美術館蔵)。
1581 天正9 茶会記に「伊賀壺」の記載初出(『天王寺屋会記』,10月27日の条)。以後11月朔日,5日,7日,9日,晦日,12月18日,翌年の正月11日,3月9日,10月3日,11月11日,17日,12月5日,12日,翌々年2月21日の茶会にも用いられたことが記されている。
1582 天正10 1582 天正10 飯田信長没(1534−)。
1585 天正13 正月,筒井定次,大和郡山から伊賀上野へ国替えととなる。この年以降に,茶陶としての伊賀焼が始まったものと考えられる。豊臣秀吉,関白となる。
1586 天正14 松屋久好,『松屋会記』をはじめる(1626年まで)。
1587 天正15 正月24日の紀州徳川家旧蔵『利休自筆御茶会席』(『利休百会記』の原本)に,「一,伊賀焼 水指置合 一,瀬戸くろちゃわん」と記され,茶の湯に用いるために焼成された伊賀焼の使用に関する最も早い記述と考えることができるが,全面的な信頼はできない。豊臣秀吉,京都北野大茶湯を開く。茶頭は千利休,津田宗及,今井宗久がつとめる。北野大茶会の道具立てのなかに,納屋宗久が「信楽肩衝」を用いたことが記されている(『松屋会記』)。
1588 天正16 紹鴎所持と伝える「備前水指」が伝世しているが,『山上宗二記』における「紹鴎備前筒」,「紹鴎備前物の面桶」の記述はこの頃と見られている。
1589 天正17 利休の高弟・山上宗二は『山上宗二記』で「惣テ茶■(わん)ハ唐茶■(わん)スタリ,当世ハ高麗茶■(わん)・瀬戸茶■(わん)・今焼ノ茶■(わん)迄也,形サヘ能侯ヘハ数奇道具也」と記している。「信楽壺」(「天正十七年三月五日 大工新二郎」刻銘)。
1591 天正19 津田宗及没(生年不詳)。千利休没(1522−)。
1592 天正20 「唐津三耳壺」(「天正二十年」銘,壱岐聖母神社)。
1593 文禄2 「黄瀬戸皿断片」(「文禄二年」銘)。今井宗久没(1520−)。文禄・慶長の役始まる。
1595 文禄4 「楽三彩獅子香炉」(「文禄四年」銘)。蒲生氏郷没(1556−)。
1596 慶長1 小掘遠州,古田織部に茶の湯の指導を受ける。
1597 慶長2 「丹波壺」(「慶長二年」銘)
1598 慶長3 豊臣秀吉没(1536−)。
1600 慶長5 この頃から,織部好みの歪みの強い沓茶碗が美濃において焼成されたものといわれている。
1601 慶長6 「香合備前」初出(『松屋会記』11月20日条)
1602 慶長7 茶会記に古田織部が「伊賀三角筒花生」を用いたことが記されている(『古田織部自会記』)。これが茶の湯で用いることを目的として焼成された伊賀焼が,使用されたことを明らかにする確実で最も早い記録である。
1604 慶長7 松屋久重,『松屋会記』をはじめる。
1605 慶長10 「志野扇面向付」(「慶長十年六月」銘)
1608 慶長13 筒井定次,領地を没収されて磐城の平に流される。定次にかわって,藤堂高虎が伊賀領主となる。
1611 慶長16 茶会記に「イカヤキ水指」初見(『松屋会記』)。
1612 慶長17 「信楽水指」(「慶長十七年」銘),「織部獅子鈕香炉」(「寄進仕候 加藤佐右衛門 熱田大神宮」「熱田太神宮 九月吉日 加藤 佐右衛門 寄進 仕候 慶長拾七年」銘)。「美濃伊賀水指断片」(窯ケ根窯?,「慶長十七年」銘)
1613 慶長18 「丹波壺」(「慶長拾八年二月青日 上 吉左衛門(花押)源十郎(花押)」銘)
1614 慶長19 「窯ケ根窯匣鉢陶片」(「慶長拾九年」銘)
