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土方定一の美術史講義

土方定一の著作物のなかから、今回出品される画家と作品に関連が深いと思われる箇所を選択抜粋した。(編=東俊郎)

萬鐵五郎(1885−1927)

これらの自画像のシリーズは、ピカソのニグロ時代(1907−09年)の性格がみられる。カンウァイラーがいっているように、このニグロ時代という名称は、アフリカ彫刻の単なる模倣のような印象をあたえて適切でないが、印象派およびそれまでの絵画の明暗によるヴォリュームの表現を否定して、アフリカ彫刻に見られるような面に還元し、それは明るい光線で見られたエジプトの浮彫り彫刻のように、明るい面と暗い面との対比によって表現される。印象派的な明暗を避けるためのピカソの彫刻的な技術といわれているものである。鏡に向って自己の顔を見ながら、土沢町のアトリエのなかで、褐色のモノクロームの画面のなかに、この明るい面と暗い面とに髭をつけた自己の顔を還元している萬鉄五郎のそのときどきの心理的反映が、これらの自画像に現われ、それは苦悩に満ちた「勇猛」につらぬかれている。

土沢町の「立木風景」の左の家の明暗の浮彫り的処理、また立木の明暗の浮彫り的処理は、萬鉄五郎のキュビスムの造形思考の明徹さを示しているが、また「木の間から見下した町」となると、褐色の内から輝くようなモノクロームの心象風景は、もう対象から飛翔した萬鉄五郎のふしぎで、神秘な世界を幽明のなかに示している。この「木の間から見下した町」は、土沢町の山にさしかかったところから展望した家並み、そこに繁っているくるみの樹かなんかの立木−そういった郷里、土沢町の回想であることは明らかである。回想のなかで郷里のこの風景は、いつの間にか浪漫主義化され造形的に純化され、萬鉄五郎の「自己の中心のなかに自然は置かれて」神秘をたたえた静謐な画面となっているのに、ぼくは拝跪するような感じを抑えることができない。そして、ぼくは、この作品、また赤、緑の明るい「木蔭の村」(大正7年、1918年)をピカソ、ブラックのこの期の風景と比較し、パウル・クレーのやはり、浮彫り的明暗の処理による「発見の場所」(1927年、グローマンの『パウル・クレー』、260頁に原色版がある)と並べながら、萬鉄五郎をもし同時代が理解することができたならば、萬鉄五郎はもっと豊かに展開したであろうと想像する。

自画像、裸婦像の頂点は、「もたれて立つ人」(大正6年)といっていい。ここでは、フォルムは整理され、キュビスムは浮彫り的明暗の処理から前進している。

(「萬鉄五郎」『三彩』昭和37年9月号、『土方定一著作集』7pp.211−213)

藤田嗣治(1886−1968)

藤田のこの堅牢な白色の画面について、ぼくはいろいろ考えることがある。もちろん、藤田自身がいうように、「白はただ、ものの明暗、それの遠近の明るい意味を現わすために用いられているが、僕は白を白色として、その白色の美わしさを土台に使って生かした」白であるが、藤田の画面の白は陶器のように滑らかで光沢があるが、冷たくなく、白のもつ魅惑にみちている。そしてそれが「日本画のもっとも長所とする描かれざる部分の余白」に通じていることは藤田も語っていることである。藤田の白のマティエルを生かした技法の背後に余白の意識のあったことはいうまでもない。だが、ぼくはときどき、こんなことを想像するのである。ヨーロッパの油絵の伝統のなかの下塗りの白と、ことにファン・エイク以後につながるネーデルラントの技法(メテイエ)が、ある日、藤田嗣治の長い若悩のなかで、余白の意識に啓示されて浮かびあがってきた、と。これは、ぼくのひとりの愉しい想像にすぎないが、イタリア、スペインの巨匠たちの下塗りは暗褐色、煉瓦色、赤色が多く、ゴヤにしても煉瓦色を下塗りとしているが、レンブラントをはじめネーデルラント、オランダの巨匠の下塗りは、たとえばレンブラントにしても、ほとんどが、白、あるいはクリーム色を下塗りとしていることである。このぼくのひとりの愉しい想像は、どうであろうか。そして、藤田のこの白の画面のうえに墨の黒の線描が加わるが、全体としてファン・エイクとそれにつながる初期ネーデルラントの巨匠たちのミニアチュール的な写実の宝石のような画面の相似を思い起させる。たとえば、藤田の白い画面のうえに光線をふくんだ、遠くに浮かんでいる淡い雲はまったく初期ネーデルラント=フランドルの巨匠の雲である。

(「藤田嗣治のこと」『三彩』昭和43年3月号、『土方定一著作集』8 pp.101-102)

