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三重の近世美術点描

毛利伊知郎

この展覧会は、かつての伊勢国・志摩国・伊賀国と紀伊国の一部とによって構成される現在の三重県の自然や歴史、社会環境と関わって制作され伝えられてきた造形作品を紹介するシリーズである。既に1986年に古代と中世の宗教美術をテーマとして開催したことがあるが、今回は、近年まで私たちにとっても身近な存在であった江戸時代の美術―特に絵画作品をテーマとしたものである。

この地方ゆかりの近世絵画は、三重県立美術館にとっては、開館以前から大きなテーマの一つであった。そのため、美術館建設準備段階に比較的まとまった基礎的な調査が行われた。また開館以後も、折りに触れて作家調査や作品調査が継続され、その成果の一部が企画展で紹介されることもあったが、今回の「三重の美術風土を探るU 第1部:近世の絵画」は、そうした私たちがこの10年余り追ってきた、この地方の近世絵画調査の一つのまとめでもある。

しかしながら、江戸時代を中心とする近世の美術が絵画のみでないことはいうまでもない。300年近い長期にわたるこの時代には、円空仏のように現代人の感覚にも強く訴える木彫や、陶芸・漆芸・金工などの諸工芸、今回数多く出品される南画とも切り離すことのできない書等々、絵画以外の諸分野で注目すべき作品が数多くうみだされ、世俗的な作品とともに宗教的な作品も盛んに制作されていた。

こうした絵画以外の作品、あるいは宗教的主題の作品に、この地方ゆかりの作家や作品を見出すことができるのもまた当然である。

たとえば、円空とほぼ同時期の造仏聖で、奈良生駒山の宝山寺を開創した湛海(1629−1716)は伊勢国の出身で、多くの不動明王像を制作したことで知られ、数は少ないが不動明王の画像も描いている。

円空(1632−95)もこの地方を訪れたようで、現在の菰野町や津市、伊勢市、志摩半島などに円空仏数体が伝えられ、志摩地方には数少ない円空画の遺例である円空筆の大般若経見返絵が2組伝存している。

また、この地方での現存作品は確認されていないが、臨済宗の禅僧で各地を行脚しながら、それまでにない個性的な禅画を描いて、大雅や蕭白らにも影響を与えた白隠(1685−1768)も、晩年に現在の鈴鹿や伊勢を訪れている。

宗教的な絵画作品で、この地方と強い関わりのある作品として忘れることができないものに、伊勢参詣曼荼羅がある。伊勢参詣曼荼羅は、伊勢信仰の普及に大きな役割を果たした神宮の御師たちが、各地の信徒をまわって布教活動を行う際の絵解の道具として使用した図で、現存作例としては、神宮徴古館本や三井文庫本など4本が知られている。

作品によって、図柄や構図に若干の相違はあるが、日月とともに、伊勢の内宮と外宮境内、周辺の山田及び宇治の町、朝熊山の金剛証寺などが、泥絵具を用いたと思われる厚塗りの著色と奈良絵本などに通じる稚拙感を伴う素朴な筆致で描写されている。

また、伊勢参詣曼荼羅のように、布教のための絵解に使用された絵図として熊野那智参詣曼荼羅があるが、この地方でも熊野比丘尼や修験者たちの布教は行われていたようで、津市とその近郊、志摩半島などに、その遺例が伝えられている。

こうした社寺参詣曼荼羅は、上記のように奈良絵本などの民衆絵画と相通じる素朴な画風を示し、従来の絵画史の中では傍流に属するものであるが、そこには稚拙さの中に愛らしい魅力的な絵画表現を見ることができる。

陶芸の分野に眼を転じると、桃山時代から江戸時代初期に伊賀地方で制作され、現代人にも強く訴える力を持った水指や花生などの茶陶をうんだ伊賀焼(古伊賀)がある。伊賀焼は、17世紀前半には一時廃窯し、18世紀の半ば宝暦年間に土鍋などの日用雑器生産の陶窯として再興され、現在に至っている。

