このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

三輪勇之助のダブル・イメージ

荒屋鋪 透

(一)

その横長200号のキャンヴァスには、端正な筆致で、赤レンガの西洋館とモニュメントが描かれている。建物頭上の空にぽっかり穴が開き、装飾の施された木の階段が降りてくる構図である。モティーフは題名にあるように、東京竹橋の旧近衛師団司令部、現在の東京国立近代美術館、工芸館。

昭和42年、第21回二紀展に出品された、三輪勇之助の≪司令部跡の階段≫について、土方定一は以下のような賛辞をおくっている。「二紀会の第1室では……三輪勇之助の≪司令部跡の階段≫……など注目された。ことに三輪の東京風物の建物を構成する二重映像の感傷の作品をぼくはよろこぶ。明治の建物を描くのは追憶の感傷だが、三輪には感傷の詩がある」【毎日新聞(夕)、昭和42年10月23日(月)】。≪司令部跡の階段≫ は、二紀展出品の後、同年12月、安井賞候補に選ばれた。三輪の作品は、三尾公三≪PERSPECTIVE IN BLUE“W”≫、下高原千歳≪男・女≫、時田幸彦≪華厳の滝≫、奥谷博の≪独活と鰈 ≫、寺島竜一≪坐像≫などと審査の最終グループに残ったが、この第11回安井賞は島田章三の≪母と子のスペース≫に決まった。候補作品が一堂に会した第 11回安井賞候補新人展は、昭和42年12月16日から翌43年1月21日まで、東京国立近代美術館で開催されたが、安井賞に対する選考委員の考え方の相違から、同展が東京国立近代美術館で開催されるのは、第11回展が最後となった。三輪の≪司令部跡の階段≫は、同美術館によって購入されている。この昭和 42年、実はもうひとつの安井賞候補新人展があった。昭和42年1月27日から2月26日まで、やはり東京国立近代美術館で開催された、第10回安井賞候補新人展である。この年の安井賞は宮崎進の≪見世物芸人≫であったが、同賞を最後まで競った作品がある。三輪勇之助の≪明治の館≫と≪東京日本橋≫である。現在、≪明治の館≫は神奈川県立近代美術館が所蔵している。同年2月3日の東京新聞には、以下のような記事が掲載された。「日本洋画壇の具象派新人の登竜門といわれる安井賞の候補百十二人、二百十五点を陳列している。安井賞は既報のように宮崎進(光風会会員)の「見世物芸人」に決まった。……宮崎の作品と向かいあった壁に、最後まで賞を競ったという三輪勇之助の二点がある。東京の新旧風景を一つの画面上に、現在の風景を写実的に描き、その上に旧風景を建築設計図ふうの線描で重ねた、ダブルイメージの作品である。通説に従い、具象絵画は、具象のイメージの上に成り立つ絵画だと解釈すれば、ここではその建設設計図ふうの線描がどんなイメージをあたえるかという質の問題がでてくるだろう。また、具象のイメージの質、内容に重点をおくか、ダブルイメージという発想、アイデアに重点をおくかで、評価もちがってくるだろう。検討すべき問題を含んでいる」。第10回安井賞の選考委員は、今泉篤男、大久保泰、河北倫明、新道繁、野見山暁治、久富貢、土方定一、宮本三郎、山田智三郎の九名。第11回の選考委員は大久保泰が伊藤廉にかわっている。第11回をもって、東京国立近代美術館における安井賞候補新人展が終わったのは、評論家側委員の意向によるものであった。

≪明治の館≫は、縦長200号の画面が西洋建築のバルコニーで縁取られ、中景に長屋門を、さらに遠景に蒼い屋根に白壁の洋館を配し、それらのイメージが互いに重なる、いわゆるダブル・イメージとなっている。建築構造を示す線は、遠近法に忠実な図面となっているが、部分的に色彩が施されていなかったり、背景の洋館の窓から、この絵に登場するただひとりの人物が正面を見据え、そのすぐ下に椅子が置かれて、そこだけスポットを当てられたように光っているなど、不思議に超現実的な印象を与える作品である。そして、このダブル・イメージは、同じく第10回安井賞候補展に出品された≪ 東京日本橋≫において、より先鋭な意味をもってくる。首都高速道路によって昔日の面影を失った日本橋が、現実の景色を誇張して、というよりも実景を無視して、橋と道路が重なる画面。何点かのスケッチに見られるように、実景では日本橋が景色のなかで、河の上を走るハイウェイの下でうなだれているのに対し、完成作では、巨大な日本橋が道路の橋脚にぶつかり、まるで画面のずれが、過去の日本橋と現在の時間の交差かと思われるほどに、アイロニカルな意味を帯びているのだ。この超現実的な空間構成と、その画面構成の意図する、現実に対する批判的な眼差しこそ、三輪勇之助のダブル・イメージの本質ではないかと私には思われる。ただ、その超現実性と批判精神はすでに三輪の画業の出発点にあることを忘れてはならないだろう。前述した、東京新聞の記事が投げ掛けた設問への回答も、そこにあるのではなかろうか。