藤田の裸婦の面相筆でひかれる、のびやかんでありながら堅牢な美しい絵がつくる形態と、そのスフマートについて、いまさら、ぼくが賞讃するまでもないが、藤田は裸婦について、次のように語っている。「われわれの祖、春信、歌磨などは婦人の肌を描きだした。僕も日本人である以上、これら先人の轍をふんで人間の肌をかく事に気づいた。色の白い女は頭の先から足の先まで全部白くかいた。同じく黒い・翌ヘ全部一調子に黒でかいた。やわらかい、押せばへこむような皮膚を返して画のもっとも重大な条件である「質」をかく事にした。眼に直接触るる肌は眼に直接触るる画の肌であると思った。」

この「質」の説明など、藤田芸術の本質を語っていて興味深い。いい換えれば、藤田嗣治の白と墨の言語によって藤田が語ろうとするものがこの「質」ということになる。ぼくあh、この裸婦のスフマートを見るとき、たとえば、マサッチオのフィレンツェ、サンタ・マリア・デル・カルミネの礼拝堂のフレスコ壁画の人物、ことにロンドン、ナショナル・ギャラリーの「聖母と幼児キリスト」の人物の顔の浅い明暗を思いだす。また、アントウェルペンの王立美術館のジャン・フーケの「聖母と幼児キリスト」の聖母の浅い明暗である。これらと藤田の画面と直接に関係がないことはいうまでもない。だが、春信、歌磨の女の顔、その上半身にスフマートがないことはいうまでもないから、藤田の画面の浅い明暗のスフマート独自の魅惑の性格が、こういうところにあることを想像しないわけにはゆかない。

(「藤田嗣治のこと」『三彩』昭和43年3月号、 『土方定一著作集』8 pp.103-104)

岸田劉生(1891−1929)

また、これと同じころに、次のようなことを書いている。これは、大正7年鵠沼に移った第2年目で、その前年に、彼は二科第4回展に「初夏の小路」や「静物」を一応募者として出品し、「初夏の小路」で二科賞を得ている。どういう気持で、岸田劉生がこの年に二科に出したのかよくわからない。おそらく、そのときに岸田劉生にたずねたとしても、「理由なんかないよ」とか「出したまでさ」位の返事を聞くのが関の山であったろう。彼は後にも、大正10年、第3回帝展に、「童女像」を出品している。これは、麗子洋装の坐像であって、おそらく麗子像のうちでは一般にもっとも親しまれているものであろう。膝の上に置かれた手に一茎の花を握らせることによって、自然への敬虔な、驚異と讃歎とにあふれた祈祷に似た作画態度を暗示しようとしたものが、ここでは手はそのままに静かに拡げられて、右手に一茎の菊花を握っている。

肖像画に、一茎の花を握らせる、岸田劉生とその草土社の仕方が、たとえば、デューラーの「自画像」(1493年、パリ、ルーヴル美術館)や、ニュルンベルクの「ハンス・トウヒェルの肖像」(1499年、ウァイマル、シュロッス美術館)、またファン・エイクの「撫子(なでしこ)を持てる男」(ベルリン、旧カイザー・フリードリッヒ美術館)などの系列の影響の下になされたことはいうまでもないが、岸田劉生にあっては、こういった型のもつ心理的な効果をも喜んだに相違ないが、それよりも一茎の花を前にしたときに誰しもが体験する、存在そのものが示す新鮮な相貌を岸田劉生の意味で写実しようとする態度と精神とを、そこに暗示したいという無意識な意図があったことは、ぼくには疑うことができないように思われる。そこに、ぼくがいった部分部分が写実でありながら、全体の美の調和に従わせる、とする態度と精神のプリミティヴな、深い根拠があるとしなければならない。こういった態度と精神とが、印象派風の静物画なり、肖像画なりを前にしたとき、どう感ずるかはここで説明するまでもなかろう。

(『岸田劉生』アトリエ社 昭和16年、『土方定一著作集』7pp.16−17)

春陽会に草土社の同人とともに入った岸田劉生は、第3回展に出品し、のち同会を脱退している。どのような理由で春陽会を脱退するにいたったかは、いろいろにいわれているが、岸田劉生の、自分には知らないうちに人に反感をいだかせるような自己主張の仕方が春陽会の他の同人との間に、岸田劉生にとっては愉快ではない溝を作るにいたったのではないかと、ぼくは想像する。

