このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

上野

上野(あがの)焼は,文禄・慶長の役の際,朝鮮半島から九州に渡ってきた尊楷(そんかい,和名・上野喜蔵)を開祖とする。伝承では,尊楷は加藤清正に従って渡来し,最初唐津領内にいたという。その後,茶人としても知られた細川忠興(三斎)が関が原の戦いの戦功により,慶長7年(1602)丹後国田辺から豊前小倉へ移封になると,招かれて,小倉の菜園場に窯を開いたという。慶長10年(1605)頃,尊楷は,窯を田川郡福智山山麓の釜ノ口に移した。しかし,寛永9年(1632),2代藩主忠利の時,細川藩が熊本へ国替えになると,釜ノ口窯は廃窯となり,尊楷も肥後国八代へ移って,八代焼を興し,尊楷は承応3年(1654)に没したと伝えられる。上野焼の窯としては,釜ノ口窯の他に,上野皿山本窯,岩谷高麗窯が,上野焼の窯跡として知られているが,最も重要なのは釜ノ口窯である。

この釜ノ口窯は,昭和30年に発掘調査が行われた結果,全長41メートルに及び,焼成室を15も備えた大規模な半地上式連房式登窯であったことが確認された。この窯跡からは,多くの摺鉢,皿などの日用雑器の陶片に混じって,茶碗,水指などの茶器の断片が採集されたが,この窯での生産の中心は,日常的な製品であったと考えられている。そうした釜ノ口窯出土の陶片には,高取焼の内ケ磯窯から出土した陶片に近いものが含まれているが,それは高取焼代々の記録が記された『高取歴代記録』中の,高取の内ケ磯窯が廃窯となった時,一部の陶工たちが豊前領内に移って陶器を作ったという記述を裏付けていると考えられている。

出品作品のうち,No.2−80「上野四方耳付水指」は,全体に藁灰釉をかけ,部分的に鮮やかな緑に発色する胆礬をかけ焼成されていて,上野焼の代表的な作品とされてきた。しかし,高取焼の内ケ磯窯跡の発掘調査が行われて,この作品に似通った陶片が発見されたことから,最近では,本作を高取焼の作例として見る説も提唱されている。

また,No.2−81「上野耳付水指」は,口縁を少し絞った筒形の水指で,小形の耳を作り出している。全体の飴色の地に,白い斑釉があらわれており,この作品も上野焼の作品として,よく知られている。

No.2−82「上野口寄香炉」は,口縁が内方へ伸びた形式の青磁口寄香炉を写した三脚を持つ作品で,底面と脚の部分を除いて,黒っぽい飴色の鉄釉がかかっているが,下半部は,淡褐色を呈している。釜ノ口窯での製作とみる説がある。

ページのトップへ戻る