(二)

三重県四日市市浜町に生まれた三輪勇之助は、昭和7年、富田中学に入学。真撃な人柄の図画教員、黒松秀志に接し絵画に興味を抱いた。そして画家を志して上京。多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)西洋画科に入学している。恐らく、在学中に制作されたものであろうと思われる習作が何点か残されているが、緑と赤褐色系の色彩の対比、柔軟に伸びる線描など、後年の制作態度にある特徴がすでに萌芽している。なかでも興味深いのは、この時期、もしくは少し後に描かれたと思われるいくつかの超現実主義的な作品である。題名は不詳だが、本展に出品のため仮に≪赤い長靴≫、≪裸婦≫、≪紐 ≫、≪人形と樹≫と題された油彩、そして≪クリスマス≫、≪シャボン玉≫、≪雪景色≫である。小品ながらこれらの油彩には、三輪勇之助の芸術の出発点である超現実的空間が広がっている。多感な画学生時代、三輪は絵画のみならず、詩作にも興味を示していたようだ。私は、夫人の三輪マサ子さんのご好意で、多摩美時代の画家のスケッチ帳をお借りすることが出来たが、その昭和15年1月19日の日付のある頁には、いくつかの詩的なメモが見られる。

 

すてられた鶏の
骨よりも
河の上にゆすられる
真夏のうす雲よりも
更に更に
白い小鮒の腹。
橋の影に沈みきって
真白い小鮒の腹だけが
夏の幻想の中に
創造をくりかえしてゐる
一つ。
二つ。
二つ。


おなじく同年、3月25日の頁。


水底の小砂は
黄金色して
小鮒の影を
真黒に止め


きらきらと初春の日は
小砂にゆらめき
小鮒の背に
真白き玉の音は流れども
真黒い小鮒の背は動かず
静 せい 静
静なる創造


小鮒の背は
自由なる水中に止まり
自由なる水中より
静を創造してゐる。


3月28日の頁。


何処からか
ローズグレーの曲線ただよひて
淡いコバルトブルーの大空の中に
かげろふとなり
桜草の蕾から咲き
ゆらめき初めて……


旋風は
街の軒軒を沿ひ来りて
茶房の紅茶の香りの中に
春の夢となり
レコードの調から流れ
ゆらめき初めて……

若い画家の目をとらえた自然の鮮やかな色彩が、まるで、1枚の習作を見るように鮮明に書き綴られている。この詩的メモには、それぞれ、詩に登場するイメージが添えられている。本展に出品された油彩≪紐≫に描かれたモティーフは、昭和20年10月5日のイメージとして現われる。土の下から生命を持ち上げた双葉。そこに紐が置かれている。

 

めたけ はみどりふかくつやゝか
やつて はみどりふかくつやゝか
しひ  はみどりふかくつやゝか
それらのあつぼったいははみっせいし
へび とかげ なめくぢ かたつむり
それらをひくいきものゝすむせかい
うれうはおほく おんどはたかく
みどりふかいしょくぶつのいのちはさかんに
せいちょうし
ひとはそこではたいだをきょうらくする

これらのイメージを追っていくと、三輪勇之助は、自然のなかに棲息する生命(いきものたち)の生態のリアルな再現を、忠実に実行しようとすればするほど、それを超現実的な、幻想的なイメージとして表現していったことが判る。

(三)

