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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1998 > 宇田荻邨と古典絵画 毛利伊知郎 コレクション万華鏡展図録

宇田荻邨と古典絵画

毛利伊知郎

 三重県松阪市出身の日本画家宇田荻邨は、大正期から京都で活動を始めて、1979(昭和54)年に83歳でこの世を去るまで、季節とともに様々な変化を見せる洛中洛外の風景を描き続けた。

 60年以上の長きにわたる荻邨の画業には、いくつかの大きな転機があり、その中には近代日本画の展開を探る上で重要な問題も含まれている。たとえば、第二次大戦前においては、当初は菊池芳文に師事して四条派を学びながらも、国画創作協会に代表される1910年代から20年代頃の京都日本画界における新しい傾向と軌を一にする活動を行っていたこと。1920年代半ば以降、1930年代から40年代にかけて、荻邨はそうした新傾向を離れて、いわゆる古典的なスタイルヘと転換したことなどがあげられるだろう。

 もちろん、後者の1920年代後半から30年代における古典的な作風の台頭は、荻郎に限ったことではない。それは、京都や東京という地域、あるいは画家の所属団体を問わず、当時の多くの日本画家たちに共通することである。そうした昭和前期の日本画に見られる、漠然と古典的と呼ばれてきたものの内容を詳細に検討する必要が近年指摘されているが、本稿ではそうした昭和前期における古典的と呼ばれる作風がどのように登場してきたのか、そのケース・スタディとして宇田荻邨を取り上げることとしたい(註記)。 註記
 こうした、大正未頃から昭和前期にかけての日本画に見られるいわゆる古典的傾向をどのように考えるべきか、用語の問題も含めて論述した研究として、以下の論考が参考となる。

 濱中真治「〈新古典主義〉って何?-研究ノートより-」『山種美術館開館30周年記念特別展 三人の巨匠たち-御舟・古径・土牛』図録所収(山種美術館 1996年)

 また、古典研究とモダニズムとの関係等も含む昭和初期の日本画の諸問題については、次の論文が参考となる。 大熊敏之「感覚と構成のはざまで-一九三○年代の日本画のモダニズム」『日本美術院百年史 第6巻』(日本美術院 1997年)
 宇田荻邨が日本画壇に本格的に登場したのは、1919年(大正8)の第1回帝展出品作《夜の一力》によってであった。アール・ヌーボー調の夢幻的な雰囲気をたたえたこの作品で荻邸は、宵闇の中に京都祀園の一力の堂々たる建物を幻想的に浮かび上がらせ、同時に表通りと裏通りの明と暗、喧噪と静寂との対比を視覚的に表現することに成功して、帝展初入選を果たすことになった。こうした西洋の世紀末絵画に通じる耽美的傾向を示す作品は以後も続き、《太夫》(1920年)《港》(1921年)《木陰》(1922年)など初期の代表作が1922年(大正11)頃までに生み出されている。

 ところが、その後荻邨の作風に変化が見られるようになった。近年、北川久によって1923年(大正12)年が荻邨にとって大きな転機の年であったという指摘がなされた(北川久「宇田荻邨〈花畑〉の周辺 大正十二年の変貌について」『三彩』539号 1992年8月)。同氏は、関東大震災のために中止された帝展に代わる形で開催された日本美術展に出品された《花畑》(1923年)が、大正後期における荻邨の作風転換のいわば分水嶺をなしていると指摘している。北川氏は、当時荻邨は土田麦僊を通じて知ったルドンに強い関心を抱いていて、この《花畑》はルドンの作品から刺激を得て制作されたもので、それまでのデカダンスな作風からの脱皮を模索していた荻邨によって行われた試みの一つであったという。

 この《花畑》という作品は現在所在不明であるが、三重県立美術館にはその大下絵が保管されている(この大下絵について、従来当館では「夏の花園」の題名を付していたが、図柄を見れば《花畑》の下絵であることは明らかで、訂正を行いたい)。

