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三重の近代洋画−物故具象作家にみる

酒井哲朗

1.先駆者−岩橋教章

日本の近代は、西洋の文物や制度を学・でそれを日本に適合させる試みであったといえるが、「洋画」というものは、まさにその言葉が示すように、西洋の絵画技法を移入したものである。維新期の明治人が、伝統絵画と異なった、遠近法や明暗法に基づいた堅牢な西洋の油絵の表現技法やものの見方が、新しい時代に必要だと考えたためだった。

日本の近代美術にとって、明治6年にオーストリアの首都ウィーンで開かれた万国博覧会は格別重要な意味をもっている。「美術」という新しく案出された用語が公に用いられたのは、明治5年にこの万国樽覧会のための「出品勧請書」においてであった。明治政府が初めて参加した万国博覧会であり、世界の先端情報や技術に接し、かつ新生の日本国家をPRする絶好の機会と考えた政府は、全力をあげてこれに取り組んだ。ここで学んだ博覧会の手法を国内にも適用して、その後明治政府は内国勧業博覧会を度々開くが、日本の博物館や美術館、さらに美術そのものもその草創期は、博覧会を母胎として育ってきた。

ウィーン万国博に明治政府は多くの技術伝習生を派遣したが、そのひとりが松阪生まれの岩橋教章である。兵部省や海軍操練所で製図や測量などに従事していた岩橋は、銅版や石版などの版画技術を学ぶために派遣され、帰国後地理寮、紙幣寮、修史局などに勤めてその技術を生かしたが、その後官を辞し銅版印刷業を営んだ。岩橋がウィーンから帰って間もない明治8年(1875)に制作した《鴨の静物》は、彼の作例を知る上で貴重である。この作品は、紙に水彩で、板壁の前に片方の足と羽を結わえて吊り下げられた鴨が克明に描かれている。画面いっぱいに鴨を配し、背景の杉板の木目、鴨の羽や足、頭、首、腹、尾など身体各部を細部まで「だまし絵」のように綿密に描き、板壁の上に鴨の影が正確に表されている。高橋由一と同時代、明治初期の日本の洋画の「写真」的リアリズムのすぐれた遺品である。

2.津中学の画家たち−藤島武二・鹿子木孟郎・赤松麟作

明治の国家目標は「殖産興業」と「富国強兵」であり、政府はその達成の条件として教育を重視した。まず初等教育を義務化して国民全般に普及し、中等教育は中学校、高等教育は大学で行うこととした。三重県では、明治13年に旧津藩有造館内に県立中学校が開設された。明治19年に新町古河に新校舎が建てられ、明治20年に三重県尋常中学校、同32年三重県第一中学校、大正8年三重県立津中学校と改称され、現在の三重県立津高等学校に至っている。

明治26年に三重県尋常中学校に藤島武二が図画教師として赴任し、明治29年藤島の後任に鹿子木孟郎、明治33年に赤松麟作が第一中学校で教職についた。在任期間はいずれも2年半から3年であるが、明治20年代終わりから30年代前半にかけて、津の中学校で日本の洋画史上錚々たる画家たちがそれぞれの人生のある時期を過ごしたのである。

藤島ははじめ日本画を学び、明治20年代はじめ、藤島が20歳頃には当時の東洋絵画共進会や青年絵画共進会などの展覧会で入賞するほどの技術をもっていた。この頃は復古主義の風潮が強く、洋画の受難時代であったが、藤島は同郷の曾山幸彦をてはじめに、中丸精十郎、新帰朝の松岡寿、山本芳翠らに師事して洋画を学び、津に来た頃には、明治26年の明治美術会第5回展に《桜狩り》明治28年に京都で開かれた第4回内国勧業博覧会に《御裳濯川図》などを出品したことが、記録の上で知られる。

藤島が津に来た頃、黒田清輝がフランスから帰国し、外光派の明るい画面と自由闊達な新しい芸術家像をもたらし、美術界の新しい流れの中心になった。明治29年に黒田とやはり新帰朝の久米桂一郎らが白馬会をつくり、黒田は新設の東京美術学校西洋画科に迎えられた。黒田の清新な作風に共感した藤島は白馬会に加わり、黒田に誘われて東京美術学校西洋画科の助教授となり、津を去ることになった。