春陽会3回展の岸田劉生の出品作は、次のようになっている。

第1回展(大正12年5月)には、「童女図(麗子立像)」、「花籠」、また鵠沼風景の「小径春光」、「早春霽日」など、13点を日本画をもふくめて出品している。

ここでの「童女図(麗子立像)」は朱色を主調とした、やはり一茎の黄菊をもたせた麗子像である。ここではすでに、野島邸個展の「野童女(麗子嬉笑図)」のような観念論は避けられようとしている。この第1回の「童女図(麗子立像)」の上体だけを、岸田劉生は第2回に「童女像(麗子肖像)」として出品している。朱色が主調となっていることは変りはなく、顔面もやはりなにか初期肉筆浮世絵の、あるもののやや暗い陰影をもった美が現わされようとしている。だが、こういった試みは、控え目につつましくなされているだけであって、まだ本質的に帝展出品の「童女像」から離れてはいない。背景の朱のかかった茶褐色のマティエルなども「童女像」とはさして異なってはおらず、顔面や着物の陰影のところで控え目に浮世絵の美がいわば帝展出品の「童女像」のなかに移し植えられようとしているにすぎない。これを後の「舞妓図(舞妓里代之像)」と比較すると、ぼくのいおうとするところもいっそう明白となってくるであろう。まだ「舞妓図(舞妓里代之像)」に移っていない過渡期のこの「童女図(麗子立像)」はこの意味で重要であるばかりでなく、朱色の美わしい色調をもった量感にあふれた、いい麗子像である。

(『岸田劉生』アトリエ社 昭和16年、『土方定一著作集』7pp.73−74)

ところで、以上の麗子像を見られるとき、それぞれの魅惑と、さまざまな魅惑の種類があることに驚嘆されるにちがいない。だが、ぼくは、同じく麗子像といっても、たとえば、「童女像」(油彩、1921年)、「麗子住吉詣之立像(麗子立像)」(油彩、1922年)、「童女図(麗子立像)」(油彩、1923年)、「童女像(麗子肖像)」(油彩、1924年)などにみられる、プロフィルでなく、やや右向きの顔をもち、顔の正面を明るく頬下から頸にかけてを暗部とし、ひとえまぶたの切れめの長い眼と、黒い瞳を魅惑あるものとし、頭をおかっぱにして長く豊かな髪をうしろに垂らした麗子像の原型的なフォルムは、劉生が麗子像に付与した、劉生の夢と現実との美わしい統一に、いまさらのように、気づくのである。ぼくは、このころの麗子に会ったことがないが、このころの麗子の写真を見ても、ある真実を伝えていることはいうまでもないが、画面のなかの麗子像のこの横顔の独自なフォルムのもつ原型は、劉生のなかの深層心理が把んだ劉生の愛する原型的なフォルムというほかない。このことは、「麗子五歳之像」が野性的でたくましい現実とは異なった麗子像となっているが、それにつづいて、1919年の「麗子坐像」では、まだ劉生の写実の世界のなかにある麗子像であり、大正9年を経て大正10年となると、もはや写実の意識を超えた劉生の無意識圏が形成する原型としての麗子像の顔のフォルムが力強く確信的に画面に現われてくる。それだからこそ、この原型の美わしさは、神秘的な心理効果をもち始める。そして、劉生が麗子の正面像を描くときは、その後の作品、たとえば、「麗子之像(麗子正面肖像)」(油彩、1922年)、「野童女(麗子嬉笑図)」(油彩、1922年)となると、この美わしい原型的なフォルムは写実に座をゆずるか崩壊してしまう。

(「鵠沼、鎌倉時代の劉生」『神奈川県美術風土記・明治大正篇』昭和46年、『土方定一著作集』7pp.118−119)

佐伯祐三(1898−1928)

たとえば、ここに1点の「ノルマンディ風景」(1924−25年)をとりだしてみよう。

左手の家は傾き、右の半分に空と道があって鮮やかな緑が水平に浮んでいる。この期のぼくの好きな作品のひとつだ。そして、その理由がかえって、佐伯祐三の視点がはげしい心理的傾斜を示し、風景自体が佐伯祐三のこの期の孤独な絶望をつらぬく表現意志を鮮やかに示していることである。そこに、ひとり小さく歩いているのは佐伯祐三にちがいない。ニコラ・プッサンの心象的な風景画が、そこに演じられている神話の心理的内容に従って、たとえば、大蛇に追いかけられている人間が両手を挙げて叫んでいるときには、風景もまた恐怖に怯えてざわめき、蒼白となることをぼくはかつて指摘したことがあるが、佐伯祐三のこの期の「ノルマンディ風景」は、神話をもたない近代の人間が孤独な絶望のなかにいる小さな人間としてひとり歩き、風景はその心理の心象風景となってくる。いわば、神話と神話に託する古典的距離をもつ風景は消失してしまい、そこに近代の心象風景が登場する。が、また「パレットを持つ自画像」のように、人間=自己の確認となってくる。このとき佐伯祐三が、絶望と生きる意志との間の対立と矛盾のなかで苦悩し、その心理的傾斜の平衡を祈願したことは疑いない。ユトリロヘのアプローチは、この対立と矛盾からの必然であった。

(「佐伯祐三の世界」『佐伯祐三全画集』講談社 昭和43年、『土方定一著作集』7pp.222−223)

