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コレクション万華鏡−近代美術の諸相

酒井哲朗

1.はじめに

美術館にとってもっとも大切なものは何かと聞かれたら、それは「人」であると答えてきた。収集、保存、企画、展示、教育、調査研究、広報、マネージメント等々、あらゆる美術館活動は、それらを担当する「人」によって大きく左右される。悪条件のなかで孤軍奮闘する学芸員によって、美術館が高い質を維持している例をいくつも知っているし、また有能な人材が投入されることによって、組繊が見違えるように生き生きしはじめたという事例も目のあたりにしている。美術館にとって、「人」が大切だという考えに変わりはない。しかし、時は移り、人は変わる。「パーマネント・コレクション」といわれるように、美術館が歳月を重ねていくなかで、もっとも安定して持続するものは、そこに蓄積された所蔵品である。コレクションは美術館のアイデンティティそのものだといえるだろう。

三重県立美術館のコレクションは、開館15年を過ぎて5,000点をこえた。この間、館長の交代、学芸課長、学芸員らスタッフの異動があったが、そのコレクションは、先人の志とともに、継承され発展させられている。これらの作品は、随時常設展示という形式で公開されてきたのであるが、今回、企画展示室、常設展示室、県民ギャラリー等、美術館の全展示室8室すべてを使って、所蔵品による企画展を試みた。このような大規模なコレクションの

この展覧会は、展示室ごとに、それぞれ独立した7つのテーマによって構成されている。すなわち、以下のとおりである。

 @世界をみる眼−近現代の風景表現
 A「私」と「他者」−交錯する視線
 Bかたちの行先
 Cさまざまな「写す」−写生と写実
 D文字を呼び寄せる/文字に呼び寄せられる
 E日々あらたに/ふるびない/くらしを映す
 F曾我蕭白・旧永島家襖絵

近世の曾我蕭白から近、現代にいたる日本美術を中心に、西洋美術も含めて、7つの視点、いいかえれば7つの断面が組合わさった展覧会である。それをあの筒のなかの鏡の断片がさまざまな美しい幻影を結ぶ万華鏡になぞらえたが、もしすべての人の心のなかを見通す神のような眠があったとしたら、こういったコレクションの展示が、みる人々の心のなかに喚起するさまざまなイメージ(幻像)こそ、まさに壮大な万華鏡というべきものであろう。


2.風景

「風景」という言葉は、奈良時代の漢詩集『懐風藻』にみられるというから、随分古くから使われてきたことになるが、風景画という用語が使われはじめたのは明治以降である。日本や中国では、絵画における自然表現を山水画と呼びならわし、日本では月次絵(つきなみえ)や四季絵とも呼んだ。風景画は、西洋のLANDSCAPE PAINTINGの訳語であり、山水画から風景画にいたる過程で、重大な価値転換が行なわれた。

山水画において表現されるのは、単なる自然ではない。それは歴史や文化によって意味づけられた自然である。春景山水や秋景山水といった一見ニュートラルにみえる自然景観が描かれていても、「臥遊山水」といわれるように、それは決して見えるがままの自然ではなく、人がそこに遊びたいと希う理想郷である。山水画の鑑賞体験とは、観者が画中の高士や杣人とともに山水のなかに心身を委ねることである。

山水画の主客末分の境地に対し、風景画においては、見る主体と見られる対象との間の距離すなわち疎隔を前提とし、主客は分離する。風景画の世界は、一個の人間の眼を中心に遠近法や明暗法によって対象が統一的に把握される。近代の風景画においては、それが自然であれ人工物であれ、画家が何をどのように見るかが問題となる。風景は発見されるものであり、風景を発見する主体が存在しなければならない。

柄谷行人氏は『近代文学の起源』のなかで、文学の領域では、明治20年代に「風景の発見」と「内面の発見」という認識論的変革が行われたという。國木田独歩の『武蔵野』や『忘れ得ぬ人々』(明治31年)の言文一致の表現形式において、風景は歴史的、文学的な意味におおわれた名所と切断され、そのような風景は、それを見る人の孤独で内面的な心情と緊密に結びついていることを指摘している。