1615 元和1 筒井定次没(1562−)。古田織部没(1544−)。藤堂高虎は,織部が切腹を命ぜられた際,茶器一切や墨蹟を没収,後に織部の屋敷を自邸に譲り受けている。(なお,この屋敷は後に娘婿である小堀遠州に与えている。)
1616 元和2 徳川家康没(1542−)。
1618 元和4 「絵唐津皿断片」(「元和四年二月十五日」銘,川古窯の谷下窯から)。「黒唐津壺」(元和四年」彫銘)。「丹波三耳壺」(「上々吉 元和四年五月夏吉日」銘)
1619 元和5 「備前透文釣燈龍」。(「元和五年 木村二□□夘月吉日」刻銘)
1620 元和6 「伊賀掛花生」(「元和六年 三之内 宗石 卯月中三之内」刻銘,滴翠柔術館蔵)
1622 元和8 「織部燭台陶片」(大富窯,「元和八年 五月 日」銘)
1623 元和9 「伊賀沓茶碗」(「元和九年」銘)
1624 元和10 「丹波壺」(「茶坪五斤入 元和十年三月十六日仕候也此坪七匁五分也」銘)
1624 寛永1 「丹波四耳壺」(「上々吉 寛永元年玄三月朔日 立杭村徳左衛門作」銘)。桂離宮完成。
1625 寛永2 「瀬戸狛犬」(「赤津村 加藤陶兵衛作寛永貳年壱月十日」銘)
1626 寛永3 織部使用の水指として,「伊賀焼の中を しめきりて 肩のさし渡し八寸四,五分,上への高さ八寸はかり」と,胴締の水指が使用されたことが,この年刊行の『草人木』に記されている。
1629 寛永6 「鉄釉四耳壺」(寛永六年 如月 日 天下一筑後窯景延(花押)」銘)
1630 寛永7 藤堂高虎(1556−)没し,次男の高次(1601-1676)が2代城主となる。この頃から藤堂伊賀が焼かれたとされているが,詳細不明。また,『三国地誌』に「寛永年間,小掘遠江守陶工をして茶器を製せしむ,其製極めて精良なり」とあり,遠州伊賀もこの頃焼成されていたといわれている。
1635 寛永12 藤堂家の記録(喜田村道蔵の書)に,「大通院様御代寛永十二年乙亥の春,伊州丸柱村之水指,御物好にて焼せられ,京三条の陶工孫兵衛,伝蔵,両人雇ひ呼寄,所の者火加減を習ひ候由,其節凡百三十三出来して東府へ送る」と,また,翌年には「大通院様伊州へ御越し遊され候節,右丸柱村の焼物の仕様御遊覧され候,之れ有り」と記されていることから,この頃,藤堂伊賀が焼かれていたものと考えられる。(注:大通院とは藤堂高次のこと。)
1637 寛永14 本阿弥光悦没(1558−)。
1638 寛永15 「丹波徳利」(「覚永十五年九月吉日 喜十郎」銘)。『森田久右衛門日記』の延宝6年(1678)の記事に「四十ヶ年以前迄やき候,此頃はやき不申由,長野庄屋善兵衛申候」とあり,長野庄屋善兵衛の記憶に間違いがなければこの年伊賀焼は廃窯ということになるが,信頼できない。
1642 寛永19 小堀遠州 この年から4年間,徳川家光の茶の湯の指導にあたる。
1643 寛永20 金閣寺の鳳林和尚の日記『隔■(みょう)記』の記事は,この頃もなお伊賀において焼成は続いていたように理解でき,寛永15年廃窯という長野庄屋善兵衛の記憶と異なる。満岡忠成氏や林屋晴三氏の説によれば,寛永の末年頃に伊賀の窯は廃絶したことになる。伊賀焼が再興されるのは,宝暦年間(1751-64)と考えられている。
1646 正保3 「伊万里染付皿断片」〈「正保三」銘)
1647 正保4 小堀遠州没(1579−)。
1665 寛文5 「織部水滴」(「寛文五年 巳 五月十六日 大平加藤□□□」銘)
1669 寛文9 丸柱で使っていた白土山の陶土が,この年,あるいはこの年以前に採取禁止となる。(喜田村道蔵の記録)
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