佐伯は、日本でも、むさぼるように仕事をしたが、「再度の渡仏して五カ月目には107枚の画をかいていると、またその一と月後には、145枚の仕事をしていると手紙をくれた」と里見勝蔵が書いているように、パリに着いた佐伯は猛然と描きつづけている。これらの作品群を順を追って見てゆくとき、そこに第一次パリ時代後期にわずかにちぎれそうな広告の貼られている壁が現われているが、この時期になると、だんだん広告のある壁が必ず現われるようになり、その広告の字は「オー・プティ・ソムール」のようないわば楷書でなく、日本的な筆触による、あの折れた蘆のような、性格的な神経質な草書となっている。「広告(アンジュノー)」(1927年、昭和2年)、「オプセルヴァトワール付近」(1927年)、「道と広告」(1927年)、「街角の広告」(1927年)であり、もうそれは「カフェのテラス」(1927年)、「広告貼り」(1927年)となっている。

佐伯が、日本の風景を自己の世界のなかに内包する必死の作業と、ある焦燥をみたぼくたちは、佐伯がパリの街角に立ったとき、そこに量感と造形をそのままに示しつつ、自己の人間的で生活的な哀愁の世界がそこで形成されるのを佐伯は見、佐伯はその世界のなかに再び没入したように、ぼくには思える。

(「佐伯祐三の世界」『佐伯祐三全画集』講談社 昭和43年、『土方定一著作集』7pp.233−234)

これらの作品のうち「アヴニュ・オプセルヴァトワール」(1927年)は、佐伯が「これは誰がなんといっても、ぼくは好きだ」といったとのことである。秋から冬にかけての赤褐色に色づいた高い並木を画面左一杯に大きく置き、左半分の下に広告の貼られた塀を置いたこの画面は暗鬱な心情の翳りが、このとき、深い空間のなかに秩序づけられた佐伯の喜びを告げているような、赤褐色を主調とした古典的な作品となっている。だが、ちぎれた広告の一杯に貼られた「ガス灯と広告」(1927年)、「広告貼り」(1927年ころ)となると、画面をまず色面の抽象的な構成にして、白、黄、緑、朱、また黒ずんだ色面のうえに、朱、黒などの日本的な佐伯の筆触で一杯に文字が描きこまれている。中山巍によると、そのころ、佐伯のアトリエは「街辻に貼られる音楽会や芝居の広告紙を集めて来ては、そのなかで色彩や文字の調子の美しいものを壁にベタベタと貼り付けて眺めていた」ということであるが、パリの風化したままの魅惑をもつ裏街のなかの、このピトレスクな美わしさに佐伯が憑かれ、それは佐伯祐三の祭りの日の青春の凱歌のような、ひとつの歌をうたいあげている。

(「佐伯柘三の世界」『佐伯祐三全画集』講談社 昭和43年、『土方定一著作集』7pp.235−236)

佐伯祐三の画面は、すでに述べた「靴屋」(1928年)、「オプセルヴァトワール付近」のような作品で、対象とのある美わしい融合を示すが、この時期となると、その美わしい融合から離れて、対象についての佐伯柘三の主観的で透明な、ひとつの歌となっている。ぼくはこういうとき、一方で、17世紀オランダ絵画最後の人、ヨハネス・フェルメールの「デルフトの風景」(デン・ハーグ、マウリッツハイス)を、他方で、玉堂の「水墨山水図」を思いだす。

佐伯祐三の画面と、フェルメールの煉瓦色と暗緑色の明暗が形成する静謐なデルフト市の絵画的なヴィジョン(歌)の古典的な距離とは、まったく反対のものであることはいうまでもない。だが、ぼくがこの二人の作家の画面を並列したい欲望にかられるのは、この二つの画面のうたう歌の透明な絵画の世界といってもいいようだ。そして、玉堂は−。この比較については、すでに多くの人によって語られているので、いまさら、ぼくが語る必要もない。だが、絵画を構成する面の意識のこの二人の緊密さと、そのうえに、日本の筆触の、折れた蘆の茎のような線描の韻律が協同する。血みどろの直覚に賭けた忘我の感覚の陶酔に似た佐伯祐三の世界を形成していることである。

(「佐伯祐三の世界」『佐伯祐三全画集』講談社 昭和43年、『土方定一著作集』7p.237)

関根正二(1899−1919)

それはともかく、河野通勢は第3回草土社展覧会(大正5年)から出品し、岸田劉生の草土社の僚友となった画家である。が、このときは高橋由一の門下生であり、文明開化の写真館を長野市南県町1番地で経営していた父の家にいた18歳の青年であった(関根より3歳年長)。どのような機会で関根と知りあったか不明であるが、雑誌『白樺』(明治43年創刊)などの影響かと思われるが、河野家に残っている古本から想像すると、The Popular Library of Art:Albert Durer,Rembrandt,Leonardo da Vinci.London,1902.などと、通勢がそこからのコピー、また精力的に描きためていた数冊のデッサン帳を関根に見せ、英語のできる通勢は関根にその生涯や作品を説明したと想像される。現在からみれば、このThe Popular Library of Artなどは、小さな冊子であり、印刷も不鮮明な、誰も見むきもしない美術書であるが、無銭旅行の彷徨のなかで肉体的にも精神的にも飢餓状態にあった関根の餓えた魂は、これまで知っていた線描とはまったく異質な、硬質で刻みこむような線描と、そのきびしい現実把握のモラルの神秘的な力にはげしい衝撃を受けている。ぼくはこういうとき、多く見ることの虚しさと、餓えた眼のみる豊かな探さということを、移植過程のなかにあった近代日本美術史に、いっていいと思っている。今でも変りはなかろう。また、事実、無銭旅行から帰った関根のデッサンは力強く一変し、「内面的にも強くなり」(古川晴帆)、「一種畏敬に近い心持を起さしめる程、君の芸術は力強く、しかも価値あるものとなっていた」(伊東深水)。

