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1−24 萬鐵五郎《木の間よりの風景》

萬鐵五郎《木の間よりの風景》
1−24 萬鐵五郎《木の間よりの風景》
1918(大正7)年 油彩・キャンバス
54.3x45.5cm

 
 岩手県立博物館蔵の《木の間から見下した町》(fig.1)、新潟県立近代美術館蔵の《木の間風景》(fig.2)等とともに、一連の「木の間から見える風景」として扱われてきた風景画である。これらの風景画のうち、署名と年記があるのは《木の間から見下した町》のみで、この作品に「1918」の年記が入っていることから、他の作品もこれまで同時期の作とされてきた。また作品のタイトルについても、萬自身が現在のタイトルで呼んだのは《木の間から見下した町》のみであり(註1)、これに準じる形で他の作品にも後からそれぞれタイトルがつけられている。

 これら一連の風景画は、これまで萬の故郷岩手県土沢の風景を描いたものとされてきた。その最大の根拠は、萬に師事していた原精一が《木の間から見下した町》について、「僕は土沢のほうのモチーフだと思いますね。それで、あれをもって東京で描いているうちにだんだんあそこまで行ったのだと思うのです」(註2)と語っていることであった。

萬鐵五郎が東京から土沢に戻っていたのは1914年9月から1916年1月のことである。この帰郷期間中に土沢を描いた風景画が残されている。「四・二・」という年記の入った1915年作の《雪の景》、「1915」の年記のある《土沢風景》(fig.3)を初め、この時期の風景画と位置づけられる一連の作品である。これらの作品は、現実の風景をほぼ忠実に写していると考えられるもので、「木の間から見える風景」として括られる一群の作品とは、表現方法も作品が醸し出す雰囲気も相・魔ノ異なる。《土沢風景》は、風景のデフォルメの始まりを窺わせるが、それでも一連の「木の間から見える風景」とは明らかに制作時期が異なっていると思わせる作風である。

 これらの土沢に戻っていた時期に描かれた風景画とは明らかに異なるとはいえ、当館蔵の《木の間よりの風景》は、《木の間から見下した町》や《木の間風景》とも必ずしも近い作風をもつとはいえない。キュビスム風というよりは、カンディンスキーの抽象絵画への萬の関心を窺わせる《木の間風景》とは、色調の点ではやや共通する点が認められるが、絵画空間の抽象化の度合いという点で全く異なっている。色調は異なるが、雰囲気がむしろ共通しているのは《木の間から見下した町》の方であろう。《木の間から見下した町》について土方定一は次のように述べている。

  この「木の間から見下した町」は、土沢の山にさしか
  かったところから展望した家並、そこに繁っている
  くるみの樹かなんかの立木−そういった郷里、土
  沢の回想であることは、萬の郷里へのかなしい回想
  を思わせる。回想のなかで郷里のこの風景は、いつ
  の間にか浪漫主義的に美化され造形的に純化され、
  萬鐵五郎の「自己の中心のなかに自然は置かれて」神
  秘をたたえた静謐な画面になっている(註3)

fig.1


fig.2


1 萬鐵五郎「私の履歴書」『中央美術』大正14年11月号(『鉄人画論』中央公論美術出版1985年 所収)に「八年には二科会に『木の間から見下した町』其の他二三点出品したと覚えて居る」と記されていることによる。

2 原精一・小倉忠夫(対談)「萬鐵五郎 土着した表現主義の先駆」『美術手帖』第209号 1962年 116頁。


fig.3

3 土方定一「萬鉄五郎ノート」『三彩』154号 1962年。
 
 《木の間から見下した町》の、俯瞰的視点で捉えられ、曖昧な灰色の空間に亡霊のように浮かぶ家並みと樹木もきわめて特異であるが、本作品の木の間からのぞく積み木のような家、手前の静かに燃えているような朱色に彩られた風景も、およそ現実の風景とは思われない相貌を呈している。これらの作品が示す風景画としてきわめて特異な性格は、この時期の萬自身の制作をめぐる状況と結びつけて考えられてきた。
 
  大正四年頃から萬君の作品がだんだん暗くなって来
  たのだが、この「木の間から見下した町」に至って暗
  い極度に達したのだと彼自身云っていた。此絵は殆
  ど灰色だけの濃淡である。描いてあるものも木なら
  木、家なら家の精霊のように見えるものだ。然しこ
  うなっては萬君も苦しい事であったろう(註4)

