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〈まつりの造形〉展ノート

土田真紀

今日我々が目にする〈まつりの造形〉の一つの典型といえるのは、日本各地の祇園祭系統の祭に華々しく登場する、これでもかといわんばかりに趣向を凝らした巨大な山車の類ではなかろうか。もちろん筆頭に上げられるのは本家本元京都の祇園祭の山鉾であろう。折しも今年はちようど平安京に都が遷ってから1200年目にあたり、それにちなんだたくさんのイヴェントの一つとして、京都文化博物館で「祇園祭大展」が開催され、絢爛豪華な山鉾の懸装品を中心に、関係の品々が一堂のもとに展覧されていた。その図録中の植木行宣氏の論文「山鉾の変遷」によれば、平安時代の大嘗祭における標山(しめやま)を典型とするヤマに対し、ホコは本来は聖なる柱を意味し、諏訪の御柱祭りの柱が典型であるが、「山・鉾という祭の造型として恒常的に現れるのは鎌倉末期のことである」という。そして祇園御霊会を舞台に「町を生活拠点とする市民の成長と風流という風潮を背景に大きく展開したのである」。

「風流(ふうりゅう)とはもと雅やかなもの、風情あるものの意であった。それが趣向を凝らし意匠をつくすことから、そうした細工(作り物)や装飾の意に転じ、さらには風流(ふりゅう)とよんでもっぱら踊りを意味するに至った」。この「風流」という非常に魅力的な響きをもつ言葉は、〈まつりの造形〉の展開を説明するひとつの重要なキーワードのようである。近年、日本美術史研究においても、日本の美術が本質的に有している「装飾性」への注目から、もっぱら芸能の分野で用いられてきたこの「風流」という概念に光があてられているが(辻惟雄著『日本美術の見方』岩波書店、1992年)、まつりに関わる造形には、風流の精神による「作り物」が様々な形でみられる。美しく造花で飾られた花笠なども、その「作り物」としてのあり方はまさしく風流であろうし、日本人の旺盛な装飾精神は、まつりという日常ではない場において遺憾なく発揮されてきたように思われるが、それが最も典型的に、最も大規模に展開されたのが京都祇園祭の山鉾であり、各地の同種の祭に登場する山車なのであろう。 今回の展覧会には、残念ながらそれら山車に類したものは1点も展示されていない。理由は物理的な制約のためであり、実際、準備段階では、ある祭の山車を展示する計画がかなりのところまで進んでいたが、いざ美術館への輸送・搬入計画を具体化する段になると、相当なリスクを伴う事が判明し、諦めざるをえなかった。かわりに出品リストに含まれているのが〈博多祇園山笠図〉である。これらの図は、博多の各町が競って作り合った山笠の一種の記録画で、藩主に納めるものであったというが、最盛期には高さ16mにも及んだというかつての山笠の姿を伝えている。この博多の山笠は、山車の展開の一つの極限の姿を示しているが、よく知られているように、日本各地に、これに負けず劣らず巨大で、あらゆるアイデアを投入し尽くしたかのような山車や曳山、笠鉾、だんじり、屋台がみられるのである。青森のねぶたなども灯籠が巨大化した山車の一種であるという。

まつりの場における風流の真髄は、さらに大きく、きらに珍しく、さらに美しくと、絶えず競い合って新たな趣向を求めるところにあったのであろう。しかし京都の祇園祭の場合、室町時代の半ば頃から趣向が固定化し、かわって自由に取り替えが利く懸装品による装飾に重点が移っていったという。

地方において大規模な山車が祭に登場するのは、京都より遅れ、主として都市文化の担い手たちが登場してくる近世以降であった。今回の展覧会には、近世都市文化を基磐とする〈まつりの造形〉の展示が少ない分、近世が過ぎ、近代に入っても、都市文化の流れとはどちらかといえば無縁であった地域の〈まつりの造形〉が比較的多い。それらの造形はある意味で、明治以降日本全体が近代文明の急激な流入に曝され、多くのものが押し流された後にかろうじて残ったものとさえいえるのかもしれない。というのも、古い歴史をもつ社寺に残された例を除くと、その多くは、つい最近まで交通が不便であった山間部、あるいは南西諸島や沖縄地方のものであるということは決して偶然とは思えないからである。

都市の祭礼にみられる華やかな作り物と対照してみるとき、これらの造形はいっそう簡素でつつましやかに思われる。山車の製作に中心となって腕を揮ったのが、やはり近世都市文化の重要な担い手であった職人であるとすれば、これらの作り手は多くが素人である。つまり祭の参加者が自らの手で、祭に登場する様々な造形物をも作っているという場合が多い。なかにはプロに近い者や素人のなかでも特に技能にすぐれた人間が専門に請け負うこともあろう。しかし祭の参加者が祭の準備の一環として共同作業で作る例などが多くみられる。たとえば、沖縄の南風原町津嘉山地区では、豊年祭の旗、綱引きの綱、カナチ棒など一切を「イリ」と呼ばれる祭を行う共同体の人々で作り上げる。また、比婆荒神神楽の白蓋と千道や福島県岩代町の三匹獅子舞の「ささら」なども、それぞれ神楽社や獅子舞保存会の人々によって農作業の合間などに作られるものであり、今回の展覧会でも、展示用に新たに製作を依頼したものが幾つか含まれている。

