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年譜

西暦・和暦 事項 作品(( )内の数字は図版番号))
1736年(元文元) 木村蒹葭堂、大坂に生まれる。名は孔恭、字世蕭、巽斎、通称多吉郎、祖父の名を嗣いで坪井屋吉右衛門と称する。家は代々酒造家坪井屋、大坂北堀江の豪商。  
1748年(寛延元) このころ、蒹葭堂、紫雲院の住職をしていた鶴亭に就く。  
1749年(寛延2) 十時梅告カまれる(享保17年説あり)。  
1754年(宝暦4) 10月14日、雪斎、伊勢長島藩主正贇の長子として江戸の藩邸で生まれる。幼名千之丞、勇之丞。父は長州府中藩主毛利匡広の九男。長島藩は、木曽川長良川揖斐川の河口に拡がる三角州地帯にあり、知行は2万石。  
1759年(宝暦9) 春木南湖、生まれる。  
1763年(宝暦13) 蒹葭堂、『山海名産図会』を上梓。  
1771年(明和8) 11月15日、雪斎、はじめて徳川家治にまみえる。
12月18日、雪斎、従五位下河内守に叙任。
 
1776年(安永5) 4月5日、雪斎の父対馬守卒(51歳)。
5月晦日、雪斎、遺領を襲封。
 
1778年(安永7) 雪斎、大坂城御加番を命じられ、大坂に赴任。  
1781年(天明元) 雪斎、ふたたび大坂城御加番を命じられ、大坂に赴任。  
1782年(天明2) 3月27日、雪斎、蒹葭堂を訪れる(雪斎、『蒹葭堂日記』への初出)。以降、しばしば蒹葭堂を大坂城内の自邸などに招く(天明3年8月26日、8月27日、10月16日、12月12日、天明4年1月5日、閨1月11日、閨1月13日、2月20日、3月22日、4月4日、5月1日、6月2日、6月9日、6月17日、7月9日、以上『蒹葭堂日記』)  
1784年(天明4) 2月、雪斎、梅高藩儒として登用。後、藩校文礼館の長(祭酒)に据える。
8月5日、蒹葭堂、江戸下向。大坂城勤番を終えた雪斎に従ったものか。『蒹葭堂日記』には、このとき『東遊紀行』なる紀行を著したとするが,現存しない。皆川淇園、雪斎の東帰に当り、献詩。
9月13日、江戸の長島藩邸で蒹葭堂の送別の宴が催される。渡辺玄対・宋紫石・沢田東江・朽木昌綱らが出席。
 
1785年(天明5) 8月、雪斎、藩校文礼館を再興。長(祭酒)は梅香B
10月1日、長子正寧生まれる。
 
1786年(天明6)   花鳥図(2)
1787年(天明7) 2月26日、蒹葭堂、伊勢旅行に出る。長島で雪斎や、当時長島藩の儒官をつとめていた梅高ノ会い、松坂に本居宣長を訪ねる。
3月3日、伊勢山田より、画憎月僊長島に来遊、雪斎、梅香A蒹葭堂に会う。
3月5日、月僊帰る。蒹葭堂、大坂への帰途、京都で本草学の師小野蘭山に会う。
3月24日、蒹葭堂、帰坂。
6月3日、雪斎、尾張鳴海の素封家下郷学海のために、学海所蔵の池大雅「十便帖」の冒頭に、「聨璧」の二字を書す。「十便帖」「十宜帖」は、学海の需めで、それぞれ大雅、与謝蕪村が描いたもの。
 
1788年(天明8) 9月7日、蒹葭堂邸に滞在していた春木南湖、長崎に向け船出。 紀行『西遊日簿』を著す。
9月28日、南湖、夕刻長崎に到着。
10月2日、南湖、唐通詞清川太兵衛(太平次)同道で唐人屋敷に赴 き、張秋谷と筆談。費晴湖も同席。
10月5日、南湖、昼過ぎから、丸山の茶屋井筒で華人の酒宴に出 席。
10月21日、南湖、費晴湖から山水画手本が届く。
10月23日、南湖、唐人館に赴き、費晴湖の宿聴松楼に上り、程赤城に会い、また黄定甫と筆談。さらに費晴湖と南湖が山水図を合 作し、程赤城、黄定甫が着賛した。南湖はまた、晴湖送別の詩を 賦し、晴湖がそれに和す。
10月26日、南湖、長崎出立。
11月15日、南湖、夜、大坂に帰到。
11月29日、南湖、夜、伊勢長島に帰着。
 
1789年(天明9)
     (寛政1)
3月3日、雪斎、南湖、梅高轤ニ大智院において松尾芭蕉信宿を偲ぶ雅会を催す。雪斎、さらに同院に「蕉翁信宿処」の碑を建立。元禄2年、松尾芭蕉が奥州旅行(奥の細道)のあと、同院に投宿したことを記念したもの。正面碑文は雪斎、裏面撰文は梅高ノよる。雪斎、大坂城御加番を命じられ、大坂に赴任。7月29日、大坂着。 蒹葭堂が出迎え・驕B  
1790年(寛政2)  2月7日、梅穀キ崎着。
2月8日、梅香A費晴湖・黄定甫に会う。晴湖らと、『芥子園画伝』 などについて問答し、詩を応酬する。
春、蒹葭堂、支配人過醸の容疑に連なり、町内年寄役召し上げの うえ、謹慎のとがめをうける。雪斎、蒹葭堂を領内川尻村に引き取る。
9月25日、蒹葭堂中井竹山・江田世恭に暇を告げ、梅松院での片山北海の葬儀に参列。翌日午後船で京都へ。京都では大雅堂(青木夙夜)や小野蘭山に会う。
10月9日夜更け、蒹葭堂川尻村着。寛政5年2月11日帰坂するまで同地に滞留。その間、寛政3年9月20日から11月21日まで一時帰坂。
 