外面的にみると、河野通勢=劉生=草土社的であり、通勢=劉生と同じように、Portrait of−,1916,June 10などと書き、ときに「暗き内に一点の光あり、其れを俺れ見て居る。神を知る人は或る感情に俗界は通俗な風姿をする、其れはだ作」(1915年)とか、「芸術は悔改なり、過去の精神的大罪悪なり」などと書き、また「深川菊川橋」のように風景に壁がん形を付けている。これらは通勢との交友によるデューラー=通勢的な影響であるが、これらの鋭角的で神経の張りつめた硬質のすばらしいデッサンは、通勢=劉生的でありながら関根のデッサンであり、劉生、草土社と関根はなんの関係もなく、また同時代の「ヒュウザン会」〈大正元年、第1回)とも、なんの関係もない。関根は、そういう意味で飽くまで単独であり孤独であり独行者であった。

(「幻視の画家−関根正二」『世界』昭和46年4月号、『土方定一著作集』7pp.153−155)

 雑談しているうちに午後になり、果たして番頭が訪ねてきた。
 「どうも、うちの坊ちゃんが大層皆様にお世話様になってるそうで、旦那も大変御迷惑じゃないか見て来いなんてね、はい、それで」
 「そんなことはどうだって好いよ、政吉、親父も阿母も無事か」
 「はい、若旦那がお店の方を取りしきっていらっしゃいますので御心配はいりません」
 見れば胡麻塩頭の如何にも忠実そうな白鼠で、少し東北弁の訛りがあった。僕は津軽なので直ぐ気付き、
 「番頭さんは東北らしいな」
 と言うと彼はペコリと頭を下げ、
 「はい、よく御わかりで、手前は福島の産でごわす」
 「福島の何所なの」
 「白河郡でがす」

この挿話は、ぼくを限りなく感動させる。

(「関根正二、異聞」『絵』昭和48年1月号、『土方定一著作集』7pp.170−171)

鳥海青児(1902−1972)

すでに述べたように、鳥海青児の厚塗りはレンブラントの厚塗りの鳥海青児の解釈であるが、ぼくがかつて他の個所で指摘したように、ファン・ゴッホ、ファン・ゴッホが尊敬したモンティセリがそうであり、「青の時代」以後のルオーなど、厚塗りを好む巨匠の絵画的体質とその造形思考からきていることは明らかである。そして、厚塗りの画面は光線を受けると、その微妙な画面の凹凸によって厚塗りにしか現われない視覚的、触覚的な効果をもちはじめる(ドイツ語のBeleuchtumgである)。鳥海青児の「水田」、また「信州の畠」などを春陽会の会場で見たとき、ぼくは画面の三分の一以上が分厚い暗褐色で、でこぼこに塗られ、そのうえに青い空がわずかにひろがり、そのでこぼこの画面が光を吸収し反射し、無限に豊かになり、その単純な構成と相まって、圧倒的に重厚な、そしてこの作家の精力的で臂力の強い、そして内部に悲劇的とも呼びたい浪漫主義的な心情をつよく印象づけられたことを忘れることができない。そして、このような厚塗りのマティエルヘの鳥海青児の青春の歌だ。魔術師のような偏愛は、その後の鳥海芸術の特質となっているものである。と同時に、このことは画面にとって光線は必要であるが、印象派のように風景や物象にあたえる光線の再現=描写を必要としない。そういう意味で、鳥海青児の画面ははじめから印象派、その他の流派のイリュージョニズム(対象に似ているという錯覚)を拒否している理由であり、そこに鳥海芸術の抽象化の形而上的な世界の入口があるといっていい。余計なことを付加すれば、芭蕉が「いい得て、なにかある」といったイリュージョニズムの拒否であり、作品というものは、本来、そういうものだろう。

(「鳥海青児論」『日本の名画35 鳥海青児』講談社 昭和49年、『土方定一著作集』7pp.302−303)