藤島芸術が開花するのはその後である。明治30年代に《天平の面影》や《蝶》などの明治浪漫主義の代表作を世に出したのをはじめ、昭和18年に76歳で亡くなるまで、明治、大正、昭和の3代にわたって数々の名作を生み、真に巨匠というにふさわしい芸術生涯を終えたことはよく知られている。

だが、藤島は彼の絵画表現の展開の過程で、もう一度三重県と重大なかかわりをもつことになる。彼が61歳になった昭和3年に、昭和天皇の即位を祝って、学問所を飾る油絵の制作を依頼された。藤島はそのテーマを「旭日」と決め、北は蔵王山から南は室戸岬、さらには台湾やモンゴルまで海や山の日の出を求めて歩き回った。こうして彼は日本の自然を凝視しながら、それまでの人物画からもう一歩すすめて、独自の新しい風景画の世界を完成させた。

藤島は、昭和5年頃、鳥羽や朝熊山、大王岬などの日の出や海岸の風景を集中的に描いている。さらに、昭和6年には宮中花蔭亭のパネル画を潮岬をモチーフとして描くことになり、潮岬の灯台近くに泊まって海の表現に没頭した。そして、昭和7年の第13回帝展に出品したのが《大王岬に打ち寄せる怒濤》である。この作品では、朝の太陽は水平線上の紫の雲に隠れて荘厳で微妙な光を反射している。ここでの主たるテーマは、岸壁に打ち寄せる怒濤、すなわち海そのもの、海のダイナミズムである。この作品は、藤島が還暦を過ぎて取組んだ風景画の代表作のひとつであるばかりでなく、藤島が深い自然研究と卓越した技術によって日本の洋画に固有の成熟をもたらした、その証でもあった。

鹿子木孟郎は、黒田や藤島らの白馬会、東京美術学校系の画家たちと対立する立場をとった。鹿子木はアカデミー・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスから正統的なフランス・アカデミズムを学んだ。鹿子木は、まず素描の練習を積んで物の形態の表現を学び、その上で色彩の研究にすすむという絵画学習の階梯や風景画や静物画よりも人物画、歴史画や構想画を最上位とする西洋19世紀のアカデミズムの価値体系の信奉者だった。

鹿子木は解剖学と遠近法、陰影法に基づいた写実的表現こそが、日本の洋画に必要だと考え、それを実行した。彼からみれば、黒田らの外光派は、ラファエル・コランというアカデミズムと印象派を折衷した二流画家の様式をもちこんだ邪道であり、印象派以降の新しい表現様式は、絵画の基礎を危うくするものであった。鹿子木の厳格な規範主義は、その後激しく展開していく洋画の主流から外れて、孤立を余儀なくされた。

鹿子木が津にいた頃描いた作品に、《津の停車場(春子)》(明治31年)がある。津駅の睦橋にたたずむ結婚したばかりの妻の春子の後姿を描いた作品である。鉄道の線路や駅という近代文明を象徴する道具立てのなかに新妻を配したこの作品は、駅構内から広がる広漠とした遠景と画面を横断して強いアクセントを与える陸橋の鉄骨と人物の構成が効果的で、情感豊かな作品である。鹿子木は新妻の視線とともに、鉄路の彼方に何をみたのであろうか。

鹿子木の後、第一中学校に赴任してきたのが東京美術学校を卒業したばかりの赤松麟作であった。赤松が津で描いて第6回白馬会展に出品し、白馬会賞を受賞したのが初期の代表作である《夜汽車》(明治34年)である。この作品のモチーフは津にくる途中の車中で得たという。三等車内で長旅の退屈をかこつ人々の情景を描いたもので、夜行列車が走りはじめた当時の庶民の新風俗を活写しており、薄暗い車内の光景も外光派らしく明るい光の陰影によって表現されている。この作品は明治36年に大阪で開かれた内国勧業博覧会で褒状を受賞しており、のちに東京芸術大学の蔵品となった。赤松は翌年の第7回白馬会展に《収穫》という、三重県の農家の稲刈りの情景を描いた大作を出品しており、津時代は充実していたといえる。赤松は、明治37年に朝日新聞に入社して大阪に移り、そのまま大阪に定住し、文展や帝展に出品しながら画塾を開いて後進を育て、大阪画壇の功労者となった。