これらの造形の素材の多くは、木、竹、紙、布、藁など、いずれも身近にあって手に入れやすく、また比較的扱いやすいものばかりである。他方でこれら素材のなかには、藁のように数年でばらばらになってしまう、耐久性に乏しい素材も含まれている。というより、〈まつりの造形〉は、素材の如何にかかわらず、もともと何年も継続して用いるものではなく、毎年新たに作り直されるのがその本来の姿なのである。様々な条件から、現在では作り直す間隔が延びたり、またほとんど作り直す習慣自体が失われたりもしているが、そういう所でもかつては毎年作られていたという。〈まつりの造形〉は、単にまつりというパフォーマンスに伴う造形であるという点からだけでなく、本質的にtemporalな造形なのだといえよう。

さらには、いわゆる「芸術作品」のように永続する必要がないばかりではなく、それどころか、まつりの終了後にそのまま残されるということ自体忌避される場合も多い。たとえば沖縄の獅子舞の獅子は終了後に焼き捨てられる。というのも獅子舞は行きどころのない無縁仏など、悪霊をはらうために舞われるもので、追い払った後には焼き捨ててこそ意味のある行事だからである。冒頭に述べた祇園祭の山鉾も、もともと祇園御霊会という怨霊をはらう行事から展開したものであった。鉾はその怨霊を依りつかせる依代であり、したがって祭の終了後できる限り早く処分される運命にあった。こうして1回1回処分され、新たに作り直されるからこそ、新しい趣向を競う風流が成立する基盤もあったのだといえよう。それがいつの間にか固定化し、現在のように重要文化財に指定され、大切に保存されるに至ったのである。今回の展覧会には、聖なる柱としての鉾のルーツの姿をより端的に示す嵯峨祭の剣鉾が出品されているが、もちろん剣鉾も現在ではそれぞれの町内で大切に保存されているものである。しかしたとえば、同じく京都市内の御霊神社の祭に登場する白い布製の布鉾には、毎年新たに作り直される〈まつりの造形〉の姿が今なおとどめられているように思われる。

まつりが、また〈まつりの造形〉が本来生きていた時間は、現在我々が実感しているような過去から未来へ流れる直線的時間ではなく、無限に繰り返される、いわば「円環する時間」であったにちがいない。1年のある決まった日、決まった時期に毎年行われるのがまつりである。場合によっては何年に1度という間隔で繰り返されるまつりもあるが、いずれにしても一定の周期があり、しかもその繰り返しのリズムの基本には何らかの自然のリズムがあると考えられる。たとえば稲作のリズムであり、1年の農作業に先だって無事と豊作を祈り、害虫の時期には虫送りを行い、また収穫のあとにはそれに感謝してまつりが行われるという具合である。怨霊が疫病をはやらせるのも、あるいは行き場のない精霊が現れるのも1年のある時期であり、その頃に御霊会が行われたり、念仏踊りが踊られたりしたのである。かつてはそれほど人間が自然の力を強烈に感じ、またその影響を直接に蒙りながら暮らしていたことの裏返しともいえるだろう。本当に切実な思いをこめてまつりが行われ、芸能が奉納されていたのであろう。春、夏、秋、冬と1年の周期で死と再生を繰り返す自然の旺盛な生命力に祈りつつ、人もまた毎年新たな気持ちでまつりに臨んでいたにちがいない。〈まつりの造形〉がそのたびごとに新たに作られるべきものであるのも当然であった。

山形県櫛引町黒川で数百年にわたって土地の人々によって伝えられてきた黒川能は、芸能史の上からもたいへん貴重な存在と目されているが、造形の面からみても、面や装束、とりわけ能面が定型化される以前のすぐれた面が残されていることでたいへん興味深い。この黒川能が奉納される春日神社の1年で最も重要な祭、王祇祭に登場するご神体である王祇様は、風流による展開を遂げた〈まつりの造形〉とは系統の異なる〈まつりの造形〉の一つの典型的な姿を示しているように思われる。この王祇様は、杉の柱の頭に紙の四垂をつけた御幣のようなものを3本、麻縄と白い布でつなぎ扇形に広げたもので、祭以外のときは別々の状態で置かれている。ところが祭の当日、3本の柱に布で「きものを着せる」と、途端にそれは王祇様というご神体としてその聖性を発揮し始めるという。〈まつりの造形〉とは、本来このようにある特定の時と場においてのみ成立するものであり、またその時と場が1回限りではなく、一定の間隔をおいて繰り返されるものなのであろう。その周期はまさに黒川の地に流れている有機的な時間のなかから必然的に生み出される周期といってよいように思われる。祭とともに現れる〈まつりの造形〉は祭が終わればただの何の変哲もない「もの」に戻ってしまうのである。

この黒川能の王祇様は、1個のオブジェとして見たくなるほど造形物としても魅力的に思われた。しかし、ご神体であるからというばかりではなく、そこにはオブジェとして美術館の展示室に展示することをためらわせるものがあるように感じられた。黒川能の人々の答もそれはできないということであった。結果的に今回の展覧会に出品されたものについても、やはり〈まつりの造形〉を完全にオブジェとして見ることはできないという感じは強く残る。それらはあまりにもまつりのパフォーマンスと一体化し、特定の時と場を生きているものだからであろう。しかし、であるからこそ、造形、すなわち「形あるもの」の意味を改めて考えさせてくれるようにも思われるのである。

(三重県立美術館学芸員)

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