鳥海青児の人物画は、つぎに「うずくまる」(1954年)、「黄色い人」(1956年)、「彫刻をつくる」(1956年)のシリーズとなっている。この「うずくまる」について作家は、「この人物の腰の線は、家蔵の黄瀬戸の掛け花生けを見ているうちに得たフォルムで、‥‥‥黄瀬戸のもつ色彩的な魅力やそのフォルムから連想のような形で」と語っている。すでに「かぼちゃ」シリーズで述べたように、この作家はこの時期になると、素材をある形と色−それはこの作家の蒐集し愛蔵している仏画、古陶などであるが−の面白さの発見、いい換れば、それがこの作家の形と色の展開であるが、作家のなかのこの交感によって発想している。であるから、たとえば「黄色い人」にしても、黄色い人間など世界中にいるはずはないが、この作品を見る人は、そういうことを意識せず、この作家のフォルムとその組立、それに一致したマティエルのなかに、いつの間にかひきずりこまれてしまっている。これらの人体の抽象的なフォルムの性格が鳥海芸術を形成していることはいうまでもない。人物画の系列には、すでに述べた「大理石をかつぐ人」、「ブラインドを降す男」、つぎに「昼寝するメキシコ人」(1963年)のメキシコ・シリーズとなっている。サンブレラを被っているメキシコ人にしても、「かぼちゃ」シリーズと同様に影もなければ台もないが、それらはそこに実在し、造形の秘儀の面白さを示して余りない。

(「鳥海青児論」『日本の名画35 鳥海青児』講談社 昭和49年、『土方定一著作集』7 p.308

鳥海さんの承諾を得て、夫人とともに熊本にきていただいたとき、東京、セントラル美術館でその直前、開催されていた鳥海青児展に展示された「平塚風景」(大正13年、1924年、32×41センチ)について、その所蔵者の名をおたずねした。というのは、ぼくのいる神奈川県立近代美術館で、もしその作品があれば買いたいと思っていたからである。鳥海さんは「あれは画商がもってきたので、わたしが持っています」といわれたので、「その価格で近代美術館に譲っていただけませんか」と、ぼくがいったところ、鳥海さんはあっさり「美術館に寄贈しますよ」ということで、ぼくが恐縮しているうちに寄贈されてしまっており、東京に帰ってから2、3日後に、「平塚風景」に新しい額縁がつけられ、送られてきてしまっていた。どういうお礼をと考えているうちに、日時が過ぎ、鳥海さんは亡くなられた。鳥海さんという人は、こういう人だ、といっては変ないい方であるが、前にも近代美術館は、「昼寝をするメキシコ人」(1964年、61×72センチ)の寄贈を受けており、その折、近代美術館で「鳥海青児展」を開催したときに、「気に入ったデッサンがあったら寄贈します」ということで、いいデサンを多数、いただいていて、これらは神奈川県立近代美術館の自慢の所蔵作品となっている。神奈川県立近代美術館としてお礼の言葉もないが、鳥海さんは内に持するところがあって、しかも、淡々として水の流れるようであり、他の人間関係にあって性情の厚いことを、しばしば、ぼくは目撃している。周知のように、鳥海さんは「賢人」(酒のこと)を飲まれなかったが、寺田透氏をはじめ「中聖」(酒飲みのこと)の人たちを前にして、よろこんでおられたなど、鳥海さんはまさに賢人の人というべきだ。

(「鳥海青児と平塚、藤沢」『神奈川県美術風土記・幕末明治拾遺篇』昭和49年、『土方定一著作集』7 pp、310−311)

宇治山哲平(1910−1986)

今回の宇治山哲平の回顧展として、この作家の全貌を示す「宇治山哲平展」での初期の作品は、「静物、白」(1947年、第21回国画会展)などである。この「静物、白」は、ぼくの記憶では、白を基調として、淡い褐色の形態を垂直、水平に構成したこまやかな心情に満ちた抒情詩を思わせる、この作家の素質のよさを示した、いい作品であった。福島繁太郎がこの作家の素質を賞讃したのも、この素質であったろうし、誤解を恐れずにいえば、福島さん好みといっていいだろう。が、もう「曠原」(1954年)などになると、写実から離れて、というか、自己が前にする壮大な大風景を、ひとつの画面のなかに自己の映像として定着させ、結果として、単純化しながら壮麗な半抽象と呼びたい、強靱な画面となっていることである。「白鳳仏」、「弘仁仏」(1957年)となると、この作家が飛鳥、天平の古仏像からの感動の内的映像が、この幾何学的な構成をとりながら、不思議な魅惑をもつ画面としたことは疑いない。ぼくは、山口薫の「千手観音」のシリーズと並べてみて、山口薫のシリーズにもヴァリエーションがあって一言ではいえないにしても、ここでは詩人、山口薫の美的幻想の繊細な抒情詩となっているとすれば、「白鳳仏」、「弘仁仏」では、かつての「静物、白」の静かに息づいている抒情は払拭されて、やや神秘感を帯びた、緊密な構成をもつ幻想仏となっていることである。年譜をみると、1953年、日本の古典造形に牽かれ奈良県天理市木堂に転居し、アトリエを持つ、とあるから、その間の古典造形の抽象的な解釈が、抒情を濾過した、この作家の現在につづく象徴=抽象への方向と向いつつあったことは疑いない。