3.関西美術院の画家たち−新井謹也・榊原一廣

県立第一中学校で鹿子木に学んだのは、新井謹也である。新井は中学卒業後、京都に出て聖護院洋画研究所で浅井忠や牧野克次に学び、明治38年に中沢岩太、浅井、鹿子木らが創設した関西美術院に学んだ。明治43年にフランスから帰った評論家の田中喜作と洋画家の津田青楓、田中善之助、黒田重太郎、日本画家の小野竹喬、土田麦僊、秦輝男らが結成した黒猫会(シャ・ノワール)に新井も加わった。彼らは当時京都でもっとも先鋭な画家たちであり、ジャンルをこえた新しい研究会をつくり、京都画壇に新風を吹きこんだのであるが、新井はこのような前衛集団に属していたわけである。黒猫会は翌年展覧会開催をめぐって全員間に意見の対立がおこって分裂し、新井、田中、黒田、小野、土田らは新たに仮面会(ル・マスク)をつくって展覧会を開いた。

新井の当時の作風は、小山正太郎、浅井、鹿子木と連なる写実の系譜に属する、田中や黒田と共通する浅井の感化を思わせる関西美術院風のスタイルに固有の情感を盛りこんだものである。しかし、新井は大正9年に中国、朝鮮を旅行してのち陶磁器の魅力に取りつかれ、孚鮮陶人を名乗って孚鮮陶画房を開き、陶磁器制作に専念した。

榊原一廣も関西美術院の画家である。榊原は亀山の出身、県立第一中学校で新井と旧知であったが、京都のある展覧会で新井に会ったのが、画家として歩みはじめるきっかけになったと伝えられている。榊原も浅井と牧野克次に師事し、関西美術院に学んだ。《香良洲浜》(明治39年)が関西美術院時代の作品である。水彩による平明な写実的表現が特色であり、《大台原山》(明治44年)についてもいえる。榊原は大正9年から11年にかけて外遊し、セザンヌやルノアールの作品に接し、彼らのゆかりの地を訪ね、マチスに会った感動などを滞欧日記に記し、《カーニュ風景》(大正9年)などの滞欧作を描いている。異国の風物に対する感興がうかがえるが、基本的に作風は変わっていない。

4.明治20年代生まれの画家たち−鈴木金平・奥瀬英三・平賀亀祐・林義明

新井や榊原は明治10年代の生まれであるが、明治20年代生まれの画家は、平賀亀祐(明治22年)、林義明(明治23年)、奥瀬英三(明治24年)、鈴木金平(明治29年)らである。このなかで一番年少の鈴木が画壇デビューが早かった。鈴木は5歳の時に東京に移住し、15歳頃から赤坂葵橋の白馬会津画研究所で学び、披の兄が岸田劉生と親しかったことから、少年時代から劉生に親炙して一番弟子と称して、大正元年の第1回ヒュウザン会展に《日比谷の裏》など3点を出品している。大正4年に岡田式静座会で中村彝を知り、中村や中原悌二郎らと親交し、中村の死後は彼のアトリエに住んで遺作を整理保管し、遺稿や書簡をまとめた『芸術の無限感』(岩波書店)の編集をした。鈴木は中村と行動をともにして太平洋画会展や帝展に出品し、昭和8年には牧野虎雄ら元槐樹社の会員たちと旺玄社を創立し、終生これに所属した。鈴木の作風は、フォーヴ風の明快な色彩と歯切れのよい筆触で対象との親和的感情を表現する。