三輪勇之助のダブル・イメージには、一方にこうした超現実主義的な、熱くどろどろしていて、そしてロマン主義的な一面があるのだが、もう一方で非常に醒めた、古典主義的ともいえる建築的構築性を備えた、しかも演劇的に仕組まれた叙情性が見られるのである。その点をより仔細に検討するためには、女性の身体が分離して浮遊し、長靴の先から爪先の見える≪赤い長靴≫など、いわゆる超現実主義の濃厚な作品よりも、いまここでは、むしろ抒情的な≪クリスマス≫と≪人形と樹≫に注目したい。この2点に共通するのは老樹という舞台設定である。朽ち果てたのか、あるいは舞台の書き割りとして意図的に分解されたものか、老樹の幹は円陣のように配置される。その中央に若樹が立ち、若樹の真ん中にサンタクロースや人形が踊る。≪クリスマス≫では、屋台や占い師らしき親子という登場人物たちが、画面に演劇的効果を醸し、老樹は、あたかも回り舞台の書き割りのような役割を担っている。左上方から当てられた照明がサンタを照らし、樅の樹を美しく反映させる。反対に画面右の設定は夜の街角で、パックリ口の開いた老樹の幹の腹が突き出して、コンクリートの塀となっている。構図はサンタを中心に据えて、樅の樹の枝が揺れる渦巻き状にとられ、さらに舗道のカーブへと連なっている。クリスマスの夜の楽しげでありながら、どこか哀しい情景がここにはある。人形は≪シャボン玉≫にも登場する。作品に漂うメルヒェンの香り、また人形の登場や舞台設定などから、これらは三輪が山崎醇之輔と出会った後の作品であろうか。

(四)

山崎醇之輔(やまざき・じゅんのすけ)は、三輪も一時所属していた人形劇団「童夢(どうむ)」の主宰者であり、脚本、舞台美術など、演劇活動に関するありとあらゆる分野で活躍した生粋の演劇人であった。三輪が山崎を知るのは、戦災で本郷の家を失った山崎が客寓していた、東京尾山台にある山崎の知人の家。昭和20年のことである。当時、山崎は弥彦山に近い新潟県吉田町に、人形劇を専門に上演する劇場を創設する計画をもっており、尾山台の友人宅で意気投合したふたりは、昭和20年も終わろうとする頃、新潟に向かった。三輪の仕事は山崎の助手として、図面からパース(透視図)をひくことであった。三輪勇之助は生涯、この山崎を師と仰ぎ、何点かの山崎をモデルにした作品を描いている。本展に出品されている≪老師の夢≫、≪老師と人形≫、≪北風の老師≫などである。≪北風の老師≫の「北風」とは、童夢による4景の人形劇『北風のくれたテーブルかけ』のことで、原作は久保田万太郎、翻案を土肥生暉、演出は山崎醇之輔であった。筋書は、東北の寒村を舞台にした、母とふたり暮らしの文吉の物語。師走もおしせまったある日、貧しい文吉に北風が魔法のテーブルかけをくれるが、それを見つけた悪い宿屋の主人が、ほかのテーブルかけとすり替えてしまう。しかし文吉は、宿屋の主人をこらしめて、テーブルかけを取り戻すという内容である。この『北風のくれたテーブルかけ』は、昭和27年度読売児童演劇祭の努力賞受賞作品。三輪は人形美術を担当している。川端画学校に半年ほど通ったこともある山崎は、自身絵を描き三輪を指導したという。新潟に新しく完成した人形劇場は吉田劇場と名付けられ、昭和22年 2月22日に落成開場公演を行なっている。