伊賀焼再興にやや先立って、桑名では沼波弄山(1719−77)が赤絵陶器を主体とした万古焼を始めたが、この万古焼は、その後松阪や四日市へも移植されるなど、この地方に広まった。その他、18世紀後半に津で始められた古安東焼などを初めとして、江戸時代半ばから後半にかけて活動した陶窯がいくつかあるが、残念ながら古伊賀ほどの魅力をもった作品は数少ないのが実状である。

近年評価の高い破笠細工とも呼ばれる、陶片や螺鈿、ガラスなどの素材を大胆に使用した漆芸作品を残した小川破笠(1663−1747)は、若い頃には松尾芭蕉の門人であり、芭蕉像などの絵画作品や版画も残した多才の人であったようだが、その生涯には不明な点が多い。出身地についても、江戸あるいは伊勢国という二説が伝えられている。
 さらに、書に関していえば、今回多数出品されている南画家たちが、「書画一致」あるいは「詩書画三絶」という文人精神にならって多くの書を残し、大雅のように絵画のみならず、書も高い評価を得ている画家も少なくない。

「三重の美術風土を探る」というテーマを立て、時代を近世に設定するならば、彫刻、工芸、書などを含めて展覧会を構成することも可能であろうが、今回は当美術館での継続的な調査研究の成果を公表するという意味もあって、ジャンルを絵画作品に限定した。

しかし、上記のような彫刻、工芸などを視野に入れても、江戸時代のこの地域の美術風土−この地方の文化的土壌や地理的、歴史的、社会的環境などと密接に関わりあいながらも、一方で地方的な閉ぎされた空間に限定されることなく、同時代の美術や文化の大きな流れとも結びついているのは、今回出品されているいわゆる南画家たちの作品、近年評価の高い曾我蕭白の作品であるといって大きな誤りはないだろう。

こうした観点から、この地方出身の画家の手になる作品、出身ではないが当地に長期間滞在して制作を行った画家の作品、作者に地縁等はないけれども、この地方で古くから所蔵されてきた作品などをリストアップして出品できたのが、今回の展示作品というわけである。

そうした意味で、今回出品されている17世紀前半に描かれた数点の藤堂高虎像は、他の多くの作品とは伝来の性格がやや異なっている。

これらの藤堂高虎像は、おそらく1630年(寛永7)の高虎の死後、高虎の菩提を弔うために遺像として京の画家によって描かれて、藤堂家ゆかりの寺院に伝えられた肖像である。実在の人物の肖像でありながら、故人を神格化しようとする意識が働いており、伊勢商人らの富裕な町人層や社寺などに・謔チて積極的に蒐集された他の作品とは異質なものである。

こうした一部の作品を別にすれば、この地方の文化の受容層が積極的に当時の絵画制作と関わりを持つようになるのは、おおよそ18世紀半ば以降のことと見て大きな誤りはなかろうし、この頃からこの地方出身の画家たちについても、その伝記や動向を明らかにすることができるのである。

その背景を、絵画の受容者と社会的状況について見ると、上方と江戸との交通の発達、商人層の台頭と貨幣経済の進展に伴う富の蓄積という経済的状況を無視することはできない。これは全国的にいえることであるが、この伊勢地方に関しては、伊勢信仰の流行という地域的な要因を忘れることはできない。

他方、この18世紀半ばという時期は、狩野派が幕藩体制内部での地位を堅固にして、大きな勢力を保持していたにもかかわらず、真に実りある創造的な仕事は、狩野派本流以外の画家たち―新来の明清画と文人画論に触発された池大雅を初めとする南画家たち、あるいは実証的な精神を基盤とし、平明な描写と写生を重視した円山広挙とその一門、マニアックともいえる写生の果てに幻想的な画境に到達した伊藤若冲、オランダ伝来の科学精神と絵画法を学んだ小田野直武や司馬江漢らの洋風画家たち等々の活動によっていたという、絵画界のいわゆる「旧風革新」の時代に当たる。

そして、私たちが今課題としている伊勢国を中心とするこの地方の絵画を中心とした美術風土を考える上で重要なことは、この「旧風革新」の風は江戸・上方という2大文化センターに限定されることなく、東北から九州にいたる広い空間を吹き渡り、伊勢地方もその例外ではなかったということである。