風景画において、遠近法や明暗法とともに、何でもない無名の風景が絵画の主題として登場した。画家の眼を起点に、世界を見えるがままに表現するリアリズムという視覚形式の淵源は、日本では江戸後期の蘭画にまで遡り、明治初期の高橋由一に継承された。由一をはじめとして、明治初期洋画の写実的再現技法は、一種万能の実用技術と考えられていた。日本の画家たちは、本格的な写実的風景画をジャーナリストとして来日したチャールズ・ワーグマンや工部美術学校の絵画教師として招かれたアントニオ・フォンタネージらの西洋人から学んだ。絵画が一個の自律した芸術であることを教えたフォンタネージの功績はとりわけ大きい。

美術の領域において、柄谷氏のいう「風景の発見」や「内面の発見」という事態が、制度として成立したのは、やはり文学と同様に明治20年代である。浅井忠や黒田清輝の風景表現がそれを実証する。志賀垂昂の『日本風景論』が明治27年であり、各領域で柄谷氏のいう新しい「認識論的布置」が成立していた。明治30年代には明治美術会や白馬会の洋画家たち、さらには无声(むせい)会の日本画家たちは、それぞれに画家の眼で風景を発見し、そこに固有の自然感情を表現した。

人間の自己意識が風景を対象化し、風景が内面化されるということは、人間の自己意識によって世界が風景化しはじめたことを意味する。ゲオルゲ・ジンメルは『風景の哲学』(1913年)のなかで、次のようにいっている。

「真の“自然感情”は、近代になってはじめて発展してきたということがしばしば主張され、近代の抒情派やロマン派にその由来をもとめることが行われてきているが、私の考えでは、これはいささか表面的な見方である。原始時代の宗教こそ“自然”にたいする特に深い感情を示しているように思われる。特殊な形象としての“風景”にたいする感受性だけが後世になって育ってくるのであって、しかもそれは、自然の総体の統一的な感受からの懸隔が、このような形象の創出を促したからにほかならない」。

同じ大正2年に日本では木下杢太郎が『美術新報』誌上で、萬鐵五郎や岸田劉生らのヒューザン会の展覧会について、「芸術における非自然主義的傾向」を指摘した。萬や劉生らの風景表現には、浅井忠や黒田清輝らの作品に認められる穏和な自然との親和的関係はみられない。萬はプリミティヴな生命感情の表出を求めて、色彩や形体を単純化し、反自然主義的傾向を強めた。劉生もまた「単化」をめざしたが、「内なる美」を求めて存在の核心にせまる「写実」を追求し、ついには「写実の欠如」というより本質的な高次の「写実」を主張するにいたった。萬や劉生にみられるように、1910年代から20年代にかけて、風景の内面化、主観化という事態はさらに進行する。

ここで日本画の風景表現について、言及しておきたい。自己意識による世界の風景化という問題は、当然伝統絵画にも及んだ。明治10年代に洋画に席巻されていた日本画を再生させたのは、アーネスト・フェノロサであり、明治20年代以降岡倉天心がそれをさらに発展させたことは知られるが、フェノロサは「妙想」、天心は「新按」と称して画家の創意を重視した。また、彼らは、実用的洋画や前近代的な伝統絵画を否定して、西洋近代における芸術の自律を日本画に求めた。この点で彼らも洋画と同じ「認識論的布置」にいるといえるが、天心らは西洋近代の価値観(遠近法的認識論)を超えたところに、新しい日本画のあるべき姿を置いた。

近代の日本画家たちは、西洋と日本という異なった文化の相克を、一方の側に身を置いて制作をすすめてきた。ここに出品されている小林古径、安田靫彦、前田青邨、小川芋銭、冨田渓仙、入江波光、宇田荻邨らは、新しい眼で伝統を再生し、自然を表現した。彼らの芸術の基底には、それぞれの近代的個性や教養が存在する。彼らの作品もまた、自己意識によって対象化された風景であることに変わりはない。

だが、日本では人間と自然の関係が西洋のように対立的ではない。西洋では人間も自然も神の被造物であり、人間が神に代わって自然を支配する。「神の秩序」が崩壊した近代において、人間の自己意識によって見られた世界像として、近代絵画が成立する。しかし、日本には、西洋のような絶対的な神は存在しない。日本では、自然が「隠れたる神」である。自然は人間に対立するものではなく、人間は自然の一部として共存する。したがって、その文化も人工と自然を対立させるよりも、自然を洗練するものであり、文化の根底に自然が存在する。このような日本人の自然観は美的、宗教的傾向が強く、絵画における自然表現は、ある超越的なものの象徴として表わされることが多く、その風景表現を深く規定している。