かつて中村吉蔵主宰の第二次イプセン会の雑誌『演劇研究』の編集同人として、『シアター・アーツ・マンスリ』などを読み、米国の舞台装置家ノーマン=ベル・ゲッディズNorman−Bel GEDDES の提唱した「額縁なき舞台」に共鳴していた山崎は、舞台と客席を隔てるプロセニアム(額縁)と緞帳をなくそうと努力した。また山崎の扱う人形は、いわゆるフランスのギニョール(手使い)ではなく、文楽人形の構造をもとに、ギニョールとマリオネット(糸繰り)の長所も採り入れた、独自のものであった。三輪は童夢の人形制作を担当した。前掲した作品からも分かるように、童夢の人形は、高さが1メートルほどあり、頭と身体の比率は八頭身で、首、胸、手は紙彫刻となっている。後年、この吉田劇場での建築図案と舞台背景の仕事は、三輪のダブル・イメージに応用されることになるが、その前にもうひとつ重要ないくつかの作品群がある。現在、三重県立美術館が所蔵する≪パストラル≫と≪昆虫採集に行ったとき≫である昭和20年から約10年ほど、三輪は山崎醇之輔のもとで仕事を続けたが、画家として独立するための記念碑的な作品がこの≪パストラル≫であった。画家自身の言葉によると、ある美術雑誌で見かけたモノクロ図版の絵に触発されて描かれたものだという。それは今世紀前半に活躍したスイスの画家にして版画家、ハンス・エルニHans ERNIの「牛と階段と人物などが線描きと平塗りで描かれているらしい」(『西の京を描く』p.14)作品であった。ルツェルンに生まれ、1928年、パリに上京してアカデミー・ジュリアンに学び、ドランやブラックの影響を受けたエルニは、アブストラクシオン=クレアシオンのメンバーとして、工業化された社会における人間の悲劇を独特の線描で描いた画家である。三輪は多摩川の堤防で草を食む牛をモティーフにして、エルニの技法を用いた油彩を制作した。しかし、ここに描かれた世界は全く三輪独自のものだ。線描と平塗りといっても、塗り込められた色面を削りながら施された鋭い線は、シュルレアリスムにおなじみのマックス・エルンスト流のフロッタージュ技法とはいえ、むしろ日本画を彷彿とさせ、あらゆる角度から観た牛の部分を誇張させながら、しかもリアルに重ねる手法は、後年のダブル・イメージの出発点である。ただ、恐らく一頭の牛の歩みを時間的な連続として捉えた上部の図柄は、古代のレリーフのようにも見え、この絵には、単なる発想の遊戯性を越えた、超現実主義的な風刺以上の厳かな雰囲気が漂っているのである。また同年、多摩川付近の神社の古木とカミキリ虫をモティーフに≪昆虫採集に行ったとき≫を制作、画家は素早い筆致で、生命の神秘なる形態を捕らえた。三輪はまず、複雑に錯綜する古木の根を横にふたつ並べる。そして、恐らくその近辺で見つけたであろうカミキリ虫を、やはり横に3匹並べるのだが、そのサイズは木の根と同じ大きさにしてある。ここには、後年のダブル・イメージの意図、つまり画家の眼に映じた、三輪が関心をもった対象を、現実のものとものとの関係を無視して、並列にならべ、あるいは重ねて、対象から受ける直観的な印象を、忠実に再現しようという意図がすでにある。