 大下絵を見るだけでも、荻邨がこの作品で従来とは異なる表現を試みようとしていたことが窺える。それまでの帝展出品作は、京都周辺の風景や人物などに取材して描かれていたが、この《花畑》では、荻邨の関心はダリアや向日葵など夏の花々に向けられていて、必ずしも京都の風景・景物と結びついた主題ではなくなっている。また、それまでの暗い色調は影をひそめ、赤、青、黄の鮮やかな原色が多用されている。さらに、これは前年の《木陰》の樹木の表現にも部分的に認められたことだが、花々にある種の象徴的な意味が込められていると見られる点も、この作品の大きな特徴といえるだろう。

 《花畑》は、おそらく花を描いたルドンの作品から何らかのインスピレーションを得ていると思われるが、直接的な関係がどれほどあるかは疑問であろう。しかし、北川氏の指摘のように、この作品で新たな表現を荻邨が試みていることは明らかだ。

 《花畑》を描いた翌年の1924年(大正13)に、荻邨は《巨椋の池》を、また続く1925年(大正14)には《山村》をそれぞれ帝展に出品している。そして、特選と帝国美術院賞を受賞して、画壇での荻邨の地位を不動のものとした《淀の水車》が描かれたのは、1926年(大正15)荻邨30歳の時であった。

 これら1924年(大正13)から26年(大正15)にかけて描かれた作品には、上記の《花畑》とは異なった複数のスタイルが認められ、荻邨が毎年新たな試みを続けていたことを窺うことができる。しかし、これらの作品に共通しているのは、新しい表現の源泉として荻邨が古画に眼を向けていること、主題が洛中洛外の景観から取られていることである。

 《巨椋の池》(fig.1)は、京都南部にあって1933年(昭和8)以降干拓によって消滅した湖沼だが、荻邨は咲き誇る紅蓮の花々と飛翔する白鷺とを中心モチーフとして、静と動との対比が印象的な画面を描き出した。発表当時、既に石井柏亭が指摘していたように(「帝展の日本画」『中央美術』第10巻11号、1924年11月)、この作品がいわゆる蓮鷺図(蓮池水禽図)の系列に属すことは明らかで、元未明初と見られる伝顧徳謙筆《蓮池水禽図》(fig.2 東京国立博物館)や南宋頃の筆者不詳の《蓮池水禽図》(法隆寺)といった日本に請来されている中国の蓮池水禽図が荻邨の念頭にあったと考えて大きな誤りはないだろう。 一方、第6回帝展出品作の《山村》は、完成画は所在不明で、詳しい表現等は確認することができない。しかし、現存する大下絵を見ると、前年の《巨椋の池》とは全く異なる作風を示す作品であったことは間違いない。下絵を見ると、荻邨は山間の集落の風景を俯瞰的に描いているが、その作風はむしろ南画的と呼びうるもので、与謝蕪村あるいは呉春の山水表現が荻邨の念頭にあったとように思われる。

 荻邨の代表作となった《淀の水車》(fig.3)は、川岸の水車を大きく描き、二羽の白鷺を配して、鮮やかな群青や緑青を多用して装飾的に仕上げられた作品である。水車というモチーフや硬質な線描などに、桃山時代から江戸時代前半の作例が多く残る柳橋水車図(fig.4)あるいは宇治川図などとの親近性を認めることができよう。室町後半から江戸時代初期頃の大和絵系障屏画の存在を荻邨が意識していた可能性を想定しても、大きな誤りではないだろう。

 1927年(昭和2)に描かれた《溪間》(fig.5)は、《淀の水車》とは一見異なる作風を示してはいるけれども、やはり荻邨の桃山障壁画研究から生まれた作品として位置づけることができると考えられる。崖から流れ落ちる滝と水流をメインテーマとしたこの作品は、その画面構成や圧縮された遠近表現などが狩野元信筆の旧大仙院襖絵・四季花鳥図(fig.6)の一部と近似しており、荻邨が帝展出品作などの大作を制作する際に、その大画面構成の範を桃山障壁画に求めていたことを物語る作例である。


fig.1


fig2.