日本の洋画は、1930年代に成熟期に入ったといわれる。明治以来、西洋の模倣にはじまり、絶えず西洋の新しい芸術思潮を受容しつつそれを日本化してきた洋画の成熟とは、模倣を脱し、独自の主題、独自の方法によって、「日本の洋画」を創造することである。洋画の日本化の流れのなかで、無名の風景に、あるいは名所をも無名の風景と同じように、日本の自然や文化として新しい意味づけが行われた。藤島武二《大王岬に打ち寄せる怒怒濤》、梅原龍三郎《山荘夏日》、須田國太郎《信楽》、児島善三郎《箱根》などである。これらの作品には、彼らそれぞれの日本の自然や文化に対する深い理解とその表現におけるおのおの独自の方法化がみられ、日本の洋画の水準を示している。

一方、戦中、戦後の後続の画家たちは、自然や伝統への回帰や既成の制度への従属を拒み、世界の風景化という状況のただなかで、世界と対峙してその心象を風景として表現する。松本竣介、麻生三郎、石井茂雄、池田龍雄、香月泰男、宮崎進らである。


3.人間

堀田善衛氏はその著『ゴヤ』のなかで、1783年以降、ゴヤは写真屋を開業した、といっている。それはゴヤが肖像画の名手であり、大量に制作したことを諷して、このようないいかたをしたのである。しかし、肖像画と写真は次の点において写真と異なる、と堀田氏はいう。それはすなわち、肖像画の場合は、そこに描かれている人物が似ているかいないかということが問題になるが、写真の場合、被写体との類似は議論の対象にならない。何故なら、原物との類似ははじめから前提とされているからである。

肖像画というものは、まずモデルと似ていることが要求される。さらにモデルの属する社会的地位にふさわしい威厳や気品、その時代の美の基準など、服装やさまざまな道具立てで演出するわけだが、そこには「画家とモデルとの絶えることのない内的な対話」、「一つの緊張した関係」が生じる。そして、その緊張関係そのものが肖像画の本質であるのだが、写真術の発明によって、画家たちは肖像画という形を通して人間を描くことを止めてしまった、というのである。

近代においては、画家とモデルの関係は、完全に画家の側に主導権は移った。画家はモデルを描写するのではなく、モデルを通じて自己を表現するのである。《クリスティアニア・ボヘームT》《二人:孤独な人たち》《窓辺の少女》などのムンクの作品やノルデの《肖像(アダ・ノルデ)》、あるいはピカソの《ジプシーの女》など、西洋世紀末の深い憂愁の影に彩られた人間像の表現は、モデルに仮託された画家の心象であり、「自己意識による世界の風景化」という事態が、人間の表現においてどのように表れているか、それを如実に示すものである。

また、たとえば、前田寛治の《赤い帽子の少女》という作品についてみると、このモデルの少女に対する画家の暖かい眼差しを感じとれる。しかし、前田はモデルの感情や人間的背景に顧慮することなく対象と距離をおいている。この作品のポイントは、題名にも示すように少女の赤い帽子と洋服、すなわち人物のコスチュームの赤である。それを中心に、全体の構成、面、色彩、ヴォリュームの照応、色調、絵具の質感、マチエールなど、この作品では画家の感情の表出よりも造形的配慮が優先されている。ここには前田が追求した新しい写実が試みられているが、それは対象のリアリティではなく、絵画のリアリティである。

「内面の発見」は、当然自画像にいきつく。自己意識は、自己を他者としてみつめるのである。日本の1910年代は、個性主義芸術の時代といわれるが、それは自画像の全盛期でもあった。肖像画と写真の事例を出したついでにいえば、1910年代は、絵画を模倣していた写真が、戦争や革命のなかから独自の表現力を示しはじめた時期である。写真は記録性においてその表現の特質を現し、他方、絵画は内向し、純化していった。

近代の画家は、たいていだれでも自画像を描いた経験があると思われるが、明治末期の青木繁から、岸田劉生、中村彝、村山槐多、関根正二らにいたる、早く亡くなった画家たちの大正期の自画像が多い。これらの画家たちの場合、彼らの芸術全体のなかでも自画像が大きな意味をもつ。自画像とは、鏡のなかの他者である。自己という熟知しているようにみえて実はもっとも不可解なもの、その姿は鏡によってしか見るすべはないが、それは底知れぬ深さをもつ表面である。画家が自らが何者であるのか、アイデンティティを求めて自画像を描くのだとすれば、おそらく謎はますます深まるばかりであろう。