(「宇治山哲平の沸々たる抽象世界」『宇治山哲平展目録』神奈川県立近代美術館 昭和51年、『土方定一著作集』8 pp.219−221)

松本竣介(1912−1948)

1938年から1940年にかけての松本竣介は、以上のような「都会風景」の多産な作家となっている。松本竣介がそのなかで生活し、そのなかで生活の資をかせぎ、そのなかで『雑記帖』の編集長として理想的な文化運動の誕生を夢想し、自らも詩を書き、アフォリズムを発表し、そのなかで結婚し、そのなかで愛児をもち、そのなかで愛児を失った都会に対する哀歓、生活を愛した松本竣介の詩、生活を愛することが人間として正しく生きることにつながる松本竣介の詩がすみずみにまで透徹した画面となっている。そういう意味で、この時期が松本竣介のいちばん幸福な時代であったといえるようだ。このことは、すでに引用した松本竣介のモディリアーニについての感想にもよく現われているが、また、あるところで、次のように書いている。

「僕達は自己を愛してゐる。多くの人々を愛してゐる。更に人間の生活を愛してゐる。僕達の無形の尻尾はこの巨大な地帯に結ばれてゐるのだ。この縛られてゐる状態そのままを肯定する態度や、或は尻尾を切断し得たと信じる一人よがりは、人間の感覚を欺く政治であつて芸術とは完全に対立してゐるものと僕は考へてゐる。無限大な人間の生活態に結ばれたまゝ飛躍できるまで芸術的機能を錬磨しなければならない。前衛の意味はこの飛躍しようとする意志の中に見たらいゝのだ。それは決して、頭脳的な仮構の中に設定された飛躍であつてはならぬことだ。……さて、美とは、愛することだ。愛することによつて知る。愛さずして理解できるといふ考へは、驚くべき現代の欺瞞だ」

「松本竣介」『松本竣介画集』平凡社 昭和38年、『土方定一著作集』8 pp.15、16)

そのはじめのころの作品と思われる「市内風景」(1941年)は、どうであろうか。工場のような建物が白いセメントの塀に三角に囲まれ、その前は道になっている。荷車が右の塀にそって忘れられたように置かれ、3人の男が背中を向けて歩いている。ブルー(碧)の透きとおるように透明な調子のなかに焦茶が加わって、夕方の孤独な風景のように明暗をくっきりとつけている。ここでは、「都会風景」のシリーズのように、思慕や哀歓の映像はなく、建物は都会のように構成されず、中景、前景に人間は現われてこない。単純できびしい構図のなかに建物が置かれ、その傍らに背中を向けて3人の男が歩いているだけである。ここで再び、建物は単独なモティーフとなって現われてきている。そして、都会風景に見られるブルーの深い調子、茶褐色の深い調子でありながら、ここでは透明度を加えつつ、この作家の孤独な魂を反映しているような深い色調となってしまっている。「運河」(1942年ころ)、「Y市の橋」(1942年)など、すでに挙げたこの系列の作品群である。

1941年に、松本竣介は「生きてゐる画家」を雑誌『みづゑ』に発表して、このとき権力をもった文化破壊者として威嚇しつつ立ちはだかる軍部=ファシズムに対して、人間と芸術家の名のもとに抗議している。文化ファシズムの影は、もちろん、このときにはじまったわけでなく、松本竣介の『雑記帖』自体がその防波堤たろうとしたことは明白であるが、この「生きてゐる画家」として抗議したとき、それは絶望のなかの必死の発声であり、条件の自己確認であった。そして、この抗議を書いた後、松本竣介はいつものようにスケッチ・ブックをポケットに入れて、中井駅から新宿、聖橋、東京駅、それから横浜へと歩きながらスケッチしようとしたとき、松本竣介は、善意による愛情と共感につながる「都会風景」の映像は失われてしまって、孤独と絶望のなかに戦っているあわれな精神の深淵に反映する建物風景を慄然と凝視しないわけにゆかなかった。松本竣介は、自らの精神の深淵に反映する建物風景に忍耐と勇気とをもって直面し、それにふさわしい、深い明晰な造形を与えることになっている。背後に格闘とドラマをもつ、すぐれた画家の偉大な属性。そして強靭な造形意志につらぬかれた透徹した画面。

(「松本竣介」『松本竣介画集』平凡社 昭和38年、『土方定一著作集』8 pp.17−18)

麻生三郎(1913− )

麻生三郎に『イタリア紀行』(昭和18年、越後屋書房)という著書があって、1938年(昭和13年)、ちょうど、日華事変のはじまる年に、フランスに行き、ベルギー、イタリアと美術館を駈け足で見てきた26歳の若い・ヰカ三郎のイタリア紀行である。そのなかで、美術館の階段を登るたびに、「腹に力を入れたり」、「丹念に壁画を見てまわると、益々現代絵画の質と時代のもつ決定的な力と、絵を描くことの困難さがわかって悲痛になり、もっと重量のある身体になって、ここに敷かれてある石の上を歩きたい」と願ったりしている。