fig.3
fig.4          fig.5         fig.6

その後、荻邨は先輩画家土田麦僊がしばしば描いた大原女との関連を予想させる《高雄の女》を1928年(昭和3)に発表している。麦僊は、渡欧前の1915年(大正4)にも長谷川等伯研究の跡が見られるスタイルで大原女を描いたが、約1年半の滞欧から帰国した1923年(大正12)に再び大原女を主題とした作品に取りかかった。この作品の大下絵は、翌年の国画創作協会の展覧会で発表されたが、本画が完成したのは1927年(昭和2)のことであった。発表時期の前後関係からすれば、麦僊の大原女を見て刺激を受けた荻邨がこの《高雄の女》を制作したという可能性が想定できるかもしれない。

しかし、ここで注目されるのは、麦僊の《大原女》が滞欧の成果を活かして、西洋絵画的な表現を盛り込みながら描かれているのに対して、荻邨の《高雄の女》には西洋絵画的な要素は全く認められないことである。

1910年代後半から20年代初頭にかけて、伝統的な日本絵画の表現からは大きく乖離した耽美的な傾向の作品を描き、またルドンの作品から強い刺激を受けて、1923年(大正12)の《花畑》を制作したこともある荻邨ではあったが、たとえ西洋絵画研究の成果が顕著な麦僊の《大原女》を見ても、もはやそれに倣うことはなかった。荻邨の眼が、専ら日本・東洋の古画に向けられていたことを《高雄の女》は物語っていると考えられる。

1930年代以降、荻邨の官展への出品作は、《エリ》(1931年)、《竹生島》(1932年)、《梁》(1933年)、《粟》(1935年)、《神鳩》(1938年)、《寒汀宿雁》(1939年)と続き、1940年代初頭には《新秋》(1940年)と《林泉》(1941年)の二作品が描かれることになる。

1930年代に描かれた《エリ》や《梁》では、画中の鯉などの描写は円山四条派風であるが、同時に琳派風の草花も見ることができる。また、これら二作品で大きな比重を占める、装飾的に様式化された水流と波濤の表現は、円山四条派だけでなく、琳派や桃山時代狩野派などとの関連も予想させるところがある。

一方、《竹生島》(1932年)では、1925年(大正14)の《山村》にも認められた蕪村や呉春につながる山水表現や、室町から江戸時代前期頃の大和絵系作品にしばしば見られる水波表現との関連を予想させる描写が見られる。 《林泉》(1941年)は、《竹生島》の表現を展開させ、同時に土田麦僊が1924年(大正13)に発表していた《舞妓林泉》との関連を窺わせる作品ということができる。荻邨と土田麦僊は、一時期ともに知恩院崇泰院内で生活したことがあり、また1933年(昭和8)には北野白梅町の麦僊の住まいを荻邨が譲り受けるなど、二人は極めて親しい関係にあったが、9歳年長の麦僊に寄せる荻邨の姿勢は、上記のように実作品の上からも窺うことができる。ちなみに、《新秋》(1940年)は、荻邨が非常に尊敬していたという菱田春草の《落葉》(1909年)と無関係ではないだろう。こうした点からは、古画のみならず先輩画家の作品の研究によっても、自身の画嚢を豊かにしようとする荻邨の意欲を窺うことができる。

以上、1920年代前半から40年代に至る宇田荻邨の主要作品を、古画あるいは先行作品の研究という観点から検討してみた。荻邨の場合、古画に関しては中国絵画、漢画系・大和絵系双方の桃山時代障壁画、琳派、蕪村・応挙・呉春などをかなり幅広く研究したことが窺われる。その中では、《淀の水車》《溪間》などに代表されるように、桃山時代障壁画が占める比重が大きいと考えられるが、こうした古典研究のあり方は、初期のスタイルからの脱皮を求める荻邨によって様々な試行錯誤がなされたことを暗示していると思われる。