このような自問自答を繰り返した画家は、村山槐多である。ある時はおどけてみせ、ある時にはヒロイックに自らの姿を眺めた。それは己の過剰な生命感情を扱いかねているようであった。

中村彝も自画像を多く描いたが、この展覧会には《髑髏のある静物》が自画像として出品されている。中村には大正12−13年、亡くなる直前に描かれた、死を予告した遺言のような《髑髏をもてる自画像》という有名な作品がある。《髑髏のある静物》は、この自画像の部分にあたる。

髑髏と自画像といえば、ムンクの《死の踊り》を想起するが、中村のこの自画像は、「メメント・モリ(死を思え)」という警告などではなく、死を運命として静かに受け入れ、死とともに生きる決意を示すかのような、澄明な宗教画のような深い味わいをもつ作品である。したがって、東大の解剖学教室から借りてきたと伝えられるこの髑髏は、画家の精神の一部、いわば分身として表現されている。そのため、通常の主題分類では静物画とされるこの作品を、「不在の自画像」として、あえて自画像のコンテキストにおいて提示した。

自己と他者は交錯する。近代の画家たちは、自己のなかに他者を見いだし、他者のなかに自己を投影する。


4.「写す」ということ

岩橋教章の《鴨の静物》は、杉板の前に吊された鴨を克明に描き、本物と見まがうばかりである。岩橋にしろ高橋由一にしろ、明治初年の洋画家たちの描く絵は、写真のように対象を細密に描写する。実際、当時の油絵は、写真よりも便利で永持ちのする、現実再現の技術であった。彼らはそれを「写実」とはいわず「写真」と呼び、今日われわれが写真(photograph)と呼ぶものを捉影術などといった。由一らは、対象の全体を統一的にとらえるというより、部分を迫真的にとらえようとしたといえるだろう。

岩橋の《鴨の静物》は、トロンプルイユやスーパー・リアリズムのように、見れば見るほど実物そっくりであるだけに、かえって幻像でしかない絵画の詐術が露わになる。このような絵画の虚構性を前提としたうえで、絵画のなかにもうひとつの現実を再現する「写実」が現れる。画家の眼に見えるがままに表現される写像である。明治美術会や白馬会の画家たちは、それぞれに作風はちがっていても、基本的にはこのような写実表現のカテゴリーに入るだろう。

これに対して、岸田劉生や萬鐵五郎らは、対象の再現に感情移入するのではなく、彼ら自身の感情に忠実にそれを直截に表現しようとした。彼らは対象の形を写すのではなく、彼らの生命感にリアリティを与える形象を求めた。つまり、彼らが写そうとしたのは感情の形であったといえる。

だが、絵画が主観の表出を強調し、主観が一方的に対象を凌駕していく事態に対して、あらためて自己意識(主観)と客観的世界(対象)の関係の再構築が試みられる。岸田劉生は、「反近代」を自覚して「写す」ということの意味を問い直した。「自己」という生命体の神秘、「もの」が存在するという不思議さ、すなわち「実在」という問題に直面した劉生は、「内なる美」を求めて、対象の精密な再現的描写を行い、さらに真の実在を表現するために、「写実の欠如」を提唱するにいたる。

劉生の細密描写は、一見高橋由一のそれに似る。たしかに、日本の近代洋画に由一から劉生にいたる、一種土着的な写実の系譜といったものを考えることができる。しかし、劉生の写実は、絵画というものは実用とは無縁の虚構であることを知ったうえのもので、主体と客体の、自己と世界の葛藤を内包していた。この点で由一と異なる。 写実表現において、劉生が「写実の欠如」といった、存在の深さを求める、絵画という虚構の世界におけるリアリティの追求は、この展覧会では坂本繁二郎や森芳雄らの作品のように、さまざまなかたちで展開する。

「写す」という行為も、靉光の《鷺》や麻生三郎の《目B》や《人》、あるいはジャコメッティの《正面向きの裸婦》などの作品においては、表現者と対象との疎隔が感じられる。これらの作品は、対象世界との調和が失われ、統一的な世界像が崩壊した時代の写像というべきものであろう。「写す」ことは、対象との関係そのものを問うことになる。彼らの素描は、「写す」ことによって、解体し断片化した世界を懸命に回復する試みのように思え、何か存在の核のようなものを模索しているようにみえる。その点では、柳原義達の《バルザックのモデルたりし男》も、実存する人間の根源的な生命の形態を探るもので、同じ時代の感情を表象している。