1791年(寛政3) 3月6日、月僊、ふたたび長島に来遊。3月20日まで滞在。出立前夜は蒹葭堂宅に泊まる。蒹葭堂が途中まで見送る。このころ、雪斎在藩。  
1792年(寛政4)   老松梟鳥図(3)
1793年(寛政5) 2月11日、蒹葭堂、名古屋・京都を経て帰坂。
雪斎、書論『松秀園書談』(三巻三冊〉を著す。『松秀園書談』の奥書には、「雪斎滕侯著追刻書目」として『礼談』『楽談』『射談』『御談』『通雅』などの出版が予告される。
 
1794年(寛政6)   花鳥図(4)     花鳥図(参・1)   周茂叔愛蓮図(10)
1795年(寛政7) 7月、梅香A名古屋大須の七寺で、神谷天遊・内田蘭渚らの主催で催された「蓬瀛書画会」に参加。  
1796年(寛政8)   錦鶏図(参・2)   黄初平図(11)
1797年(寛政9)   村長居宅図(5)
1798年(寛政10)   山水図(12)    橋上嘲世図(13)
1799年(寛政11)   山水図(15)
陶淵明図(16)
1800年(寛政12) 梅香A下郷伝芳所蔵の大雅・無村「十便十宜帖」を筆写。  
1801年(享和元) 7日、雪斎、致仕して、巣鴨の下屋敷に隠退。長子正寧襲封。正寧は雪園と号し、詩文書画を嗜んだ。作品に「四季花鳥図帖」(東京国立博物館)がある。
雪斎、このころより巣丘山人を名乗る。長島藩には、江戸に上中下の屋敷のほか、海添いの平井新田(現江東区東陽町あたり)に町並屋敷があり、雪斎は屋敷内の銜遠亭にしばしば文人を招いた。
7月14日、梅香A大坂出張中の大田南畝らと清夢軒で月見。このころ、南畝、伊勢に行く梅高客舎で見送る。
8月16日、南畝、大坂の客舎で梅高フ『清夢録』を抄写。
 
1802年(享和2) 1月15日、蒹葭堂没、67歳。大坂城南小寺町大応寺に葬られる。
4月18日、雪斎、大応寺に蒹葭堂の死を悼む碑文を撰する。
 
1803年(享和3) 雪斎、海保育陵の需めに応じて「自讃山水図」を描く。
梅香A名古屋を旅行中書肆の求めに応じて『通俗西湖佳話』四巻の序図を作る。
3月3日、姫路藩主酒井雅楽頭の江戸屋敷で宴。庭に曲水を掘り、蘭亭曲水の趣向のほか、明楽などの演奏もあった。雪斎、一亭に座して作画作詩。ほかに渡辺玄対・楠本雪渓(宋紫山)も参加。
7月11日、梅香A故小沢蘆庵の大祥忌を・纉c秋成らと行う。秋成の歌、梅高フ跋がある。
9月、雪斎、薩摩藩主島津重豪、岡山藩主池田治政、神戸藩主本多忠永らとともに、黄檗宗瑞聖寺に参る。
雪斎、囲碁について『観奕記』(一冊〉を著す。
自賛山水図(18)
梅花叺鳴小禽図(参・4)
1804年(文化元) 1月23日、梅此f。56歳(享保17年生誕説によると72歳)。大坂八丁目寺町正念寺に葬られる。大田南畝、その死を悼み、遺画に題詩を書く。
雪斎、『煎茶式』(一冊)を著す。同書中に、木村蒹葭堂より譲られた売茶翁茶具二品の図がある。蒹葭堂は売茶翁茶具を八品所持していた。
 
1805年(文化2)   山水図(参・7)
1808年(文化5)   東方朔図(参・9)
1810年(文化7)   山水図(24)
1812年(文化9) 10月、雪斎、高野寺に会し、戒巌上人、大田南畝らの詩に和す。 孔雀図(参・9)
1813年(文化10) 1月、雪斎、新田侯の席上、大田南畝、市河寛斎らと詩を賦す。
9月25日、蒹葭堂の養子石居の主催により、大応寺で蒹葭堂十三回忌の法要が行われる。三都をはじめ諸州から寄せられた追善供養の書画幅の展観を催した。同展観には雪斎も出品。合計181点が出品される(『癸酉展観目録』)。
飲中八仙歌(38)
1814年(文化11)   紫陽花琉球鳩虫図(参・13)
山水図(27)
花鳥図(25)
蘭菊図(20)
1815年(文化12) 『都下名流品題』版行 
4月、雪斎、大田南畝より還暦の寿詩を贈られる。
鴨図(29)
1816年(文化13) 書画番付騒動。  米法山水(30)
1819年(文政2)  1月29日、雪斎没。増山家の菩提寺上野東叡山勧善院に葬られる。「慈曇院殿雪斎道智大居士」。墓碑には葛飾因是による撰文。  
1821年(文政4) 7月、雪斎の遺命で勧善院庭に「虫塚」が建てられる。正面に「虫塚」の二字が題され、その下に葛飾因是の撰文が大窪詩仏の書で題される。裏面には詩仏および菊地五山の題詩。  
1839年(天保10) 4月25日、春木南湖没。81歳。  

(山口泰弘編)

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