(五)

この2点の油彩は、翌昭和33年、第12回二紀展に初出品され、褒賞を受賞。以後、三輪勇之助は第13回二紀展に、やはり牛をテーマにした≪聞く≫(同展佳作賞)を、第14回二紀展に≪しぶき≫、第15回二紀展に≪断相≫を次々に出品し、≪断相≫によって二紀会同人に推挙された。その間、昭和34年の二紀会選抜展に≪老樹≫と≪幼牛≫を、翌年の選抜展には≪子供の横顔≫を出品し話題を呼んでいる。≪老樹≫は、四日市商工会議所に寄贈され、現在、同商工会議所・議員特別会議室に掛けられている。当時の雑誌には、画家自身の制作意図が掲載されている。「四日市市では杉の大樹はみかけられない。曾(かつ)ては、武蔵野の中のこんもりとした林にかこまれて居たと思はれる東京近郊の古びた小さなお宮。その前庭に独り立つ老杉である。頭の方は落雷の為か、けし炭の様に黒々となり輝きさえもある。腰には〆縄が巻いてある。武蔵野には欅の大樹、並木もあちこちにあり、その下にはきっとわらぶきの農家がひっそりとかくされた様にあったものだ。欅の大樹も四日市ではみられないと思う。杉と欅の大樹が、私の中に同時にとびこみ、二ツが重って焼付いた。冬になると、欅は葉を落して裸になるが、杉は葉を着けている。私の絵では、杉も葉を落した。たれ下る杉の枝と、斜め上にのびる欅の枝との交叉する錯雑さに興味をそそられたのだ」(「老樹」雑感、月刊『YOKKAICHI』、昭和35年11月1日)。ダブル・イメージは、三輪のなかで自然に組み立てられる、基本的な創作態度なのだ。三輪にとって、現実の映像は常にひとつではない。それが形態相互の関連のなかで構成される時も、また時間の関係で構成される時も、対象はいつでも重なりあった全体として、画家の眼に飛び込んでいたのである。ただ三輪はその後少しの間、ダブル・イメージから離れている。≪青い森林の樹≫に代表される、樹木の時期である。画家自身の回想によると、この一連の樹をテーマにした作品群は、二紀展に出品し始めた頃、具象絵画に固執するよりも、少し抽象的に描くよう勧められて完成させたという。富士山を描く目的から、多摩美時代の友人に誘われて訪れた山中湖で、三輪は欅の古木を見いだす。これらの樹木で、彼は再び超現実主義的な作風に戻っている。形態の抽象化というよりも、対象の形態を執拗に解析し、誇張して変容させる手法。これは抽象化というよりも、むしろその反対の方法といえるだろう。樹木の年輪や樹皮の神秘な模様、そうした細部から更に、樹全体のもつ力、風や雨といった天候への順応性、そうした諸々の自然の営為を画家は扱っている。≪断相≫という作品では、樹の年輪がまるで人の顔のように迫ってくる。いつか子どもの頃に体験した、恐ろしい天井の模様。風雨や台風の時に見る雨の流れ、または海の波のしぶきか定かではないが、作品≪しぶき≫には、水という、普段はおとなしい液体の内部に潜む、狂暴なうねりを感じることができる。また≪梅雨期≫は、木のこぶや年輪が目をもち、もの言わぬ樹木にとって、梅雨の時期はもっとも幸福な季節なのではないかと思わせる作品である。ところで三輪の初期作品には、これら超現実主義的な作品群のみならず、≪パストラル≫にも見られる、もうひとつの特徴的な技法がある。それは絵具のたらし込みである。その技法を用いることで、画家は超現実主義絵画が陥りやすい、遊戯の放つ胡散臭さから逃れている。三輪の作品はどこまでも厳かなのである。

(六)

昭和42年、第11回安井賞候補となった≪司令部跡の階段≫について、三輪勇之助はこう回想している。「戦時中、軍国主義の美術展が多く催され、その一つにそれぞれの美術学校で共同制作をして出品することになりました。制作の前に参考になる米国の映画を見せてくれるというので出かけました。場所は、近衛師団司令部でした。映写された部屋は門のそばの小さな煉瓦建です。映画が終わって、室内が明るくなると藤田嗣治をはじめ錚々たる従軍画家の顔があちこちに見られるのです。美学生にとってあこがれの一流画家たちと同席していたことに感激していたその場所なのです。それが残っていて間もなく取り壊されそうな様子です。隣に本館といった感じの大きな煉瓦館があります。窓のガラスは破れ、荒れほうだいの廃墟です。入口扉のすき間から中に入ります。立派な階段があって2階へ上がります。誰もいない荒家の中をただ一人歩くと自分の足音も恐しくひびきます。いろいろな感想がわいてきます。後、重要文化財に指定されたこの建物のそばに立つと、二十数年前の感激と終戦のとき、8月15日の雲一つない真夏の青空の思い出が妙に重なり、入りまじってしまいます」(『西の京を描く』p.16.19.)。 三輪勇之助は、ダブル・イメージの画家として知られている。安井賞候補作家として、颯爽と美術界に登場して以来、彼は建築図面の技法と重なる映像の手法で、多くの観賞者を引きつけてきた。その作品のあるものは、あまりにも理性的で非の打ち所ない完成度を保っている。私たちは時に、それがキャンヴァスに油彩で描かれていることを忘れてしまうほどだ。ただ、思い出さねばならないのは、画家は画面上の効果を狙ってダブル・イメージに創意を凝らしたのではないということ。つまり、その画面上に現われた幻想的な空間の超現実性は、なによりも画家自身の資質によるもので、自然な創作の発露であるという点である。土方定一のいう、三輪勇之助の芸術に漂う「追憶の感傷の詩」は、詩作がいつでもそうであるように、現実に対する鋭い批判精神に貫かれている。

※本稿執筆にあたり、三輪勇之助著『西の京を描く─── 油絵で描く天平の美』(新技法シリーズ)、美術出版社、 1977年を参考にさせていただきました。

(三重県立美術館・学芸員)

ページのトップへ戻る