また、「写す」ということは、表現の素材や技法の相違によって、異なった様相を示す。版画の場合、版に彫りさらにそれを紙に転写するという、写す行為を二度重ねる。この間接性と抽象性、さらに版という媒材の特質もその表現と不可分である。恩地孝四郎の《萩原朔太郎像》や《北原白秋像》は、恩地が敬愛した詩人たちを、木版特有の柔らかい明快な平面性を生かして、それぞれに純粋な精神的存在として巧みに表現している。浜口陽三や長谷川潔らは、マニエル・ノワールという銅版画の微妙な陰影を表わす技法によって、深々とした独自の表現世界をつくっている。

木彫の橋本平八は、彫刻は物体が人間本来の精神を宿して立体として蘇ったものだという。したがって、橋本の制作した《猫》は、彼自身の姿にほかならず、《石に就て》という作品は、自然の石を超越した生命をもつ石、かれの言葉によれば、石の「仙」を表現したという。橋本にとって、「写す」という行為は、対象が動物や人間、あるいは石のような無機物でも、それが何であれ、それらの形を再現するのではなく、木という物体に「純粋精神」という命を吹きこんで、彫刻として甦らせることであった。「形似」よりも「精神」を重んじる、このような「写意」の立場は、東洋の伝統思想であり、中国や日本では、それを「伝神」といい、「気韻生動」といった。しかし、橋本の表現論は、単なる伝統回帰ではなく、西洋の「写実」を通過したうえでの主張であったことは、指摘しておかねばならない。

日本では江戸時代に、池大雅らの文人画の「写意」の立場、円山応挙らの「写生」の立場という異なった考え方があった。西洋の「写実」との出会いからはじまった近代日本画は、円山四条派の「写生」に西洋の「写実」を融合させて近代化を図り、また、大正期には速水御舟や国画創作協会の画家たちが、西洋のリアリズムを意識した細密描写を試みるなど、西洋の「写実」から強いインパクトを受けた。

一方、「写意」の方は、明治末期から大正期にかけて、文人画の人格主義と近代の個性主義が共通のものとみなされ、文人画は表現主義芸術に先行するものと考えられ、「写意」の概念が再評価された。このように「写生」や「写意」という概念は、近代において、新たな意味づけを与えられたのであるが、日本画においては、自然や現代の風俗など眼前のものを描く場合も、歴史や文学などをテーマとし、それらを様式化して表現する場合も、根底に「写生」がなければならない、と考えられる。しかし、それは西洋の「写実」とは異なったものである。「写生」は「生」を「写す」という意味である。人間と自然を対立的にとらえる西洋の二元論的自然観と違って、そこには人間を自然の一部と考える自然観がある。


5.かたち・言葉

美術作品は、造形作品といわれるように、色彩とかたちをもった物体である。作品は、すでにのべたように主体と客体のさまざまな関係を内包しつつも、色と形をもった一個の物体として提示される。したがって、作品を見るという行為は、この特別の意味を与えられた物体の視覚体験である。とりわけ、近代美術は、作品を色と形の自律した空間として純化した。この展覧会で、「かたちの行先」と名づけられた展示空間は、平面や立体の作品を「かたち」という観点から構成している。

「かたち」は、作者のコンセプトによって多様であり、作品の形式や素材によっても規定される。元永定正の《作品》は、キャンバスの白い地塗りの上に画面いっぱいに細長い山のような黄色い平面的な「かたち」が描かれ、上部の輪郭線に沿って黒い点々がほどこされている。この明快なユーモラスな「かたち」は、その後この画家が多彩に展開する「かたち」の原型というべきものである。

一方、清水九兵衞の《FIGURE−B》は、ステンレスや合板を湾曲させて直線と凹凸のフォルムによって作品を構成し、全面を艶消しの朱色で覆って、ゆったりと柔らかい、静かでおおらかな存在感を示している。いずれも曲線的な「かたち」という点で共通するが、平面と立体、赤と黄色など、材質、形状、色彩、作家の資質など、この両作品は興味深いコントラストをみせる。