こうした当時の江戸・上方を中心とする文化的状況と伊勢地方の地域的な要因―具体的には伊勢商人の活動にともなう富の蓄積と伊勢参宮の流行や経済発展による人的交流の増大等の要因とが相互に呼応関連し、当地での画家たちの様々な活動へと結びついていったことが、江戸時代中後期におけるこの地方の美術や文化の大きな特色といい得るのではなかろうか。

この点で、小津・川喜田・田端・長谷川・三井ら伊勢商人による絵画収集は、重要なテーマの一つといえよう。もちろん、絵画を収集したのは、伊勢商人に限定されるわけではない。たとえば、別稿で触れられるように松阪の岡寺山継松寺は、大雅を初めとする多くの画家や学者たちが出入りして、あたかも文化サロンの様相を呈し、多くの作品が現在まで伝えられている。

また「如意道人蒐集書画帖」(出光美術館所蔵)に名を残した伊勢の人・如意道人のように、著名な南画家や詩人たちの筆蹟を蒐集して回った人物もいた。さらに、有力な伊勢商人ほどではなくとも、庄屋あるいは御師であったような旧家に、当時の絵画作品が収集されてきた例も少なくない。

しかし、最も多く絵画を蒐集していたのは、伊勢木綿を扱っていた小津家らに代表される豊かな伊勢商人たちであり、彼らによる蒐集は明治以降も続けられていた。

大雅の親友でもあった書家で画も善くした韓天寿は、松阪の豪商中川家へ養子に入っていたが、大雅の松阪訪問は韓天寿の存在抜きには語れない。本展出品作中にも、松阪市の某家に伝わった狩野派の作品が数点含まれ、先年三重県立美術館には、小津茂右衛門家に伝わった月僊画のコレクションが同家から寄贈された。

また、本展には出品されないが、松阪の長谷川家は、現在も豪壮な商家のたたずまいの屋敷を残し、古来有名な伊孚九の「離合山水図」や松花堂昭乗の「葡萄に鶏図」などが伝えられている。

さらに、津に本拠を持ち、江戸で木綿問屋を経営していた川喜田家の蒐集作品は、現在、(財)石水博物館に保管されるが、本展出品の長谷川等伯の長子で29歳で早逝した長谷川久蔵の「祇園祭礼図」は、川喜田家伝来の作品である。

もっとも、明治以降になると経済変動や社会情勢の変化などによって、コレクションが散逸することも少なくなかった。たとえば、松阪の小津清左衛門家・小津与右衛門家は、円山応挙らのコレクションで知られたが、それらは既に散逸し、小津家所蔵印を持った作品を古美術商から見せられることも少なくない。大雅の優品などが含まれていた津の田中治郎左衛門家・田端屋のコレクションも既に散逸した。

こうしたコレクションの散逸に加えて、現在では所蔵者のプライバシー問題も関わって、そうした伊勢商人のコレクションの実態を明らかにすることは、非常に困難である。

しかしながら、18世紀半ば以降この地方で盛んに活動する画家たちの動向や、彼らがこの地と具体的にどのように関わって制作したのかという問題は、彼らの作品を理解し受容した蒐集家を抜きにしては解決できず、そうした意味でも将来にわたる地道な調査が継続されねばならない。

かつては、奇抜な画風と奇行の伝説ばかりが取り上げられた曾我蕭白と彼の伊勢歴訪についても、最近では、彼を受け入れ交遊した伊勢地方の学者や禅僧などの教養人と蕭白との関わりからアプローチが試みられている(山口泰弘「曾我蕭白の遊歴・伊勢における交遊」『國華』1161 1992年)。また、「乞食月僊」などと俗称される月僊も、皆川淇園、大典、六如らを初めとする18世紀後半の文人たちを支持者とし、交遊のあったことが明らかにされている(高橋博巳「詩中の画人一月僊」『江戸文学』3 1990年)。

そうした画家たち周辺の支持者やパトロンなども視野に入れて見れば、18世紀後半を中心とする江戸時代におけるこの地方の美術のより豊かな世界が私たちの前に現れることになるだろう。

(もうり・いちろう 三重県立美術館学芸課長)

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