奥瀬英三は伊賀上野の生まれだが、中学は京都で京都第一商業を中退、明治45年に上京して、太平洋画会研究所に学び、大正6年に太平洋画会会員になり、昭和8年の第一回帝展に初入選している。大正14年、15年には《庭》《緑蔭》が連続して帝展で特選になっている。奥瀬は帝展、新文展、戦後は日展と終始官展とともに歩み、洋画部門の中核をなしてきた。昭和22年には、太平洋画会を脱退し、石川寅治らと示現会を創立した。奥瀬はスケールの大きい風景画を得意とし、すぐれた構成力と確かな表現力によって日本の自然やそこに生きる人々を表現した。

平賀亀祐は志摩郡片田村の漁師の家に生まれたが、17歳の時に移民としてサンフランシスコに渡り、苦学しながら美術学校で絵を学んだ。フランスのル・サロン(ル・サロン・ド・ラ・ソシエテ・デ・ザルチスト・フランセーズ、通称春のサロン)で最高賞をとることを目標に、大正14年37歳の時パリに渡った。翌年《扇を持つ婦人》がル・サロンに初入選、以後平賀はロサンゼルスで何度か個展を開きながら、ル・サロンの出品を続け、昭和9年銅賞、13年銀賞、昭和29年に《巴里の古い街》によって、念願の金賞及びコロー賞を受賞した。
 昭和30牛65歳の時50年振りに帰国。その後度々日本に来て、伊勢市などで個展を開き、昭和40年に第一回三重県民功労者として表彰されている。平賀は重厚なマチエールと緊密な構成による写実的表現によって風景や静物を描き、フランス人にも日本人にも愛され、そのいずれからみてもエキゾティックな独自のスタイルを生みだした。

林義明は隣県の和歌山で生まれ、三重県に土着した画家である。和歌山師範から東京美術学校師範科に進み、大正6年に県立津中学に美術教師として赴任した。林は明治末期和歌山師範時代に各地の師範学校で開かれた夏期講習会で水彩画を学んでいたが、明治44年に和歌山師範に斎藤与里や柳敬助、本間国雄、森田亀之助らを招いて開かれた洋画講習会が画家志望の強い契機となったようである。この講習会に参加した2年後輩の川口軌外は、この後師範を中退して上京した。美術学校時代の林は東京で川口と交遊し、安井曾太郎を訪ねたりしていたようであるが、川口は渡仏してしまった。

林が三重県に来たのは、志摩や南紀の自然に魅せられたからだという。初期にはゴッホやセザンヌ、ことにセザンヌを強く意識して制作したようであるが、美しい自然との敬虔な交感のなかで、穏健な写実的作風に収斂していった。篤実な人柄によって後進の指導に功績のあったことも忘れることができない。

5.明治40年代生まれの画家たち−佐藤昌胤・足代義郎・中谷泰

佐藤昌胤は、津中学で林に師事した。佐藤は、明治40年紀伊長島生まれ、津中学に3年間在学したのち富田中学に転校したが、卒業をまたずに退学して、川端画学校で曾宮一念に洋画を学んだ。はじめは小説家志望であったというが、昭和3年の第9回帝展に郷里紀伊長島を描いた《晩秋の丘》が入選。昭和5年春陽会人選をきっかけに、この会に所属し会員となった。佐藤は文学や演劇にも通じ、一方で長島町の町会議員を勤め、趣味もバラの栽培、囲碁、釣り、柔道などと幅広い才能をもつマルチタレントで、その絵においては、平凡さのなかに純度の高い造形性を求めた。

足代義郎は、明治42年伊勢市生まれ。宇治山田中学、豊島師範を経て、東京美術学校師範科にすすみ、伊原宇三郎に学んだ。卒業後東京で教職につき、光風会、新文展に出品する。戦後、三重県に帰り、三重師範、三重大学教育学部で美術教育に従事するかたわら、光風会、日展と官展作家の道を歩んだが、その作風はアカデミズムとは無縁な清新なエスプリに満ちている。