カルマチャリャの《チンダーマスターカ・ヤントラ》は、チベット仏教のコスモロジーを整然とした正方形のユニットによって示し、エッシャーの《秩序とカオス》は、同じ正方形が秩序の不安定なゆらぎを表し、《メタモルフォーシスU》は、変幻する図と地や形の戯れを視覚化している。

小清水漸の《作業台−水鏡−》は、ありふれたテーブルの表面に水をたたえるくぼみが彫られており、若林奮の《中に犬2》は、四つの支柱をもった鉄板の表面に自動車の車体の上部(表皮)、その下の支柱の内部の中空に有機的な生命体のような物体が宙吊りされている。彼らは木と鉄、それぞれ異なった素材や手法を使って、日常的なイメージを援用しながらそれらを異化して、「かたち」のみに可能な不思議な認識の裂け目を可視化している。

6番目の「日々あらたに/ふるびない/くらしを映す」と名づけられた展示空間は、川喜田半泥子の陶芸と浅野弥衛の絵、それに韓国の現代作家河鍾賢の平面作品で構成される。

半泥子は三重県生まれの元銀行頭取で多彩な趣味人であったため、「光悦以来の数寄の作陶家」などといわれる。半泥子という雅号が半ば泥(なじ)んで泥(なじ)まずという禅語に由来するように、茶人であって茶人ではない、作陶家であって作陶家ではない、しかし、築窯から土探し、土作り、ろくろ、釉かけ、窯焚きなどすべての工程を徹底して自力でやるというプロ顔負けの型破りの陶芸家である。その作陶もまた作者の自由な精神を宿してスケールの大きい闊達さで知られる。

浅野弥衛は元職業軍人、戦後は信用金庫の役員などをするかたわら絵を描いていたが、その後絵に専念し、鈴鹿に定住して飄々淡々と絵を描きつづけたその生涯は、「市隠」というのがふさわしい。しかし、モノトーンを基調に、丹念に下地をつくりその上に線刻していく浅野の絵画の純度の高い造形性は、現代絵画の最良の部分というべきものである。
 半泥子の作陶三昧、浅野の農作業のような着実な制作は、披らのただ焼物が好き、絵が好きという一念から生じている。そこではつくることがそのままごく自然に生きることであり、制作と日々の生活は間然するところがない。このような自由な精神もまた、「かたち」に還元されてこそ、われわれが共感することができるのである。「かたち」を通してみれば、河の作品もモノトーンで、しかし浅野とはちがって、強い圧力を加えて絵具をキャンバスに浸透させ、左官が壁を塗るようにストロークを反復しているが、その営為に共鳴しあう点がある。

われわれは美術作品を「かたち」として感受する。「かたち」には言葉とは異なった豊かなメッセージがあり、そこでは言葉は要らない。造形作品は、言葉に表せないものや目に見えないものを「かたち」にする。だが、われわれは言葉を介在させなければ、感受した作品体験を客観化できないし、共有することができない。

たとえば、人間の心の闇を形象化したゴヤは、ナポレオンのスペイン侵攻をモチーフにした《戦争の惨禍》において、その惨状や愚行を犯す人間の本質を描いた。この一種のルポルタージュ形式の連作では、各場面を指示する鋭い寸言がイメージを補完しており、ゴヤの深いヴィジョンを示すうえで、言葉が重要な働きをしている。

ルドンの《ヨハネ黙示録》、ブレスダン《善きサマリア人》《鹿のいる聖母子》などでは、神話や聖書、文学など言葉によって紡がれたイメージに触発された画家たちが、新たなイメージを創出している。飯田善國の《クロマトポイエマ》は、西脇順三郎の英詩に飯田が絵をつけた詩画集である。題名は、ギリシャ語のchroma「色」とpoiema「詩」を日本語の助詞の「と」で結合した合成語である。地下鉄の路線図のようなこの作品は、英詩をアルファベットに分解して個々の文字に特定の色を対応させてつくりあげた、詩の言葉の宇宙と等価の「かたち」の世界である。ここには詩人や画家の感情移入を排した、自律した「かたち」の世界があり、言葉と「かたち」の新しい関係がみられる。

「かたち」は、ある時は言葉や文字をともない、言葉のイメージの喚起力や文字の記号性と相携えながら、「かたち」固有の豊かな表現の世界を拡大する。

(三重県立美術館館長)

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