ひとつの伝統との対決であり、伝統を自己のうちにもったことである。これについては、すでに書いた「麻生三郎論」のうちに述べているから、いまは述べない。が、麻生三郎に限らず、ぼくたちの年齢の者のなかには、いつも伝統を自己のうちにもち、それと対決する姿勢があることを、ここで思いだしている。それをひとつのコンプレックスと笑うこともできるが、これは、世代の相違としてかたづけられないものをもっている。昨年、日本に帰った森有正のいろいろな雑誌で行なった対談は、このテーマを興味深く展開している一例だろう。

横道に入ってはいけない。麻生三郎の「美術文化」時代の多くの作品は戦災で焼失してしまって、わずかに残っている「自画像」(1937年、第1回美術文化協会展)、また『イタリア紀行』の図版として挿入されている「厨房静物」、「男」、「女」などを見ると、17世紀オランダ絵画のあるものと、静物の構成、人物のとるポーズなど、ある類似を思わせる。ことに、「厨房静物」、「男」など、そうである。もっとも、17世紀オランダ絵画の冷たく透明な視覚ではなく、濁ったマティエルのなかの制作であるが、これらの静物の構成と人物のとるポーズが、どこかエクゾティックな関心のなかにあり、それらの人物は自画像であるから、自画像として当然、見るわれわれを見ている。少し大げさであるが、ゲーテの『イタリア紀行』を読んでいると、ゲーテが憧憬のイタリアに入ると、イタリア風の服装をし、ヴェネツィアでは縁の広い中折帽をかぶり、襞のある白い大きなマントをまとい、ブロンドの仮髪までつけたことが書かれているが、そして、イタリアのこのゲーテをウィルヘルム・ティッシュバインが描いていることは、ぼくがここで紹介するまでもないが、麻生三郎のなかに、こういうエトランジェとなったよろこびがみられるようである。そして、これらの自画像は、そういうエトランジェとしての自己を凝視しているところがある。1937年の「自画像」にしても、いまぼくはこれに似たイタリア・ルネサンスの絵画をこれと指摘することはできないが、麻生三郎がイタリア絵画から受けた感動の反映としての顔を感じさせる。明治初期洋画の横山松三郎の自画像のようなプリミティヴな自画像であり、色彩はこの画家の感情を伝えようとする焦慮のなかにあるようだ。

(「麻生三郎のこと」『武蔵野美術』62 昭和42年6月号、『土方定一著作集』8 pp.195−196)

麻生三郎の作品は、同じように、現代社会に対する批判、というより不信が根づよくこの作家の世界観を形成しているが、画面はカリカチュア、機智の画面ではない。あるところで、麻生三郎は、そのレアリスムをこんな風に語っている。「ぼくはやはり現実のぼくらの住んでいる社会とか生活から、絵が切り離せない。だから、もう一回、どろんこの現実に立ち向うわけだ。自分と現実との対決をやっていこう。そうすると新しい造型方法ができると思うのだ」(『美術手帖』、昭和34年12月号)。

ここで、麻生三郎が「現実の対決」といっても、それは画家として家族像を描こうとする自己の心理的なイメージとの対決であることである。これは、現実に対するカリカチュアでも機智、諷刺、嘲笑、トリックでもなく、麻生三郎は自己の家族のイメージを描くことによって自己証明しようとしているわけだ。「子供」、「母と子」のシリーズの最後のころの「家族像」、ぼくの記憶に誤りがなければ、1954年の「母子と風景」の系列の「家族像」は、「家族像」の絶頂に立つ作品であり、麻生三郎の世界の最初の確立、勝利といっていいとぼくは思っている。それは暗褐色が主調となっている画面であることに変りはないが、大きな空間のなかに貧しい家並みがつづき、その前の野原のようなところで、母とふたりの子がこちらを向いて真正面に立っている。これらの画面では、画面のフォン(背景)が暗褐色の魅惑のなかにつくられ、したがって画面の空間が明確に形成されている。それは家並みの水平線と立っている母と子の垂直線によって、いっそう強められながら、愛情の薄明に翳る切実な美わしい家族像となっている。ここで、画面の自己の空間造形を知った麻生三郎は、これ以後、自己のメカニズムのなかに心理的なイメージを自由に構成することになっている。それは、その後の人間のなかの不安感によって解体した人間像、死の人間像、現代社会のなかの人間像を自由に描き入れることになっている。もっとも、寡作なこの作家の、イメージとの困難な心理的、造形的な格闘があって、そして、そのテーマは麻生三郎自身の内部であるから、ぼくがここで自由に構成するといって、易々として制作されていることでは、もちろん、ない。

(「麻生三郎のこと」『武蔵野美術』62 昭和42年6月号、『土方定一著作集』8 pp.199−200)

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