足代は抽象的な人体を主たるモチーフとし、1950年代の平面の構成による作品が60年代に抽象表現主義風になり、80年代には一種幻想的な表現へと展開した。本展出品の《女》(1968)は、輪郭線によって女性の座像だということがわかるが、画面は動きをともなった華麗な色彩で満たされ、筆触そのものによって表現されている。しかし、それは決して荒々しいものではなく、豊穣な色彩のポエジーというべきものであり、この画家のすぐれた資質を示している。

中谷泰は足代と同じ年に松阪で生まれている。20歳の時に上京し、川端画学校に学び、昭和5年春陽会に初入選ののち、春陽会洋画研究所で木村荘八に師事した。戦前は、昭和13年に春陽会賞を受賞して昭和18年に会員となり、昭和14年と17年には文展で特選を受けているが、中谷の真価は戦後発揮され、東京芸術大学教授もつとめた。

ヒューマンな人間感情の表現を志向した中谷は、社会の現実に基づいた新しいリアリズム探求をめざすが、昭和30年に彫刻家の佐藤忠良らと常磐炭坑を訪れて、ボタ山の光景を見て衝撃を受け、さらに瀬戸や常滑の陶土の採掘現場に目を向けて制作の転機とした。こうして生まれたのが《炭坑》《煤煙》《陶土》などであるが、安易な感情移入を拒絶する厳しい生活の現場を緻密な構成と繊細なマチエールによってスケールの大きい風景画として絵画化した。それは中谷におけるリアリズムの深化というべきものであるが、乾いたモチーフの堅固な構成のなかに人物や自転車など生活の温もりを感じさせる形象を交えて、暖かい感情を通わせている。

6.大正生まれの画家たち−荒木市三・平井憲迪・三輪勇之助

荒木市三も松阪の出身で、兄の友人であった中谷泰に兄事し、川端画学校、春陽会洋画研究所で学び、春陽会に出品した。荒木は鎌倉に住み、清貧のうちにひたすら絵を描いた。主として人物像、裸婦や母子像が多いが、《焼跡の女》は前景に大きくヴォリュウム豊かに描かれた女性像と遠景として小さく描かれた廃墟を対照させ、珍しく具象的に描かれているのは、滞欧中の感興によるものか。それにくらべて《母と子》は、人物の形体を極度に抽象化し、色彩も赤で統一して単純化している。プリミティヴなものを純化するのが荒木の絵画の意図のようだ。

平井憲迪は一志郡三雲町生まれ、三重師範に学び、高田学苑で教職についたが、絵についてとくに師事した画家はいなかったと平井自身はいう。松阪市美術展、児展など地方展は昭和22年の第1回から欠かさず出品し、三重県の美術振興に尽力した。中央展には、年譜によれば、昭和29年の第22回独立展以来、昭和43年の第36回まで独立美術展に毎年出品していたが、その後止めている。《白い昼下がり》(1962)は第30回独立美術展の出品作であるが、渦巻くような激しい筆触で人物が描かれており、当時日本の美術界を席巻したアンフォルメル旋風を想起させる。

三輪勇之助は大正9年四日市生まれで、今回の出品作家のなかで最年少である。多摩帝国美術学校(現多摩美術大学)に学ぶが、青年期演出家で舞台装飾美術家であった山崎醇之輔の人形劇団に加わり、舞台装置や人形制作を担当する。二紀会の重鎮として活躍し、安井賞展や各種現代美術展にも出品した。線遠近法のパースペクティヴを基軸に全体と部分、現在と過去、現実と記憶などを重ね合わせたダブルイメージによる清新な絵画世界を創出した。《パストラル》は初期の作品であり、乳牛のイメージを重ね合わせて画面下部に小さく描いた赤児(乳呑み子)と対比させ、また、牛の白と黒、線と面、計算された線と絵具を流す偶然性の効果など、図像だけではなく技法も重層させている。牧歌的な詩情を揺曳させた三輪のこの新しい試みは高く評価された。

洋画の草創期から現代まで、三重県ゆかりの物故作家についてのべてきたのであるが、三重県という一地域に限定してみても、日本の洋画は、明治という啓蒙期を経て、大正期に入ると急速に普及しはじめ、昭和期に土着し、多様化していったことがうかがわれる。

(三重県立美術館長)

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