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伊賀

三重県伊賀地方において,桃山時代以前に窯業が行われていたのか,そしてそれはどの時期に始まったものか,現在においても依然明確になっていない。桃山時代に茶の湯に用いることを前提として焼成された伊賀焼は,古伊賀と呼ばれ,筒井伊賀,藤堂伊賀,遠州伊賀とに区別されているが,そのそれぞれが何処で何時から何時まで焼かれていたのか,伝世しているそれぞれの古伊賀がどれであるのか,推測の域を出ない。桃山時代に,槇山窯,丸柱,上野城内の3ケ所で焼かれていたことが現在までの調査で明確になっているが,詳細については今後の窯跡調査を待たなければならない。

信楽においては,桃山時代よりかなり以前から雑器類が生産されていたことが知られているが,これらが焼かれていたことが想定される五位の木窯と,槇山窯とは隣接した位置にあり,使用された土にも,焼成の方法も差異は小さく,現在の時点において信楽で焼かれたとされている壺や甕の中に伊賀で生産されたものが存在する可能性は高い。一般的には,伊賀においても中世に窯業が既に行われていたとされている。

茶会記において,天正9年(1581)11月に「伊賀壺」が用いられたことが記されているのが確実な史料での初出で,好評を得て以後たびたび茶会記に「伊賀壺」は登場しているが,茶陶・伊賀の焼成は,古田織部の弟子で数寄者であった筒井定次が大和郡山から伊賀上野へ国替えとなった天正13年(1585)正月以降に始まったものと考えられてる。茶の湯の器として焼成された伊賀焼が用いられたことを記す最も早い記述は,桂又三郎氏によれば,天正15年(1587)正月24日の紀州徳川家旧蔵『利休自筆御茶会席』(『利休百会記』)に記述があることになるが,この徳川家旧蔵の記録を全面的に信用することはできず,茶陶・伊賀焼の開始は慶長年間にまで下る可能性もある。筒井定次が改易されたのが慶長13年(1608)であることから,筒井伊賀はこの年までに焼成されていたことになる。

藤堂伊賀は高次の時代,すなわち高虎が没した寛永7年(1630)以降ということになる。しかし筒井定次改易から寛永7 年まで領主であった高虎の時代の消息は伝わっていないが,高虎と古田織部や小掘遠州との交友関係からして高虎の時代も焼成されていたことを否定することは難しい。遠州伊賀については,寛永年間であろうと推測されるくらいで不明な点が多い。

茶の湯が「わび」という明確な理念を確立し,唐物嗜好から脱皮して,粗末な雑器を茶器に見立て,そして自らの好みに合う茶道具を創造していくことになるが,同じ意図から作陶された同時代の陶芸のなかでも豪壮な古伊賀は,破格の風情を持っている。

端正な形態を拒否した上に,さらに激しい炎の洗礼を受けて生じた歪みやひび割れ,偶然の窯変によってできた焦げ,ビードロ釉,そして強烈な作意を窺わせる 目などが見所となった古伊賀の花生や水指の風格は,他に類例を見ることができないほどの美しさを持っている。古伊賀は純粋抽象芸術の最も先駆けでもある。

水指のなかで古伊賀を代表するのは,藤堂家伝来の「伊賀耳付水指 銘破袋」(No.1-7,五島美術館蔵)であろう。この銘は重要文化財指定の際に銘が付けられている。この「破袋」に添えられていた大野主馬宛の織部の消息には「内々御約束之伊賀焼ノ水指令進入候 今後是程のもなく候間 如此侯大ひゞきれ一種侯か かんにん可成と存候」と記されている。ほとんど全体に若草色のビードロ釉がかかり,膨った胴の縦に生じた山割れ,縦横に入ったひび割れが景色となり,堂々とした姿が魅力的である。

桃山時代に焼成された伊賀焼のなかで花生にも優品が多い。口辺の破片が飛び散り,胴の部分などに突き刺さるように付着して,からたちの棘を連想させることから命銘された「伊賀耳付花生 銘からたち」(参考図版 畠山記念館蔵)」は創意と大自然の変化の強さを窺わせている。口作りは薄く,底部に一周と六角面取りの胴のように箆目が入れられている。裾の濃い焦げの上に厚くビードロ釉がかかり,たとえようがない程色彩も深い。前田家伝来。

「伊賀擂座花生 銘芙蓉」(No.1-51)は俗に「花不用」(はないらず)と呼ばれている。この花生を所蔵していた益田紅艶は,「この伊賀に 上野あるかは志らねども 花は不用と人ハ云ふなり」という狂歌を箱の裏面にしるしている。口部は朝顔形に開かせ,胴には縦に箆目を入れ,厚い底を付けている。胴から裾の濃い焦げ,ビードロ釉など,古伊賀を代表する魅力を備えている。

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