  土沢時代以来、キューピスムが彼の絵画思考の核を
  なして発展し、それは見事な結実を見せたが、後述
  するように、大正七年あるいは八年と推定される作
  品には、色濃く絵画思考の苦悩の影が落とされてい
  る。西欧の科学的な論理性をもった造形表現に正面
  から対決を試み、それを超克せんとする苦悩であっ
  た(註5)

 また、1917年から1918年にかけての萬とキュビスムとの関係をさらに詳しく追求した論考では、萬の苦悩の在処を次の点に置いている。

  いわば内面の表出としての〈人格主義〉と理知的で
  構成的な〈キュビスム〉との板挟みの境地。萬の苦
  悩は、実にこの点にあったと思われる(註6)

 《木の間よりの風景》には、すでに指摘されているように、ジョルジュ・ブラックの《レスタックの家》を即座に想起させるところがあり(註7)、実際、単純化された家屋の表現はかなり近い。その一方で、深緑色と赤褐色を中心とする色調、およびその筆触はキュビスムとはかなり異質なものである。1915年からこの時期にかけて、人物や静物を主題とした萬の作品にキュビスムの影響が明確に現れているのとは様子を異にしている。相異なる2つの要素の葛藤という指摘はここに確かに見て取れる。

 こうした萬の本質的な制作上の苦悩に関わる問題以前に、本作品には制作年の問題が残っている。本作品には署名も年記もない。ただし、作者を萬本人に帰することに関しては、これまで研究者間でも異論はなかった。「木の間から見える風景」というモティーフ、およびマティエールや色調などが萬以外の作者を想定させる余地がないほど特徴的であるからである。また制作年に関しても、モティーフの類似性から《木の間から見下した町》とほぼ同じ頃ではないかと推定されてきた。作品そのものに残る唯一の手がかりは、木枠の裏に朱色の絵具で「本・四・萬鉄五郎」と書かれていることである。このうち「本」は「大」にも見える。ただし萬本人の書込とは断定できず、また木枠を再利用していることも考えられるため、決定的なものではない。最近の研究では、1918年頃という従来の説を受け入れつつ、《木の間から見下した町》や、やはり「1918」の年記のある《かなきり声の風景》ほど抽象化、象徴化が進む前段階の作品ではないかという説が提出されている(註8)
 
4 小林徳三郎「萬鐵五郎君の遺作記録」(製作とその時代)」、萬淑子編『萬鐵五郎画集』平凡社 1931年 4頁。小林 徳三郎は、萬の遺作展の際にこう語っている。

5 陰里鉄郎「萬鐵五郎(三)生涯と芸術」『美術研究』262号 1969年 217頁。

6 中谷伸生「キュビスムヘの抵抗 一九一七年・一九一八年の萬鐵五郎」『三重県立美術館研究論集』第3号 1991年 88頁。

7 同上 73頁。

8 同上 78−79頁。
 確かに本作品には、はっきりとした萬の意図を読みとろうとすればするほど、あるところでどうしても壁にぶつからざるを得ないようなもどかしさがつきまとう。家々を取り囲む樹木は立っている位置が判然とせず、途中で切れているものすらある。とうてい現実の風景とは思えないが、それでいてある特定の風景を描いているような印象も拭えない。深緑色が現実の樹木や草むらを再現的に描写していると受け取れる一方で、静かに燃えているような朱色を同様に自然主義的に解釈することはできないであろう。《木の間から見下した町》の源泉を、この時期すでに離れていた土沢の風景と捉え、それが萬のなかで次第に変容していったとする原精一、および土方定一の解釈は確かに本作品に当てはめてみても説得力をもつ。ただし現段階でも、推測の域に止まらざるを得ない状況は変わっていない。絵画空間がまだ現実の風景の再現という性格を残していることを考えれば、変容の入口にあたる作品といえるだろうか。ただそれだけに、相反する要素の混在、部分における破綻は明らかであり、少なくともこの画面上で萬が試行錯誤していることは確かである。しばしば指摘されるように、萬は南画への関心をこの頃すでに持ち始めていた。

(土田真紀)
 
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