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V 昭和前期の洋画

1923年(大正12)に起こった関東大藩災によって,日本の社会は政治的,経済的,思想的に大きな転換を遂げ,新しい時代,すなわち昭和を迎えることになる。このことは美術の分野においても当てはまり,この時期以後,西欧におけるダダの運動をはじめとする前衛美術が展開するようになった。ダダはあらゆる既成の芸術を否定する革命的な芸術運動であるが,それは関東大震災後の混乱期を背景にして,社会革命を志向する共産党系のプロレタリア芸術の運動を誘発させることに繋がった。これらの前衛的美術団体としては,1920年(大正9)に結成された未来派美術協会,1922年(大正11)に中川紀元,横山潤之助,古賀春江らによって結成されたアクション,1923年(大正12)結成の村山知義を中心とするマヴォ,1924年(大正13)の三科造型美術協会,1928年(昭和3)の日本プロレタリア美術家同盟などが挙げられるが,それらの活動の大半は,芸術的想像力とイデオロギー的主張とを統一させることができず,衰退の一途をたどっている。ただ多くの社会派的な芸術家たちの中で,社会主義レアリスムの方法を掲げて,卓抜な作品を制作したのが帝展のホープといわれた前田寛治である。彼は《棟梁の家族》(1928年)などの労働者を主題にした作品を制作し,正確な質感と記念碑的な量感を獲得した。その優れた造型的力量は,何枚もの「裸婦」を描いた作品においても明白に理解することができるであろう。ただ前田ほどの優れた画家でさえ,《メーデー》(1924年)のような直接的にイデオロギー的内容を盛り込んだ作品においては,芸術的な完成度という点で,充分に成功しているとはいえないのである。

さて,1926年(大正15)には,佐伯祐三,前田寛治,里見勝蔵,小島善太郎,木下孝則らによって,全体としてはフォーヴィスムの傾向を保持する1930年協会が結成され,古賀春江,野口弥太郎,長谷川利行らが参加した。

佐伯は1923年(大正12)に美校を卒業した後すぐにパリに渡っている。フランスでは,フォーヴィスムの巨匠ヴラマングを訪ねて決定的な影響を受け,その時期を境にフォーヴィスムへの苦難の道を驀進することになった。彼の作風にはヴラマンタの情熱的性格とユトリロの抒情性が入り混じっているといわれるが,《レ・ジュ・ド・ノエル》(1925年),《ガス灯と広告》(1927年),《カフェのテラス》(1927年)など夥しい数のパリ風景には,佐伯の気質を端的に示す鋭くて繊細かつ神経質な描線が自由自在に走っている。彼は大正時代に若くして散った多くの画家と同様に肺結核に囚われて,パリ近郊のヌイイの精神病院で30年の頬い生涯を終えている。

大正末から昭和にかけて海外で活躍した画家の筆頭といえば,まず藤田嗣治の名前が想い浮かぶに違いない。彼は1913年(大正2)にフランスへ渡り,第一次大戦後の1920年代にグラン・フォン・プラン(すばらしい乳白色の地)といわれた独自の画面に,鋭く繊細な線描によって個性的な作品を描き,一躍パリ画壇の寵児となっている。

またこの時期に,フランス以外の土地,たとえはアメリカやメキシコで活躍した異色の日本人画家たちが,母国日本に帰還している。彼らはアメリカン・シーンあるいはソシアル・シーンの画家と呼ばれ,従来の日本の洋画には見られない特異な様式を身につけていた。すなわちアメリカで活躍した国吉康雄,野田英夫,清水登之,石垣栄太郎,そしてメキシコから帰国した北川民次らである。中でも国吉は《階段の裸婦》(1929年)や《誰かが私のポスターを破った》(1943年)などの作品において,まるで画面全体に乾いた風が吹いているような様式を示した。そこには人間や事物の存在のいわく言い難い淋しさと孤独な詩情が漂っている。

さて,1930年協会は第5回展をもって解散し,その継続的発展と見なされる独立美術協会が1931年(昭和6)に第1 回展を開催している。創立会員には,里見勝蔵,児島善三郎,小島善太郎,林武,川口軌外,中山巍,清水登之,高畠達四郎,伊藤廉,三岸好太郎,福沢一郎らが名を連ね,遅れて,野口弥太郎,須田国太郎,海老原喜之助,小林和作,曾宮一念,井上長三郎,鳥海青児らが会員に加わった。この団体は,1930年協会と同様に,主として印象派と対決する姿勢を貫いたフォーヴ系画家の集まりであったといえる。

さらにこの時期には,パリで藤田に師事した海老原喜之助,岡鹿之助,岡田謙三が帰国し,エコール・ド・パリの雰囲気の中で身につけた個性的な作風を展開させることになる。

昭和前期の洋画は,大正時代に引き続いて,フランスを中心とするヨーロッパの芸術によって強い影響を受けたが,そうした状況の中から,徐々にではあるが,日本独自の洋画が確立される徴候を示した。ただ明治初期以来,無数の洋画家たちが,西洋の風土が生み出した油絵具ヒ格闘し続けてきたが,昭和前期の時代においても,日本人が油絵を描くことの困難な状況が本質的に変化したわけではなかった。この時期にスペインで画技を磨いた数少ない日本の洋画家,鳥海青児は『日本の自然と油絵風景画』の中で次のように記している。

「日本に油絵が始まって七十年。わずかに岸田劉生が鵠沼風景として残した形式と,萬鉄五郎が素材として生かした,この二人の功績をのぞけば−残念ながら皆無と言ってよい」 日本の風土に西洋の油絵具は適合しないという鳥海の発言の当否はともかくとしても,こうした主張は,大正から昭和前期に至る洋画を振り返るときに,驚くほど重みのある言葉として響くはずである。

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