次に、そうした古典研究がどのように画面に現れているかについてもう少し検討してみよう。《えり》や《梁》などでは、鯉や水流、波濤などに一種様式化した描写が見られる。もちろん、写生を旨とした円山派の系譜につながる荻邨は、一つの作品を制作するに当たって、数多く様々な写生を行い下絵を描いていた。画中の個々のモチーフが粉本の類から取られたものではないことは、数多く残る荻邨の写生帳を見れば明らかだ。しかし、そうであっても、たとえば《えり》に描き込まれた鯉の姿が、いわゆる応挙以来の円山派風の鯉魚になっていることも事実である。

また、《溪間》は洛北・清滝川での写生に基づく作品であることが、現存する下絵から知られるが、前述したようにその画面構成に狩野元信の旧大仙院襖絵と似通う点があることを指摘することができる。これは、たとえ実景の写生から生まれた作品であっても、作品全体の構想や雰囲気が古画のそれを拠り所にして生み出される場合があることを示している例ということができる。中国の蓮池水禽図を連想させる《巨椋の池》も、そうした作例としてあげることができるだろう。

いずれにしても、1920年代初頭の荻邨画に強く見られた西洋絵画への傾斜は全く影をひそめている。京都、東京を問わず昭和前期の日本画界に広まったいわゆる古典的傾向の内容は、画家によって様々である。荻邨の場合は、一言でいえば、上記のように漢画系・大和絵系をとわず、新しいスタイルを確立するための拠り所として桃山時代から江戸時代初期の障屏画への関心を深めていたということができよう。

作品を見る限り、荻邨による古典研究の成果はモチーフの描写や画面構成に強く現れているが、その現れ方は個々の作品によってかなり大きな振幅があり、必ずしも統一的な作画理念にまでは昇華されていない。

1930年代以降、総体的に明るく淡い色彩の使用とグラデーションや陰影を用いない平面的な描写への志向が次第に強くなる傾向が認められ、それが作品全体のいわゆる古典的なスタイルの形成に大きな影響を与えているとは重要なポイントである。

しかし、現時点では、それが20年代初頭頃までの作品で多用された暗い色調や陰影表現への反省から自発的に生まれたものか、あるいは古画あるいは先輩画家の作品研究に由来するものかどうか筆者には断定しがたい。

渡欧することがなかった荻邨には、西洋絵画の表現をも取り込みながら、初期の作風を脱した新しいスタイルをつくり出そうという意識はほとんどなかったと考えてよいだろう。1923年(大正12)の《花畑》が、ルドンヘの関心から生まれたというのは例外である。これ以後、荻邨が自身の制作のために西洋絵画を研究しようとしたことはほとんどなかった。そうした意味で、荻邨の行き方は、日本・東洋の古画研究を行いながら、同時に実際に渡欧して西洋絵画から受けた強い刺激を以後の制作に何らかの形で反映させていった土田麦僊や小野竹喬らとは大きな隔たりがあった。そのような荻邨の姿勢が、終生数多く描かれる京洛風景画の成立とも大きく関係していると見られ、それらの作品の基層には荻邨が京都で親しく接することができた桃山時代障屏画群があったと考えることができるだろう。


宇田荻邨については、以下の文献を参照。

『画業60年記念 宇田荻邨展』図録〈サンケイ新聞社 1977年)
『宇田荻邨』藤田猛(京都書院 1978年)
『宇田荻邨 現代日本画全集 5』塩川京子(集英社 1982年)
『没後三年記念 宇田荻邨展』図録(三重県立美術館 1983年)
『宇田荻邨写生帖』内山武夫(京都書院 1988年)
『本画と下絵 宇田荻邨と近代日本画』図録(三重県立美術館 1992年)
『京洛の四季を描く 宇田荻邨展』図録(東京ステーションギャラリー 1997年)

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